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久しぶりの――と言っても十日に満たない期間――屋敷からは懐かしさを感じる。
すでにご家族の夕食時間になっていたが、わたしが女中部屋に戻るのを見届けるようにお嬢様は一緒に付いてきてくださった。
「ありがとうございます。お嬢様は早く食堂に行かれてください」
「食後にお母様を連れてきてもいいかしら?」
「いいえ、わたしが旦那様の執務室にお伺いします」
「大丈夫なの?」
「はい」
わたしは強く頷いた。何も無理はしていない。
もはやこの屋敷はわたしの人生の半分以上を過ごした場所。実家にもまさる安心感に心は落ち着いていた。すれ違った男の使用人を見ても怖くはなかった。ここで働く男たちへは信頼がある。
それがはっきりと分かったいま、倉本邸で怖いことはない。
「ねえ、昔みたいに夜は一緒に眠りましょう?」
「あら、それはお嬢様が八つになるまでのお話でしょう?」
「意地悪を言わないで」
「いいのですか?」
「いいも何も、わたくしがお願いしているのよ」
お嬢様の優しさに鼻の奥がツンと痛む。
「分かりました」
「ふふ。では食事に行ってくるわね」
「はい」
お嬢様の背中を見送っていると、お嬢様の向こうに茂が見えた。
「より子? 帰ったのか?」
茂の袖を掴んだお嬢様が、茂を止める。
「今日は駄目よ。より子が明日落ち着いていたらお話してあげて」
茂を見て一瞬、暴漢の二人が頭をよぎったが、わたしは目をつむり胸を両手で押さえて息を吐き出した。女中部屋から出る。
「お嬢様、わたしは大丈夫です。茂、ただ今戻りました」
「お、おう」
「より子、無理をしていない?」
「お嬢様、夕食が終わってしまいますよ」
「む~、もう分かったわ! 茂、頼むわよ。何かあったらすぐにわたくしを呼ぶのよ!」
「はい、お任せください」
そしてお嬢様は渋々というように階下の食堂に向かわれた。
お嬢様の背中が見えなくなり、そおっと視線を上げると茂の真っすぐな瞳とぶつかる。
「よお」
「ありがとう」
「あ?」
「あの時、わたしを見つけてくれて」
「いや、あの時、俺は何もできなかった。それにもっと早くに見つけることができていたら――」
わたしは首を横に振って否定する。
「一緒に買い物に出掛ける時は、一緒に店を回らないといけないって兄貴に説教された」
「え? いやいや、お嬢様の買い物ならいざ知らず、女中の買い物に付き添うことなんてないでしょう?」
案外普通に喋れていることに拍子抜けした。
ここに帰って来るまでずいぶん気を張っていたのだろう。
「だが」
「お団子食べる約束してて良かった。今度、……もうちょっと待って欲しいんだけど街に出る勇気が持てたら、約束してたお団子食べに行こう」
「は?」
「約束したもの」
「あの約束は、あの日限りのもんだろ。忘れろ。あの日のことは何もかも全て忘れろ」
忘れたいと思う。でも忘れられないことが一つある。青い色を見るたびに鎖骨の間が冷たくなるのだ。
「男たちを捕まえてくれたって聞いた」
「ああ。でも奔走したのは――」
「より子!!」
「より子が戻ってるって??」
茂の声を遮るように女中たちがわらわらと二階に上がってきた。
「みんな、ただ今戻りました。長い間申し訳なかったです。休んだ分まできっちり働きますので、またよろしくお願いします」
「ま~た、より子は真面目なんだから。おかえりなさい」
「おかえりなさい、より子ちゃん」
みんなの熱い抱擁に涙がこぼれた。
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