「嘘蜻蛉」

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 何も起こらないと、本気で思っていた。  この世界はいつだってつまらないもので、僕らはただ盤上の駒に過ぎないのだと。だから特別を期待する事自体が基本的に無駄で、ただ天上の操り人形の様な顔をしてくるくると道化に興じれば良いのだと。  クラスで一番けたたましい、出席番号8番がその中でその役を担うなら、11番の僕はただ適当にその辺にいる賑やかしで、盤上の比喩に続けるならば一旦時間稼ぎに動かされただけで後は放置されている無意味な角のひとつなんだと。  だから、それなりに生きて、それなりに時間を潰して、それなりの顔をして、それなりに委員会について、それなりにその本にラベルを貼って……何気なく、開いただけだった。 「あ!それ、読んでるの?」 「読んでない」  鮮やかな色の声が、徐に僕の正面から降ってきた。見たことのない端正な顔、背丈、知らない名前。まぁ簡潔にいうと、知らない女生徒。僕は不服を隠すことなく言い捨てる。 「図書委員だから新刊の整理をしてるだけだ。借りたい本があるなら貸し出し処理がいるけど」  そう言って本を閉じようとした矢先だった。  彼女がばっと手を重ねてそれを止める。反射的に見上げたその、彼女の瞳があまりに真剣で、僕は俄にたじろぐ。  そんなに重要なものなのか、そんなに気になるものなのか、何が彼女をそんなに真剣にさせるのか……どうしてわざわざ本の閉じるのを遮るのか。そんな当たり前で必然的な疑問が浮かんでくるまでにひと呼吸が必要なくらいの、あまりの視線。 「読んでほしいの」  意味のわからない、怒涛の言葉だった。 「その本……今開いているところからでも、別に良いから。その本を読んで、最後まで読んで、嫌いだって、言って欲しいの」  もう彼女は僕の手を押さえてはいなかった。指を挟んだまま、表紙を見る。嘘蜻蛉、著者、唯川乃染。さっき僕がパソコンに打ち込んだのと全く同じ文字列がそこにある。一人の少女が、指先にオニヤンマを咬ませていた。  そもそもの好みとさえ、合わない系統であることに違いはなかった。彼女の言い分を聞く限り、適当に読み流して嫌いだと言えば彼女は離れてくれる、いやまて。 「嫌いだと言われたいだけなら、読む必要はないんじゃ」 「違う、嫌いだと言って欲しいの」  彼女は首を振った。長い髪がゆらゆら揺れて、さっきまであんなにも克明だった双眸には微かに揺らぎが見えた。 「嫌いだと言って、可能ならどこが嫌いかを全部喋って欲しいの。私、あそこで待ってるから。お願い、早いほうがいいの」  そう言えば、彼女は狭い図書室の中でも一番端の、陽の光さえ当たらない様な、ドアともずいぶん離れて縮こまった席を指差して、まるでこれ以上断られてたまるかと言わんばかりにそちらに駆けていく。  図書室は走るな、と声をかける暇すらなく、僕はその本とカウンターに取り残された。  時計は16:57。強制下校にはまだ時間があって、何の因果につられたのか、僕はその本の一ページ目を開いた。 『神様がいると訴えた娘は、そりゃそうだろうと嘲笑してもらうことさえできなかった。』  あまりにも、鋭い言葉から始まっていた。僕は生憎読むのが早くない。ただ、既に校閲も済んで手元に届いたはずの物語を、嫌いだというために、嫌いな点を探しながら読むのは余計に時間がかかる様に思われた。  __思われただけだった。  17:46。後15分でこの図書室も学校も閉まってしまうという頃、僕はようやく正気を取り戻す。嘘蜻蛉の最後のページが、僕の前でさらりと手から滑り落ちて初版の文字を晒す。  面白い、作品だった。  あんなに鮮烈な言葉から始まった物語は、ただずっと、その質感だけで先を進んでいった。報われろと願うにはあまりにも間違っていたし、糾弾されて然るべきだと思うにはあまりにも正しいままで、少女は歪んでいった。最後にナイフを突き立てるまで、少女はそれを嘘だと一度も言わなかった。  ただそれだけと言えばそれだけで、それが、酷い程にその物語は、完成し過ぎていた。  それでも、呆然としている時間はなかった。まだ残った、収集癖だと言い切っては自費で追加している司書の先生さえ微塵も把握していない、山積みの未登録の書籍を跨ぐ。待っていると言い残した彼女は、机に突っ伏して眠っていた。まるで、嘘蜻蛉の主人公が、何も考えなくて済むからと睡眠剤をなん度も口に運んだときの様にさえ思える影だった。  そこで初めて、僕は彼女の名前をかけらも知らない事に気がついた。 「……あぁ、読み終わったんだ」  軽く肩を叩けば、彼女は呆気なく目を覚ます。ふわりと欠伸ひとつすることもなく、彼女はただその一言だけで、真剣な顔になった。 「何が、嫌いだった?」  そのどこか泣きそうな声が、切実に響いて。僕はそれだけで、言葉を返せなくなる。それがまるで本当に、嫌いだと思ったと信じたがる様な声色だったから。それを前提に進める言葉が、僕の心臓を握りしめて、負の感情を絞り出そうとしている様でさえあった。  話さない僕を見て、彼女は何かを悟ったらしかった。ギリギリで踏みとどまる様だった湿った声が、とうとう、彼女の瞳から溢れ出す。唐突に力を失った彼女の足が、椅子から崩れ落ちて地面に張り付いた。 「どうして。どうして、嫌いだと言ってくれないの」  それは声量に反して叫びというにふさわしく、僕は、彼女を見下ろす様に立ち尽くすばかりだった。 「嫌いになってもらわないと、いけなかったのに。私の文字列には意味がないって、無意味で、つまらなくて、ここがダメで、あそこがダメで、そんなのだから全部ダメで、だから、二度と書くな、ってくらい、罵ってもらわないと、いけなかったのに」  一瞬目に映った、初版ページの端、作者の紹介がはっと脳裏に映った。  確か、生まれた年は16年前ではなかったか。  現役高校生による、文学大賞受賞作だと書いてはいなかったか。 「二度と、書きたくないのに」  目の前に僕がいることなんて忘れたかの様に、彼女が哭いた。けれど、名前を呼ぶことが相応しいのかを僕はその一瞬でわからなくなった。 「忘れてもらわないといけないのに、嫌いだって思ってもらえたら、もう二度と、次の作品をなんて言われないのに。年上の人に先生なんて呼ばれないし、あの人がいまさら私のことを」  自慢したりなんてしないはずなのに。  わからない数多の言葉の裏側に、彼女の背負っているものの大きさを悟った。彼女は、僕の様な駒になることを許されなかったのだ。それなりの生活を奪われて、それでも、天才という道化を求められている。  できることは、ひとつだった。 「……二度と、読もうとは思わないかな」  はっ、と彼女が顔を上げた。そこには光に縋る様な喫驚が浮かんでいて、僕は、下から見ている彼女にさえ見えないくらいに顔を伏せる。 「起伏が少なくて、最後まで幸せにならない。その割に、世界に訴える様なテーマがあるわけでもない。泣けるシーンがあるわけでもないし、笑えるシーンがあるわけでもない」  起伏のなさは僕のようで、最後まで幸せにならないのは人生のようで、世界に訴える力なんて大抵の人にはない。当然であることがこんなにも真っ直ぐに輝くことを、僕は知らなかった。  僕のように無価値な駒を選んだ者を酷く貫く、美しい物語だった。そんな言葉を、飲み込んで、僕は、贋作じみた感想を垂れ流す。震える口先で、自分の愛した作品を、貶していく。目の前の彼女に手を伸ばす方法が、それ以外に思いつかなかった。  言い切るには、声が震えた。 「嫌いだよ」  人生の選択よりも重い感触のする、大嘘。  彼女の、息遣いが聞こえて、顔を見られなかった。彼女が安堵したことだけが伝わって、18:00のチャイムが鳴るまで僕らはそうしていた。強制下校の音だった。 「……帰らなきゃね」  先に動いたのは、立ち上がったのは彼女の方だった。僕はまだ、喋れないままでいた。広げてさえいない荷物を肩にかけて、彼女は大きなため息を空に向かってひとつついて、ふっと笑う。そんな声がした。 「ありがとう」  彼女はきっと、まだ、筆を折るために戦うのだ。それでも足跡は、簡単に遠ざかって、扉が閉まる。帰らなくてはいけなかった。  先生が、巡回をしてくる前に。僕が特別な駒になってしまわないように、きっと、彼女が僕をそうしないために名前を聞かなかったのを、無駄にしないために、けれど。  僕は、ドア越しの彼女の気配さえなくなってから、カウンターのパソコンを開く。自動で暗転した画面に手慣れたパスコードを打ち込んで、新規図書登録の一番下にスクロールを滑らせる。当然のように、その文字列はそこにあった。  嘘蜻蛉、著者、唯川乃染。  僕はその一行を選択して、Ctrl+Xを押す。自動保存のボタンがゆるりと回って、更新時間がたった今に変わる。電源ボタンを押せば、シャットダウンの文字が踊った。  それから、僕は一つの本を鞄に放り込むと、そのチャックを丁寧に閉めて、図書室の扉を開けて、くぐって、帰路に着く。  それなりの生活で、それなりの顔をして、それなりの人生を。ひょっとしたら僕しか気が付かない形で、僕は今日、それを捨てた。  雑踏に紛れ込んだ、嘘つきの駒ひとつ。嘘蜻蛉の文字が増えた本棚は、僕にしか見えない僕の部屋にある。  彼女の運命を変えた本を持って、僕は、いつかの運命を変えることを選んで。  その日、僕は泥棒になった。
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