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14 resolution-和声の解決-
ジュンのあとについて、諸岡邸の外へ出た。
それからも、ただひたすら黙って歩くジュンに黙ってついて行く。
日が落ちて、もう薄闇が広がっていた。さきほどまでの暖かさが嘘のような冷たい空気に、思わずコートの襟を引き合わせて肩を竦める。
気まずい。何か話をするべきなのか、このまま黙っていてもいいのか、それすらもわからない。
いつまでこうして黙って歩けばいいの。
ほとんど下を向いたまま歩いていたらいつの間にか駅に着いていて、立ち止まって振り返ったジュンの顔を、ようやくしっかり見た。
ほんの少しやつれたけど、でも、変わらない優しげな顔。
そのまま倒れるようにふわりと近づいてきたジュンに抱きしめられる。
夕方のラッシュ時。通勤通学の人たちが行き交う駅。みんなが、見てるのに。
苦しいほどの力でされるがままに抱きしめられていたら、ふと、あの木の匂いを感じて、人に見られていることはもうどうでもよくなった。
ジュンの匂いだ。間違いなく、ジュンなのだ。
「ちゃんと話をするべきだったね」
抱きしめる腕を緩めることもしないで、ジュンが言った。合わさった胸から直接響いてくるジュンの声に、色々な記憶や感情が引きずり出されて、溺れてしまいそうになる。
胸が、痛い。
「……さっき真奈香に怒られた。ふたりともビビり過ぎだって」
言葉が、頭を使わなくてもちゃんと出てきてホッとした。
「俺も、朝陽にすごい怒られた。自分を守ることしか考えてなくて、それが結局スミを傷つけたって。その通りだと思ったよ」
傷付けたのは、わたしの方かも知れない。わたしもきっと、ジュンを傷つけた。ちゃんと話さなければ、と思う。だから、ちゃんと向き合う。
「拗れてるって、真奈香が。何から話せばそれが解けるかな」
ジュンの腕の力が少し緩んだので、そっと身体を離す。
見上げたジュンは、いつもと違って自信なさそうな表情でわたしを見下ろしていた。
「真奈香たちに、どこまで聞いた?」
「何も。甘えるな、って言われて。自分で確認しなさい、って」
意地悪でそうされたのではないと、わかっていた。いつも甘えてばかりなのは本当だと思う。自分たちで乗り越えなくてはいけないこともわかっている。
「そうだな。ごめん」
「えっと。どこから話したら……」
突然、手をそっと握られて、引かれるままにゆっくり歩き出す。拗れているのだとしても、ジュンの手は相変わらず優しい。
出掛けることが増えてから、交通系ICカードのアプリをスマホに入れたので、ICカードを持ち歩く必要がなくなって便利になった。改札口を順番に通って、迷いのない足取りでホームに向かうジュンに続く。
どこに連れて行かれるのか。わたしたちはどこへ向かうのか。
でももう、それがどこでも構わなかった。
わたしはジュンと一緒にいたい。あとどのくらいの時間が残されているのかわからないけど、いつか来る最後の時まで、ジュンと一緒にいたい。
ラッシュで車内は混んでいたけど、以前のような戸惑いはなかった。ジュンの大きな身体に守られて、それを安心して受け入れていられた。ずっと黙ったままだったけど、もう気まずさはなかった。
あの時と同じ、2駅先で降りて、見覚えのあるルート。
思った通り、たどり着いたのはあの時のホテル。あの時と同じようにエレベーターと階段で屋上まで上がって、あの時と同じように向き合う。
夜の帳が下りて闇に取り込まれた空気が冷えていく音が聴こえる。それが、地上から昇ってくるあの音塊と混ざり合わさって、わたしの本能がわずかに興奮した。
「どこからおかしくなったんだろう」
改めてちゃんとこの問題に向き合おうとしているジュンを、愛しく思う。その誠意に、わたしも応えたい。
「……ジュン、ドイツに行くんだよね。何年も。楽器製作を学ぶために」
少しずつ。少しずつでいいから、ちゃんと話をしなくては。
縺れてしまった糸を解いていくように、掛け違えたボタンをひとつずつ外していくように、わかるところから少しずつ確認をしていく。
「うん。それは、まぁ合ってる」
知っている情報と、思っている気持ちを、余すことなく話せたら。
「やっぱり、『あげまん』の法則なんだよね、それって」
口にしていいのか迷った、『あげまん』という言葉。でも、結局わたしの心の中に根を張ってわたしを苦しめているのはその言葉に違いないので、言わなければ、と覚悟を決めた。
「……え?」
「あの人と、ドイツに行くんでしょ」
少し黙って何か考えを巡らせてから、ジュンは諦めたように口を開いた。
「……あー……その辺がよく、わからないかも」
ごまかしているような口調ではないので、わたしも自分の放った情報に自信がなくなる。
「だって、あの人……部屋に来たあの女の人が、言ってたから」
「女……?」
ああ、もう、この話題には触れないでいたかった。
「うん。スーツケースの人」
「……もしかして、会ったの?」
核心に近づいているような気がするけど、踏み込みたくない気持ちも膨らむ。逃げ出してしまいたい。
ジュンの不安そうな表情が、わたしを追いつめる。
「うん。聞いてないの? わたしがジュンの家でひとりで居た時に、鍵が開いて……スーツケース持ったあの人が入ってきて」
「……それかぁ。そこからか」
一旦天を仰いだジュンが、すぐに俯いて顔を両手で覆った。
「わたし、あんな大人っぽくて綺麗な人に立ち向かう気、起こらないよ。全然勝てる気しない。っていうかそれ以前に、相手にすらされなそうな雰囲気だった」
つい、卑屈な言い方になってしまう。でも本当にそういう雰囲気だった。
「何か言われた?」
「鉢合わせ……わざとかしら、って。すごく、すごくジュンのこと、よく知ってるみたいだった」
「……あいつ……」
急に抱き寄せられて、ギュウギュウと抱きしめられる。
痛くて、苦しい。
「ごめん! ほんっとごめん! 俺が悪いね。完全に」
悪いと認めたということは、本当にそういうこと?
不安が募って、でもこんなに強く抱きしめられている現実が言葉の意味とブレて、混乱する。
「あーもう、そこからか!」
もう一度、大きくため息をついて言葉を吐き出したジュンが、わたしの身体をそっと放す。そのままスマホを取り出して、何かを探し始めた。
「あれ、あの女……俺の姉だわ」
「…………えっ!?」
一瞬、言葉の語感だけが頭の中を空回りする。
あね。あね、というのは、姉の、あね?
驚くわたしを後目に、スマホを操作し続けるジュン。
「あった。このいちばん右の女でしょう?」
見せられたのは、おそらく、家族写真。
ジュンの周りに、年配の男性と女性と、兄弟、姉妹のような人たち。ジュンの言う通り、右端に立つ女性は、間違いなく先日ジュンの部屋にスーツケースを持ってやってきた女性だった。
背が高くて、華やかで美しくて、でもチャラチャラしていなくて品がある女性。ひと目見た瞬間に絶対に敵うはずがないと感じた、かっこいい女性。
「でも……全然似てない……」
「母親が違うんだ。年もひと回り以上離れてるから」
入ってくる情報量の多さに処理が追いつかなくて、頭の中がふわふわする。
「そんな……なんでこんな、べたな……」
よくある陳腐なドラマか何かのような展開で、脱力感と恥ずかしさに襲われてまともにジュンの顔を見ることができない。
「スーツケース、俺が姉の家に取りに行くって言ったんだけど、出かける用事があるからってついでに持ってきてくれることになってて。鍵は……あのマンションは元々姉の持ち物で、だからまだ持ってたんだと思う」
「だって、あの時、あの人……わたしも準備しなくちゃ、って、笑って」
不敵な笑みだった。思い出すと足が竦んでしまいそうなほどの威勢だった。
「……そういうふうに誤解するって分かってて言ったんだろうなぁ。あの女の準備は、自分のじゃなくて、旦那の出張だよ。家族用に新しくスーツケース買ったって言うから、いらなくなったスーツケースを譲ってもらう約束してた」
「えー……じゃあ、なんで、あんな……」
あの女性に関しては誤解だったということは頭では分かったはずなのに、まだ自分の中でスッキリしない気持ちが残っていて、それを吐き出さずにはいられない。
「うん……まぁ、えっと、これは……完全にこちら側だけの事情で本当に申し訳ないんだけど、俺の……あの事件があった時は、家族……どころか親族全部巻き込んで大騒ぎになって。だから、鉢合わせは偶然だったとしても、あの人がスミにちょっと色々言ってしまったのは、いくら出て行ったとは言っても半分でも血の繋がってる弟が付き合ってる相手を、多分気にしないではいられなかったんだと思う」
わたしの身勝手な感情の吐露を真っ向から受け止めて応えてくれたジュンを、改めて愛おしく思う。でも同時に、いくつか意味を把握しかねる言葉があったことも引っかかって、頭の中を駆け巡る数々の思いは簡単には言葉にならなかった。
「ちょっと待って」
ジュンがスマホを見て何かをし始める。電話をかけている?
「ユリ姉! あら、じゃねぇよ。あんたさぁ、こないだ俺のマンションで、スミになんであんな余計な事言ったんだよ?」
初めて聞く、ジュンの声を荒げた会話。遠慮なしでぶつかっている感じがして、不謹慎だけど新鮮だった。家族とは、こんなふうに話すのか。
「だから俺はもう関係ないって言ってるじゃん」
言葉の意味はよくわからないけど、お姉さんに対して怒っているのだということはよく分かった。
「それはない。絶対。スミには俺の素性まだ話してないから」
ジュンの言葉だけ聞いていても話の筋があまりよくわからない。なんとなく、わたしを守ってくれているというか庇ってくれているような雰囲気はある。でもそれでも、事情の詳細は全くわからない。
「なんだよそれ。ふざけんな」
お姉さんがどんな人なのかは、まだよくわからない。電話の向こうでどのような態度でいるかもわからない。ジュンは全力で立ち向かっているようだけど、なんとなく、もしかしたらお姉さんは軽く躱して面白がっているのではないかな、という気がした。ジュンも敵うはずないと分かっていて突っかかっているのかも知れない。
「二度と紛らわしいこと言うなよな。っつーかもう関わるな」
言い切って、電話を切った。
「あーもう。腹立つ」
「……なんて?」
家族間の揉め事に割り込むつもりは全くなかったけど、でもこの事だけはわたしにも聞く権利があるような気がした。
「あの程度の言葉の本意を確認し合えなくて誤解するようじゃ、遅かれ早かれ上手くいかなくなる、って」
試されたのだと分かって安心したのと同時に、まんまと罠にハマってしまったような気もして、悔しい気持ちもあった。
「……実際、そうなりかけたね」
「くっそー。エラそうに」
ジュンがじっと見つめてくる。
「ごめん。ほんとに」
そのまま黙って見つめられて、射抜かれてしまいそう。心がざわざわと騒めいて、足元からぞわぞわと興奮が這い上がってくるようだった。
突き刺さるような視線にどうにも耐え切れずに、話題を変えてみる。
「で、えっと、じゃあジュンは独りで行くんだ?」
「……それは……そこまで伝える前にこんなふうになっちゃって、言いそびれて」
言いそびれた、ということは、まだ伝えられていない事実があるということか。
そういう小さなすれ違いが少しずつ雪だるま式に大きくなってしまってこんな拗れ方をしたのだと、簡単に想像できた。真奈香の言う通りだった。
「待って。その前に、ジュンは、どうしてわたしにドイツ行きの事を話してくれた時に、詳しい話もしなかったし、その後も話を進めなかったの?」
「それは……あの時、何となくスミの様子がいつもと違ってて……その後もメールしても返信ないし、スミが、何か……俺の実家の事とかをどこからか知って、一緒に居るのが嫌になったのかと思って、怖くて確認できなかったんだけど」
わたしがちゃんと話を最後まで聞かずに勝手に誤解して暴走した。そして、その後のジュンからの連絡も無視した。わたしにもかなり非があることは明らかだ。
「ごめんなさい」
「え、なに?」
「早とちりして、ちゃんと話聞かなくて、メール無視して」
頭を下げて謝罪をして、申し訳なくてそのまま下を向いていたら、頭にポンと掌を乗せられた。
「いいよ。そんなふうにさせたのはこっちだし」
前々からずっと気になっていた、ジュンの実家のこと。みんなが、特殊だとか事情だとか言う。真奈香に訊いた時も、あたしからは言えない、と言われたのだっけ。
もうそろそろ訊いてみても許されるかな。
「実家の事って……どういうこと?」
「……何も聞いてない?」
「うん」
「全く?」
記憶を辿って、本当に誰からも何も聞かされていない事を確認してから、しっかりと返事をする。
「うん。知らない」
「そっか」
少し考え込んだジュンが、大きく息を吸ってからゆっくり吐き出して、意を決したように話し出した。
「そうかー……。俺たち、バカみたいだな、ふたりして。真奈香の言う通り。ほんと、ビビり過ぎ」
「実家の事って、聞いてもいい?」
改めて最終確認をして、ジュンの話を待つ。
「うん。もう話すよ。川嶋弥一郎って知ってる?」
カワシマヤイチロウ。もちろん知っている。国内有数の財閥の会長で、よくニュースや新聞で目にする名前だ。
「あれ、俺の祖父なんだよ」
「…………ん?」
すぐに理解できない。最近わたし、頭の回転が鈍くなってしまった気がする。そんなふうに感じることばかり起きる。
ジュンに、さっきのスマホの写真をまた見せられる。
「俺は5人きょうだいで、兄が2人いて、こないだのが姉、あと妹が1人いて。上の3人が同じ母親で、俺と妹は再婚した母親から産まれた子。俺以外はみんなじいちゃんか親父の会社に入ってるんだけど、俺だけがまぁ……縁を切ったというか、家を出て、音楽の道を選んだというか」
ようやく、さっきジュンがお姉さんのことを説明してくれた時の言葉の意味がわかった。お姉さんとの電話でのやりとりも、繋がった。
僅かにトーンを落として語るジュンの言葉は、今まで過ごしてきた決して平凡ではなかった日々を表しているようで、少し切ない。
「そういう環境で育ってきて、家柄目当てで言い寄ってくるヤツは死ぬほどいっぱいいて、そんな中であの事件が起きて」
一瞬言葉に詰まったジュンは、また空を見て一度深呼吸をした。
もっとゆっくりでいいよ、と言いたかったのだけど、その横顔があまりに綺麗で、見蕩れてしまって言葉を発するタイミングを逃した。
「だから、スミは俺の素性を知って、家柄が嫌だったのか、縁を切ったのが嫌だったのかはわからなかったけど、その辺の理由で距離を置かれたのかと……勘違いした」
ゆっくりとこちらを振り向いたジュンは、今にも泣き出してしまいそうなほど儚い笑顔を浮かべていて、思わず手を伸ばしてその頬に触れた。
消えてしまうかと思った。
眞に引っ張り出される前のジュンはきっと、こんな顔をしていたような気がした。
「もうこういうネタで苦しむのはほんとしんどくて、追求することもできなかった。結果的に、俺がそうやって逃げたせいでスミのこと傷つけたんだよね。朝陽にめちゃくちゃ怒られた。何も言い返せなかったよ」
頬に触れたわたしの手に自分の手を重ねて、目をつぶって最後まで言葉を吐き出す。
「ごめん。……引いた、よね」
「……うん。びっくりした。なんか、聞いても、あんまり……よくわからない」
「俺と一緒にいるの、嫌になってない?」
今まで見たことがないほど自信のなさそうな様子。こんなジュン、初めて見た。
「家を出たということは、一族の仕事に関わったり後を継いだりはしないってことでいいんだよね?」
「うん、継がない。法的に絶縁する手段はないから、正式な絶縁はしてない。別に不仲とか険悪とかでもないし。でも、仕事は手伝わないし、相続も正式に放棄してあるし、後も継がない。一族のパーティとかそういうのにも出ない。もちろん、経済的な援助も一切受けない。それはお互いで納得して決定済み」
「そっか。それなら今までのままで何も問題ないってことだよね。だったら大丈夫」
大丈夫とは言ってしまったけど、まだ全てをちゃんと理解できたわけではないような気がした。全部を正しく理解するのには、もっともっと時間がかかるのかも知れない。でも、ジュンの生まれた家がどんな家でも、ジュンがこういう人に育ったのだから、その職種や貧富は関係ない。
もちろん、ジュンと普通に一緒に居ることに差し支えのあるような家柄や訳あり職となると、それはそれで困るのだけど、ジュンはもう独立したというので特に気にするつもりはない。
「家出たくせに、姉にスーツケースなんて借りようとしたのが間違いだった。ごめん」
頬に触れていたわたしの手をぎゅっと握って引き寄せて、大きくひとつ息を吐き出したジュンは、何か少し吹っ切れたような表情を浮かべていた。そして、わたしがよく知る柔らかい笑顔を零した。
その表情を見ていたら、自然に安堵の言葉が漏れた。
「……良かった」
「ん?」
「色々、誤解で、良かった……」
いちばん強く思った気持ちを口にする。それしかない。
ふいに、背中に回った腕に抱きしめられる。
「うん。良かった。ごめん」
何度も謝られて、何度も抱きしめられて、嬉しくて照れくさくてどうしようもない。
「あ、でも……ドイツに長く行ってしまうのは、本当なんだよね?」
ジュンがそう訊ねたわたしの身体を離して、少し口ごもって言う。
「そう、なんだけど、俺は……まぁ、えっと、スミが良ければ、一緒に行こうって言うつもりで……」
次から次へと難解な言葉が飛び出してきて、頭の中のキャパが完全にオーバーしている。ひとつひとつの言葉を咀嚼し終わる前に、次の言葉が畳み掛けてくる。
「一緒に、行かない?」
思わず、1歩、後ずさる。びっくりして、膝が抜けそうだ。
「チェコとの国境に近いザクセン地方にある工房だよ。いちばん有名な都市はドレスデンかな。俺が住んでたのはデュッセルドルフだから全然反対側でよくわからないんだけど、母曰く、ザクセンはのどかでいいところだって」
立て続けに衝撃発言を食らわされて、どう対応していいかわからない。
「俺、すごく恵まれてるんだけど、今の工房の師匠の紹介で見習い職人として向こうの工房に入れてもらうんだ。だから、少ないけどお給料が出るんだよね。実はもう、アパートメントを2人で住むって伝えて探してもらってる。見習い修行期間はおそらく2年半から3年。そのあと、試験を受けて合格したら職人の資格を取れる」
ジュンの目が夢を語る子どものようにキラキラして、綺麗だった。
「俺はどちらかというと製作よりリペアをやりたいから、国家資格のマイスターまでは今は考えてないけど、やっていくうちに流れで目指したくなったらそれはその時考えるかな。それで、日本に戻ったらしばらくはまた今の工房で働かせてもらうけど、いずれは自分で工房持ちたいと思ってる。そんな予定で良ければ、一緒に、どうかな」
「わたし……一緒に行っても、何したらいいか……」
何から考えればいいのか、何から答えればいいのか、ちゃんとしようと思えば思うほどに混乱して、自分が何を言っているのかもわからなくなってしまう。落ち着かなければ。
「だって、今だってほぼ全て家で仕事してるんでしょう。会社とのやりとりはほぼネット上でやれてるんだし、距離があろうが時差があろうが、向こう行ってもとりあえず続けられるんじゃない?」
ジュンの言い分は至極真っ当だ。何も間違っていない。
「それに俺は……俺個人の希望としては、スミはやっぱり、添削じゃなくて採譜をやれたらいいと思ってて、あと、こないだ坂井さんと朝陽が言ってたんだけど、スミならライブラリアンなんか向いてそうだよね、って。もし今からでも何かチャンスがあれば、いろんな可能性を模索していくのもアリかと思うんだけど」
ライブラリアン。オーケストラの楽譜の手配や管理全般を行う楽譜のスペシャリスト。今やっている校正や添削だけでなく、採譜や製本、楽曲によっては著作権関連の申請や交渉、それも海外の団体とのやりとりもあると聞いたことがある。そんな夢のような仕事に就きたいなんて考えたこともなかった。
でも、プロオケの坂井さんが向いていると言ってくれた。そんな可能性がわたしにあるなんてまだ思えないけど、これから選択肢のひとつに加えても許されるのかな。
混乱する。考えが、まとまらない。
「とりあえず、行くまであと2ヶ月以上あるから、準備する時間はある。物理的な余裕はあるよ。ただ、気持ちの方は……こればかりは、スミ次第というか……」
少し考えて、とりあえずの返事をかろうじて見つけて。
「断わる、理由が……みつからない」
「そっか。うん」
「でも、展開が早過ぎて、頭がついていけてないのかも」
「うん」
また、抱き寄せられる。
ずっと戻りたいと思っていた場所。ジュンの腕の中。
「俺はとりあえず、来週か再来週に一度向こうに行って工房の人と話してくる。就業形態とか、住むところとか確認したいし、街も見ておきたいしね。スミは、落ち着いてゆっくり考えてみて」
「……うん」
力いっぱい、めいっぱい抱きしめられる。胸が締め付けられて、どうしようもない。
「……あれ?」
突然ジュンが情けない声を出した。
「どうしたの?」
手を緩めたジュンが呟く。
「なんか。ちょっと……うわ、今さら……」
目の前に差し出されたジュンの手を見ると、小さく震えていた。
「ずっと、考えないようにしてて、また堕ちるのが怖くて、とにかく逃げてて。だから今、改めて、もしかしたらスミを失うとこだったのかも、と思ったら、こんなに……」
そういう声も、少し震えている。
「俺、スミと居るようになって、かっこわるいとこばっかり……っていうか、かっこわるい姿しか見せてないような」
目の前にあるその手をそっと握った。
大きな手のひらと長い指がとても器用そうで、ジュンらしいな、と思う。
「そんなことないよ。かっこいいとこ、いっぱい知ってるよ。今も、かっこいいよ。失わないで済んで本当に良かった」
一歩間違えれば、本当に全てを失っていたかも知れない。
それは運とかタイミングのせいだけではなくて、自分たちの弱さとか意気地のなさとかのせいでもあるのだと、心の中で戒めるように自分に言い聞かせる。本当にわたしたちは臆病で未熟だった。
また、ぎゅうっと抱きしめられた。身長差があるので、普通に抱き合うとわたしの頭はジュンの肩にも届かない。そのまま抱き上げられて、頭の高さを合わせられる。
「あーあ。また泣いちゃった」
言われてから、自分が泣いていることに気付いた。
「スミはさ、苦しい時とか哀しい時とか辛い時とかは絶対に泣かないのに、嬉しい時とか優しくされた時とかは、すぐ泣くんだよね」
自分でそんな事を分析したことはなかったけど、そう言われるとそうなのかも知れない。
そっと降ろされて、泣き顔を見られたくないわたしは、そのままおでこを目の前のジュンの鳩尾あたりに押し付けた。
「わたしね、また、あの時と同じだった。何も変われてない。全部シャットアウトして、目を逸らして。ジュンと一緒にいるようになって、いっぱい、いろんな事を教えてもらって……もう大丈夫だと思ったのに、もう頑張れると思ったのに……何も変わってなかった。変われて、なかった……」
この1週間、考えないように、悩まないように抑え込んでいた感情が、壊れた水道管から水が噴出するように吹き出してくる。
「自分が傷ついたことから目を背けたの。また傷ついた、って認めるのが嫌だった。こんなに一緒に居て幸せだと思える人がいたのにまた失ったっていう現実を、認めることができなかった。全然平気なふりして、何事もなかったように装って、気持ちを全部封じ込めて……でも、もう二度と、絶対に絶対に、誰とも親しくなることなんてないんだって心に誓って……」
堰を切ったように溢れ出した言葉はもう止める術もなく、ただただ貯蔵が尽きるのを待つしかない。
「あのまま、真奈香に呼び出されなかったら……問いただされないでいたら、きっと、また同じように何年も無駄にしていたのかも知れない。そう思うと、怖くて……」
わたしの吐露をただ黙って聞いていたジュンが、ようやく口を開く。
「ほんとにそうかな?」
「……え?」
「もし本当にあの頃と何も変わっていなかったとしたら、スミは真奈香に呼び出されても応じてなかったんじゃないかな。きっとスミの中に、あの頃と同じことを繰り返したくない、きっかけがあれば這い出したい、っていう思いがあったから、真奈香の呼び出しに素直に応じたんじゃないかな。頼ってみようと思えたんじゃないかな。それって、あの頃とは全然違うって言えると思うけど」
言われて、思い返してみて、確かにそうかも知れないと思う。
「一緒じゃないよ、あの頃とは違う。全然違う。ね。だってあの頃のスミとこんなふうにする自信ないもん、俺」
見上げたわたしの唇に、ジュンの唇がゆっくりと落ちて来る。思わず目を閉じたわたしを、そのままジュンが抱きしめた。
「さっきの、誓い。キャンセルできる? 二度と誰とも親しくならないなんて、取り消してもらえる?」
苦しいほど強く抱きしめられて、わたしには「はい」と言うしか選択肢はない。
「うん。取り消したい。取り消します……」
「…………あー……、このまま、下で部屋取りたい気がするけど、今やるべき事はそれじゃないよね」
ジュンが、もう一度わたしをギュッと抱きしめてから、とても残念そうに腕を緩めた。
「……うん、そうだね。電話してみるね」
同じ事を思っていたので、すぐに行動に移す。
スマホを出して、真奈香の名前をタップした。
「もしもし」
すぐに出てくれた真奈香には、きっと詳細を説明する必要はなさそうだ。
「今から行っても大丈夫?」
時間は夜の7時過ぎ。まだみんな、諸岡邸にいるかな。
「うん。ふたりで行く」
電話を切って、ジュンに伝える。
「3人で飲んでるからおいでって」
「……良かった」
また、みんなであの部屋で会える。ジュンも一緒に。それだけの事が、こんなに大切だったなんて。それだけの事で、こんなに嬉しくなれるなんて。そして、それだけの事が、こんなに簡単に壊れてしまいそうなものだったなんて。
「じゃあ、帰ろう」
「うん」
わたしの手をとって歩き出したジュンの手を、わたしもしっかりと握り返した。もう離れないでいられますように、と願いを込めて。
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