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 裁縫箱を持ってまた忠之様の部屋へ行くと、近藤様は扉を開けて待っていた。部屋には忠之様の姿がない。 「忠之は厠だよ」  心を見透かされたようで少し心地が悪くなる。 「ごめんね、走らせてしまったかな?」  上気する私の頬に、近藤様の指が当てられた。驚いて思わず足を下げてしまう。 「あ」  そう声を出したのはどちらだろう。自分の心臓が大きく跳ねて苦しい。どうしてだか緊張して唇が震えてしまう。 「……ボタン、お付けしますね」  私の視線は裁縫箱から離れない。蓋を空ける手が少しだけ震えていた。私はその手を叱咤するように強く握り込み、手の平に爪を立てた。しかし手の平より心臓のほうが痛いのはどういうことだろう。  緊張する指で針と糸を取り、近藤様からボタンを受け取る。   近藤様はジャケットを脱いでから「シャツも脱ぐ?」と聞いてきた。 「そのままで、……縫えます」  まさかシャツを脱いでもらうわけにもいかず、そう言ってしまったが、着たまま縫い付けるということは近藤様に近付くということ。  ふわりとただよう芳香に眩暈がしそうになる。  近藤様の手首に針を刺すまいと、シャツの内側に指を差し込むが、近藤様の腕に触れていることが私を大きく緊張させた。 「何が好き?」  きっと緊張をほぐそうと話しかけてくださるのだろうが、顔が近くて集中できない。 「甘い物は?」 「食べます」 「裁縫は好き?」 「好き、とかではなく必要なことですので」  近藤様の息遣いが近い。耳朶にかかった近藤様の吐息に耳が熱を生む。 「洋裁は教えてもらったの?」 「……今、習っている所です。ボタン付けは綺麗に出来ていると言われましたので、ご安心ください」 「どんなに下手でも怒らないから安心していいよ?」  くす、と笑う声が私の耳を撫でると、背中がぞくりと震え立った。 「取れたらまたお願いしに来るから」 「次は近藤様の使用人にお頼みしてください」  こんな緊張を二度も味わいたくはない。心臓が口から出そうで、首元から上はやけに熱い。 「僕の名前、有理って言うんだけど」 「存じております」  みんなは「有理様」とお呼びしているが、わたしはどうしてもその名前を呼べず、かたくなに「近藤様」とお呼びしているのだ。 「女中ちゃんの名前は?」 「一介の女中の名など、近藤様のお耳を汚すだけでございます」 「だから有理だって……。呼んでくれないの?」    私の名前など教えたところで、新たな女の名前に上書きされて、きっとすぐに忘れてしまうに違いない。むなしくなるに決まっている。名前など教えないほうがいい。  私は玉止めをして鋏で糸を切る。 「出来ました」  鋏と針を素早く片付けて裁縫箱の蓋をした。  近藤様は付けたばかりのボタンをじっと眺めている。 「それでは失礼いたします」 「ありがとう。今度お礼にどこか出掛けない?」 「いいえ。お礼を求めてした事ではございませんので」  私はお辞儀をして、逃げるように部屋から立ち去った。  鼻の奥に近藤様の石鹸のような爽やかな匂いが残っていて頭がくらりとする。
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