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序
木々の隙間から漏れる木漏れ日が湖面に反射して、水中は星が浮かぶかのように光り輝いている。周りの木々は湖を囲むように立ち並び、風が吹くと一斉に葉が揺れて音を立てた。此処は竜守村と呼ばれる辺鄙な村にある森の中にひっそりと存在する湖だ。
「龍神様、どうか村にご加護を」
白い着物に浅黄色の袴を履いた二人の男が大幣を振る。竜守村の神事を担う彼らの間に立つ少女──冬華は、白無垢を身に纏い虚ろな目で佇んでいた。大幣が風を切る音とともに、彼女は裸足のまま一歩一歩地面を噛み締めるように前へ進む。美しい光景を前にしても表情が明るくなることはない。
そう、彼女はこの後自分がどうなるのか既に理解しているのだ。
「龍神様、どうか村にご加護を」
男たちが繰り返し上げる声は冬華の足を震えさせた。湖には龍神が住み着いている。その龍神の加護のおかげで竜守村は飢饉も水害も、流行り病さえも起きることがないのだ。ありとあらゆる災害から守って下さる龍神には御供え物で誠意を表さなければならない。
冬華の足に水が触れる。ゆっくりと時間を掛けて歩いたところで大した距離でもないのだから、無駄な足掻きであると分かっていた。いっそのこと逃げ出してしまいたいが、逃げたところで背後にいる男たちに捕らわれるのは目に見えている。
幻想的に光り輝く湖面も冬華の目には濁って見えた。美しいなどと感じられるはずもない。透き通っているのに底が見えない湖に一歩、また一歩と足を踏み入れる。水面が太腿にまで到達した瞬間に足が地を踏む感覚が消えた。
恐怖から後ろへ戻ろうとするも、水を含んだ白無垢の重さで身体は沈んでいく。息を吐き出すと頭がぼんやりとし始めた。不思議と息苦しさを感じないのは何故だろうと思いながらも意識は薄れていく。
(ようやく会えた)
凛とした声が響く。それは何故か耳からではなく、頭に直接流れ込んできた気がした。けれど、もう全てがどうでも良い。この先にあるのは死のみ。最後に何が起ころうが今更どうでも良い。
満月の夜、冬華は龍神に供える贄として湖に沈んだ。
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