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『二十一時、ロイヤルポートホテル九○六ご新規 みわ様』
今日の予約メールを見てから、歯磨きを始めた。
港区で一番大きい、ロイヤルポートホテルでのご予約。このお客様、太客にできる可能性大だ。
外出する前にサッとシャワーを浴びる。吸水力抜群のバスタオルで全身を拭き終えたら、香水代わりにアロマのボディスプレーを適度に振り撒いた。
ワックスで毛先を跳ねさせ、指定制服の黒スラックスと白ワイシャツを着たら準備完了。ポリエステル製のボストンバッグを持って家を出る。
マンションの目の前にある大通りでタクシーを拾い、港区にある事務所に向かった。
「トオル、このお客様チャンスじゃない?」
小さな事務所には、女性オーナーの観月さんが一人。
観月さんはこの『メンズ出張セラピー プルーフ』を一人で回している。
とはいっても、俺を含めてセラピストは五人ほど。最近、退店者が増えているらしい。
他のセラピストのことはあんまり知らないけど、俺と同年代のやつが多いらしい。
「そうっすね……リピートもらえるように頑張ります」
観月さんは俺の背中をパシッと叩いて送り出してくれた。
夜風が冷たい、港区の街に出る。
「さむっ……」
バッグを肩に掛け、手が冷えないようにポケットに手を突っ込んだ。
冷えた手でお客様の体に触れるのは、サービスの低下に繋がる。
ついこないだまで夏日が続いていたのに、急に寒くなりやがって……思わず舌打ちをしてしまった。
ロイヤルポートホテルは、事務所から歩いて十五分。
これまでの人生を憂いながら歩けば、あっという間だ。
……いわゆる親ガチャに恵まれなかった俺は、産みの親が誰か知らない。
物心ついた時にはすでに、孤児院で育てられていた。
内気な性格も手伝ってか、孤児院の中でも特別愛情を注がれたわけではなく、学校も本当に最低程度しか通っていない。
十八になって孤児院を退所して、それからはフリーターをしながらのらりくらりと生きてきた。
クソみたいな人生だ。
そんなお先真っ暗な人生を歩んでいたある日、一筋の光が俺を照らした。
観月さんに出会ったのだ。
まるで捨て犬を拾うかのように、公園のベンチでただぼーっとしていた俺を、セラピストに誘ってくれた。
『あなた、ずっと何かに怯えているようね。そうやって周囲を睨みつけているのは、弱い自分を守るため?』
その言葉は、胸の奥深くに刺さった。
俺のことをちゃんと見てくれる人なんて今までいなかったから、観月さんという人間に興味を抱いたのだ。
そうして、流されるがまま、俺はセラピストとなった。
観月さん曰く、俺は悲しげな子犬みたいで、守りたくなる顔をしているらしい。
すぐに人気が出るという観月さんの言葉はその通りになって、人間としてマシな生き方ができるようになった。
今では観月さんのことを、本当の母親みたいに思っている。
……一人でも多くのリピーターを作ることが、観月さんへの恩返しになるのだ。
”ピンポーン”
重厚感溢れるホテルに入り、エレベーターで九階まで。
九○六号室のチャイムを押すと、三十秒後に静かに扉が開いた。
「どうぞ、中に入ってください」
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