私があなたを受け入れるまで

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 私、佐々木(ささき)(ひとみ)が自分の人生を諦めたのは、我が子を出産して二週間後のことだった。  初雪が降った日。病院で小児科医より、我が子の障害を宣告された。二十四歳で母親になったばかりの、未熟な私に。  出産時のトラブルにより低酸素状態が続いた娘の愛子(あいこ)は、医師の救護により一命を取り留めた。しかし脳は、深刻な損傷を受けてしまったらしい。  その結果、自分で体を動かすことも、食事をすることも、息をすることすら出来ず。このまま機械に繋がれて目を閉じ眠ったまま、生涯を終えるとのことだった。  生命維持の為に手術で喉に穴を開けて管を入れ、そこから息が出来るようにと人工呼吸器が繋がれる。気管切開手術。  食事も出来ないから鼻に管を入れて胃までチューブを通し、そこからミルクを流し栄養を摂っていく。鼻注経管栄養。  また管が入っている喉元には痰が詰まりやすく、窒息の危険がある。だから適宜溜まったものを吸い出す必要があり、掃除機のような吸い出す機械で対応する。吸引も必要だった。  手術を終え、生後六ヶ月頃に容体が安定した娘には退院に向けての話が進んでいき、必然的に私は世話を覚えなければならなかった。  見慣れない機械を操作し、常に容体に気を使い、娘の体に管を入れる。  それは育児ではなく看護と介護であり、自分の人生を投げ打って世話をしなければならない。  その現実を突き付けられた。 「そのような子は、家で看られません」 「私には面倒見れません」  何度も脳内で叫んだ言葉。  だけど現実では発するわけにもいかず、在宅看護に向け世話の仕方を覚えていく。  ──健常な子供が欲しかった。  その気持ちを、腹の奥に隠して。  こうして世話を覚えた三ヶ月後。娘が生後九ヶ月の頃に退院となり、夫と娘との三人での生活が始まった。つまりそれは、在宅看護が始まったということだった。  病院のような管理体制はなく世話は私が中心に行うが、少し気を抜けば痰が詰まり呼吸を苦しそうにしていて目が離せない。  それ以上に不安だったのは不意に呼吸器が外れ、窒息してしまう不慮の事故だった。当然ながら呼吸器も酸素濃度を計測するサチュレーションモニターも娘と常に繋がっており異常事態には警告音で知らせてくれる仕様になっているが、もしそれに気付かず寝てしまっていたら。  そう思うと不安な日々で当然目を離すことなど出来ず、退院してから常に気を張っていた。  幸い、親族は娘を理解してくれた。  会社勤めの夫は穏やかで優しく、共に娘を育てていこうと言ってくれた。病院で世話を覚えてくれたことにより、仕事が休みの日は数時間任せて寝ることも出来た。  だけど親族や夫が、娘を愛してくれる姿が辛かったりする。どうして私は、ありのままの娘を受け入れられないのだろうと。
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