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「忠之様、失礼いたします」
「どうぞ」
部屋の扉に声を掛けると、応答がある。私は静かに扉を開けて、櫻子お嬢様が帰宅した旨を告げた。部屋の中では三人の青年が談笑していたようだ。
「わざわざ済まないね。櫻子は部屋にいるのかい?」
櫻子お嬢様の婚約者である、坂本孝介様がソファから立ち上がりこちらに向かってくる。
「はい。お待ちでございます」
涼やかなお顔立ちの孝介様は現在大学に通われている。卒業する二年後に祝言を挙げる予定だ。
孝介様が忠之様の部屋から出るのを見届けて、扉を閉めようとすると、中にいた近藤様に呼び止められる。
「女中ちゃん、ちょっと待って」
「はい」
どのようなご用件でしょう、と近藤様を見上げると、とろけるような微笑みが返ってきた。年若い女中たちが黄色い声を上げるその表情。たしかにこの微笑みは眼福である。しかし私は微動だにせず用件を待った。
「僕のこと嫌いでしょう?」
「いいえ」
近藤家の三男坊は遊び人という噂があるため警戒はしているが嫌いではない。ただその乱れた遊びが、お嬢様や婚約者の孝介様に悪影響を与えないかと心配ではある。
しかし周りへの配慮は怠らない方なので私の心配は杞憂で終わる可能性が高い。先日は、お茶を運んだ女中が「有理様がお茶のお礼にと金平糖をくださったの」と喜んでいたのを覚えている。
「ご用がないようでしたら、戻らせていただきます」
「あるある! 大事な用があるんだ!」
ぐいっと身体を乗り出され、清潔な香りが鼻先を掠めるので、私は思わず頭を後ろに引いた。
「お伺い致します」
努めて冷静にそう答えると、近藤様は背広のポケットから何かを取り出した。
「これなんだけど」
何が出てくるのかと私は自分の眉が寄るのを自覚して、眉間の力を緩める。
近藤様の指には乳白色のボタンがあった。そして近藤様は次に手首の白シャツを示す。
「袖の所が取れてしまってね。誰かボタンを付けれる子はいるかな?」
「はい。私でもよろしければ、お付けさせていただきます」
ボタン付けは覚えたばかりである。今日も端切れにボタン付けの練習をした。リンさんに綺麗に縫い付けられていると、お墨付きをいただいたので出来るだろう。
「裁縫箱を持って参りますので、お待ちくださいませ」
私は急いで裁縫箱を取りに行く。裁縫箱は台所に置いてきてしまったため、二階から一階へと階段を下りた。
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