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記憶がなくなるほど熟睡できるヘッドスパ。そんなうたい文句に誘われて、とあるビルの一室に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」
心の隙間にぬるりと入り込んでくるような甘ったるい声と、人当たりのいい笑顔に出迎えられてほっと息をついた。初めて行くお店というのはどうにも緊張してしまう。ソファとローテーブルが並ぶ待合室のような場所で、渡されたのはカウンセリングシートとペンだった。
「おつらい箇所や悩みなどがありましたら、遠慮なく記入してくださいね」
見とれてしまうような美貌にどきりとする。個人経営のようだから彼女が店主なのだろう。同年代に見えるが自分とはなにもかもが違っていて、同じ種類の生き物だと思えない。すらりとしたスタイルも、作り物みたいに整っている顔も、自信に満ちあふれている表情も。私がどれかひとつでも持っていたのなら、あの人に受け入れてもらえただろうか。
頭痛、疲れ目、首こり、肩こり、背中、腰、手足……気になる箇所のチェック項目のほとんどにレ点が入る。心身ともにひどく疲れている自覚はあった。たった一度の施術で改善されるとは思っていないが、ほんの一瞬でも現実を忘れて癒やされたかったのだ。
「書けました」
「ありがとうございます。……なるほど、かなりお疲れのようですね。少しでも楽になるよう精一杯施術させていただきます」
スパ専用の椅子はふかふかで、かけてくれたブランケットもふわふわの手触りで。包み込まれるような安心感に眠気を誘われていると、いい香りまで漂ってくる。ラベンダーを中心にいくつかのアロマオイルをブレンドしたような、深みのある芳香だ。
「改めまして、本日担当させていただきます、天宮と申します。よろしくお願いします」
「お願いします。……っ」
頭皮の状態を確かめるように触れた指が、早速ツボをとらえる。
「わあ、硬いですね……これはおつらいでしょう。力加減は大丈夫ですか?」
「ちょうどいいです」
ツボの方から天宮さんの手に吸いついているような錯覚をするくらいに的確な指圧だった。おでこの生え際、頭頂部、後頭部。もまれたり手のひら全体で圧をかけられたりして、じんわりと血が通っていく感覚に激しい睡魔が襲いかかる。
はちみつ色に染まる空間、甘い香り、ぽかぽかと温まっていく体。上下のまぶたがくっついて離れない。
意識がゆっくりと沈んで、霧散していく――。
目を開けると、ちょうど首や肩を指圧されている最中だった。とろけるような気持ちよさが押し寄せ、脳から背筋にかけてしびれが走る。
「お客様。この場所に来てしまったということは、心も相当お疲れのようですね」
優しい声が鼓膜にこびりつく。一度捕まってしまったら逃げられない罠のように。
ふと周囲を見渡すと、さっきまでいた施術スペースとは違う場所にいた。七色のパステルカラーのインクをこぼしたような無重力空間に、ヘッドスパ専用椅子と、そこに座る私と、天宮さんだけが存在している。これは夢なのだと理解した。
「はあぁぁ、そこそこ……夢の中なのにめっちゃ気持ちいいとか最高」
首の後ろのツボをぐぐっと押され、濾過されていない言葉をそのまま吐き出す。普段なら決して口に出せないことも今は気にならない。
「ゴッドハンドっているんだなぁ。これからも通いたいし、毎回天宮さんを指名したいくらい。あ、それ気持ちいいあああああ」
ぽこぽこと鼓膜も気持ちよくなるような叩打法を惜しげもなく披露されて、もう骨抜きだった。
「張ってますねぇ、デスクワークですか?」
「うーんまぁそんな感じですね。それに帰宅してからもずーっとディスプレイにかじりついてるから、休まるときがなくて」
「……頑張っていらっしゃるんですね」
その言葉の意味を認識した瞬間、瞳にじわりと涙がにじんだ。夢なのだから恥ずかしがる必要なんてないのに、ごまかすようにぱちぱちと瞬きを繰り返す。誰かに肯定されることがこんなにも嬉しいだなんて。
「そう……これでも頑張ってるんですよ。あの人のことが好きで、心配で、なにもかもを把握したくて」
「大切な方が……いらっしゃるんですね」
「そうなんです大切なんです愛しているんです例えあの人が私を憎んでいてもあの人が朝起きたときから夜眠るときまでずっと見つめていたいし声を聞いていたいんです!」
「ふふ、情熱的ですねぇ」
こっそり作った合鍵であの人の部屋に侵入し、カメラや盗聴器を仕掛けるのには苦労したし、仕事や家事で忙しい合間を縫ってデータチェックをするのも結構大変なのだ。
「だけどお客様、見ているだけで満足なのですか?」
「本当は同じお墓に入りたかったんですけどね、残念ながら接近禁止命令を出されてしまって。まったく、生きづらい世の中です」
「おつらいのなら、忘れさせてさしあげましょう」
「……え?」
「ここはそういう場所ですから」
不穏な雰囲気を感じて後ろを振り返る。天使のような微笑みが私の心臓をぎゅっとわしづかみにした。痛いくらいに強く、激しく。
「お客様の記憶を――つらくて悲しい感情を私がお引き取りいたします。滞りは流してあげないといけませんから」
なんて甘い誘いなのだろう。今まで報われることのなかった思いが走馬灯のようによみがえる。あの人から浴びせられた暴言。もう俺につきまとわないでくれ。迷惑だ。アンタと付き合うくらいなら死ぬ。今すぐにいなくなれ。消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ。
「わ、わす、忘れてもいいの。いいんですか。私の罪を」
「すべてを忘れて、新しい人生を」
「生きていいんですか私は。天宮さん。ねぇ」
「もちろんでございます、お客様」
私は生まれたての赤ん坊のようにわあわあと声をあげて泣いた。次から次へとあふれる涙と一緒にあの人の記憶も流れていく、忘れていく。
だけど。あの人のことを忘れてしまった私には一体何が残るというのだろう。おもしろいくらいに涙がぴたりと止まった。
「いやだ」
「……え?」
「あの人の記憶を失ってしまったら、私が私ではなくなってしまう。つらくても悲しくても、あの人への愛を抱えたまま棺桶に入りたいの」
そう言い放った途端にまた強い眠気に襲われる。すでに夢の中にいるというのに、これ以上どこに引きずり込もうというのだろう。
チッと舌打ちのような音が聞こえて、くっつきそうになっているまぶたを無理やりこじ開けると、天使のような笑みを浮かべる天宮さんの背中に……薄黒く汚れたぼろぼろの羽根が見えた気がした――そう、まるで、堕天使の、よう、ナ――
「意外としぶといのねぇ、メインディッシュはお預けか……。またのご来店をお待ちしておりますね、お客様?」
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