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 私の頭の中は茫洋としており、前から来る人に気付くのが遅れる。狭い廊下ですれ違うには端に寄らなければならないが、私は中央を歩いていた。 「前を見ろ」 「すみません」  寸での所でぶつからずに済む。しかし、相手はじろりと睨み下ろしてきた。博之様付きの使用人、茂であった。元々のツリ目が余計につり上がっている。  この人との結婚は、ないと思う。 「何だ?」 「いいえ。考え事をしていました」 「はっ、お前みたいな学のない女中が何を考えると言うのだ!」  女中を見下し、馬鹿にした態度は気に食わないが、相手にするだけ疲れるので、さっさと会釈して立ち去る。 「おいっ、より子!」 「仕事が残っておりますので」  ちらりと振り返って、それだけ告げる。足早に廊下の角を曲がってから、うるさいのよ、と私は床に向かって呟いた。  茂は家令の息子であるということで偉ぶった態度をとる。それが気にいらない女中は、私だけではない。  しかも、矢鱈と私に難癖をつけて絡んでくるのだ。  それは嫉妬だよ、と満に言われたのは私が櫻子お嬢様の御付に選ばれた頃だっただろうか。 『茂の初恋は櫻子お嬢様なんだよ』  だからより子に取られたみたいで面白くないんだあいつは。――と満は内緒話をするように私に耳打ちしてくれた。  しかも同じ時期に坂本孝介様との婚約も成立し、茂は自身のやる瀬ない思いを、私に投げつけてくるのだからタチが悪い。 「結婚か……」  櫻子お嬢様の産む赤子の乳母になれるのはとても嬉しい。しかし、そのためには私も赤子を産まなくてはならない。それもお嬢様より先に。  そして赤子を産むためには結婚しなくてはならない。 「お相手……。好いた殿方……」  ぱっと頭に浮かんだ人を必死に打ち消す。それだけは天地がひっくり返ってもあり得ないこと。  男の使用人とすれ違う度に「この人は」と考えみるが、「良い」と思える人はすでに所帯を持っているか、結婚できる年齢になっていない。  私は台所でお茶を用意して、櫻子お嬢様の部屋に運んだ。 「ねえより子、お父様のお話って?」  櫻子お嬢様は何の話で呼び出されたか分かっていて聞いている。 「乳母にならないかと。お嬢様、ありがとうございます。光栄にございます」 「嬉しいわ! より子にはずっと私の側にいてもらいたいのよ」  無邪気な顔で微笑むお嬢様は、私の憂いなど知らないだろう。いや知らなくても良いのだ。  相手がいない、結婚できない、などとお嬢様に相談することではない。 「そうだわ。明日は孝介さんと活動写真に行ってくるから、より子は半日お休みをもらってちょうだいな」 「お供は?」 「孝介さんの執事がいるから大丈夫なの。それに自動車でお迎えに来てくださるから」  自動車の日は、私の乗る席がないということで半日休みをいただくことになっている。 「かしこまりました」 「より子にはいつもたくさん働いてもらっているから、明日は羽をのばしてね!」  私はお礼をのべて、急に決まった休み時間をどのように使うか頭を悩ませた。
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