序章

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序章

「より子です」  十歳になった私は、目の前の小さな女の子の遊び相手として女中奉公に上がった。  ここまで私を引っ張ってきた男に、声が小さいと叱られる。奉公先は選べない。奉公先が天国か地獄かさえ分からない。    ここはどちらだろうと心臓が激しく揺れている。  広いお屋敷に身体が萎縮する。奉公人を雇える家ならどこも大きいのだろう。  私は長屋住まいだったため、こんなにも大きなお屋敷は初めてだった。  汚い足で上がるんじゃない、と最初に言われて、たわしでゴシゴシとこすられた足が赤くなりヒリヒリしている。ボロボロの着物が途端に私を恥ずかしい気持ちにさせた。 「櫻子ちゃん。新しいお友達ですよ。仲良くできますか?」  女の子の傍らで微笑むのは、この家の奥様で、女の子の母親。  女の子のくりっとした瞳がみるみる濡れていく。 「やーー! いやいやー! ややーー!」  女の子の泣き声が屋敷に響き渡った。  奥様が女の子を抱きしめる。  覚悟を決めて奉公に上がったとはいえ、まだよく知らぬ屋敷で、自分が仕える主に泣かれてしまえば、私だって泣きたくなる。  唇を噛んで堪えた私を、褒めてくれる人なんていない。 「別の子どもに変えましょうか」  男が何の感情もない声でそう言った。  ――ああ、別の所に連れて行かれるんだ。  私は少しだけ落胆した。  きっと私は心のどこかで「ここで頑張るんだ」と覚悟を決めていたのだ。 「そうね。……いえ、もう少し様子を見てからでいいわ」  奥様が私に向かって微笑む。 「シズ、より子を頼みます」 「承知しました」  奥様の後ろに控えていた女中が頭をたれる。奥様は泣きじゃくる女の子をあやしながら近くの部屋に消えた。  私はシズさんに女中部屋に連れて行かれ、お仕着せに着替えさせられた。お仕着せと言っても私の着丈に合った着物に、白い前掛けだ。臙脂色と白色の縦縞模様の着物は織目が細かく、子どもの私が見ても上等なものだとすぐに分かった。 「働くのは明日からでいいって。良かったね。今日はゆっくり休みな。お腹空いたら下の台所においで。夜は最後にお風呂に入らせてあげるよ」  シズさんは自分の仕事に戻ると言って女中部屋を出て行った。シズさんの手には私が着ていた襤褸の着物があった。きっと捨てられるのだろうと何となく思った。  一人残された部屋をくるりと見回す。住んでいた長屋より広い。ここには何人の女中が働いているのだろう。  私は窓側の障子をそっと開けてみた。  広い庭でも見れるかと期待したが、目の前に現れたのは大きな木だった。 「あれ? 新しい子?」  木が喋ったのかと思った。しかし枝葉の間からひょっこりと小さな顔が現れる。 「ひっ」 「ごめん、驚かせたかな」  驚きが引き金となってしまったのか、私の目から雫がこぼれ落ちてしまう。 「ごめんなさいごめんなさい」  私は必死に謝る。泣いてごめんなさいと。すぐに泣き止むから怒らないでと。 「謝らないで! 大丈夫だから、ね?」  その子は優しい声で小首を傾げると、ゴソゴソと身をよじり、それからハンカチを差し出した。 「拭いて。僕が驚かせたせいでしょう。だから気にしないで使って、ね?」  受け取るべきか悩む私の前になおも差し出し続ける男の子の体が少しだけ傾いだ。 「ぅわっ! 危なぁ〜い。落ちるかと思ったよ。早く受け取って欲しいな。でないと僕が木から落ちてしまうよ」  男の子の顔を見ると、ふわっと笑う。 「ありがとう。……ございます」 「うん!」  私は遠慮なく頬をぬぐった。 「これ、ええと、洗濯して返した方が、いいのかな? あ、いいですか? いいでしょうか?」 「ふふ、ふははは」  突然男の子が笑うので私は言葉を間違えたのだと思った。叱られるのだろうと身構える。しかし男の子はひとしきり笑って「あげるよ」と言って木から下りていく。 「でも」  男の子が地面にトンと下りた。 「頑張ってね!」  男の子が手をひらひらとさせた。すぐに姿が見えなくなる。  私と同じ年齢か、ひとつ、ふたつ上か、といった男の子。このお屋敷で働いていたらどこかでまた会えるだろう。  名前の知らない男の子。使用人の子だろうか。それともお屋敷の子だろうか。    夕暮れの空が薄藍に染まっていった。
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