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1 冱(い)つる夜、明けぬ黎明
「田島さん。僕にもその女神の運を分けてよ」
目の前で床に這いつくばってこちらを見ている名も知らない男の憐れで哀しい姿を見ながら、わたしは、どうすれば目にした光景を記憶せずにいられるんだろうと、それだけを必死に考え続けていた。
つい今しがた、その男がわたしに向かって吐いた台詞。
何が言いたいのかまったく理解できなくて、滑るように言葉が思考から遠ざかっていく。
女神って、誰?
運って、何?
ああ、ダメだ。失敗。
考えれば考えるほど、今目の前に広がる情景が意識の中にベットリと浸透して、映像も、音声も、あっという間に脳の奥底まで染み込んでいった。
そしてそれは、そう簡単には消えてくれそうにないことも、もうわかっていた。
***********
「お先ー」
「おー。お疲れー」
大学4年の冬。
無事に楽譜の出版社に就職が内定し、在籍する音楽学科の卒論もあともうひと息のところまできて、オーケストラサークルの卒業公演の練習が山場を迎えた頃。
わたしが担当するビオラパートはメンバーが常に足りず、演奏会のたびにバイオリンから何名か移ってもらったり、サークル外の人にエキストラ出演を頼んだりしていた。そのため、他のパートよりも練習回数が少なくなりがちで、今回も例に漏れずビオラだけがまだボウイングも決まっていなくて、全体練習後にパート練習のため夜遅くまで大学内のスタジオに数人で残っていた。
ようやくパー練も終えて、片付けが終わった人からどんどん帰っていって、練習計画のまとめに少し手間取ったパートリーダーのわたしが最後に残ってしまった。最後の人がスタジオの鍵を管理室まで返さなくてはいけないので、急いでスタジオを出ようと荷物をまとめていた時。
誰もいなくなったはずの背後に、人の気配がした。
振り返る前から、少し嫌な予感。失敗した。どうしてひとりで最後になってしまったんだろう。
すぐにスタジオを出られるように荷物を全て掴んで、わざとらしくならないようにそっと振り向く。
男が1人、立っていた。
用件を告げるわけでもなく、ただ黙って立っている。
見た事のある男。話したことはないけど、一度、学内の企画オケに乗った時に指揮をしに来ていたうちのひとり……そうだ、指揮科の4年生だ。
その目を見て、本格的に危機感を感じた。
嫌な目。
はっきりと、あからさまに嫌な感じがした。どう見ても正常ではない。人としての大切なコアの部分を失っているような、色のない、虚ろな目。
逃げなきゃ、と思う。でも、唯一の逃げ道である出入り口のところにその男は立っている。これだけの荷物を抱えて、立ちはだかる男を避けて狭いそのドアを通り抜ける自信はない。
どうしようかと考えているうちに、男の方が先に動いた。ドアを後ろ手に閉めたのだ。
内側から鍵をかけられる仕様のドアではなかったことだけが救いだ。
焦ったら余計に相手を煽ってしまうことになるかも知れない。刺激しない方がいい。何ごともなかったかのように、普通に挨拶をして通り過ぎてスタジオを出よう。
そう思ったけど、遅かった。
男は一直線にこちらに向かって歩いて来た。足を遅めることも早めることもせず、一定のテンポで確実に近づいて来る。
逃げ切れない。
わたしは、コートのポケットにそっと手を入れてスマホに触れて、男に気付かれないようにロックを解除した。
よく見えないまま操作するのは、タッチパネルではとても難しい。それでも何もしないよりはマシかも知れないと、片手に持っていた楽譜バッグをわざと床に落とし、それを拾うフリをして座り込んで、ポケットの中を覗いてスマホを操作する。
いちばん最初に出てきた発着信履歴の一覧からパッと目についた名前に触れる。これで気付いてくれるといいのだけど……。
俯いた視界の端に男の足が入ってきたので、反射的に顔を上げた。
男が何も言わずにわたしを見下ろしている。何も感じていないような目。感情の見えない、冷たい目。
男がそっとその場にひざまづいて、わたしと目線を合わせてくる。思わず目をそらすと、男は両手を床について這うようにしてさらに近づいた。顔を覗き込まれて目が合って、その男の嫌な目の理由がわかった。
男は、酒に酔っているようだった。歩調がそれほど乱れていなかったので気づかなかったけど、近寄った男はそれなりに酒の匂いがした。大学の構内で酒に酔っているなんて、それだけでその男の状態が尋常でないことがわかる。
「鍵を返さなくてはいけないので、もうスタジオ閉めますが」
事務的な会話だけで、何とかその場を凌ぎたかった。余計な感情の接触だけは何としても避けたかった。
男は、「女神の運」と口走った。
聞き慣れない言葉がわたしの脳を上滑りしていく。
女神? 運?
いったいどこでどういう話になっているんだろう。
わたしはただの、面白くもなんともない女。女神なんて、どこでどう間違うとそうなるのか。スミ、というこの名前の通り、世界の隅っこにいるような、平凡でつまらない普通の女。
それをどう説明しようかなどと呑気に考えていたら、トンと肩を指1本で押されてその場に尻餅をついた。慌てて片手を後ろの床について体を支える。肩にかけていた譜面立てがゴトリと大きな音をたてて床に落ちた。
男がグイッと詰め寄って来たけど、体が後ろに45度くらい傾いているわたしは、もう逃げる体勢にはなれなかった。
わたしはどうやら、俗に言う『あげまん』という部類の女らしい。しかも、元々の意味の『上げ間』ではなく、『まん』が女性器の俗称として誤解され広まった以降の意味での『あげまん』、つまり、この女とヤれば運が上がって出世する、という何ともオカルト的で根拠のない短絡的なイメージでの『あげまん』なのだという。
噂が広まるのにそれほど時間はかからなかった。誇張されて、勝手に屈曲し、尾ひれをつけまくってほぼデマ化したそれは、あっという間に学内に広まっていた。
「わたしには、人に分けられるような運はありません」
『あげまん』て、いったい何なんだ。どうしてわたしがそんなふうに呼ばれなきゃならないんだ。
わたしに特別な力なんてない。特殊な能力は持っていない。わたしと付き合ったから、わたしとセックスしたから出世する、なんて事は理屈的にもあり得ない。ただ偶然が重なっただけだ。たまたま、関係を持った男が、本当にたまたま良い人生を歩んでいけているにすぎない。
もし本当にわたしに何か要因があるのだとしたら、元々出世する要素を持っている男を選ぶセンスがあった、その程度のことだろう。でもそれも狙ったわけではなく、結果的に偶然そうなった、ただそれだけのことだ。
いや、よくよく考えたら、どの男もわたしから好きになって告白したわけではない。相手から言い寄られたか、流れでそうなった。ということは、わたしに男を選ぶセンスがあったのではなく、そういう出世運を持った男に選ばれやすい、ということか。増々、わたし自身の能力ではない気がしてきた。本当にその程度のことなのに。
ふと、この男の名前を知らないな、と思った。
こういう場合は、相手に対して「あなたの素性を知っていますよ」というアピールをした方が良いのかどうか、判断がつかない。判断がついたとしても、やっぱり男の名前は浮かんでこない。
オケで一緒になった時には、本振りの指揮者が来られない時の代振りとして来ただけで、いちいち名前を覚えているほど一緒に居た記憶はない。
ただ、とても神経質な細かい指揮をするなぁ、という印象だけは残っている。
危機的な状況の割に、わたしの頭の中は意外と冷静だった。大声を出して暴れようとすればできたのかも知れないけど、そうしたいとは思わない。でもだからと言って、目の前の男の言いなりになるのも嫌に決まっている。
さっき咄嗟にタップした発信は、繋がっているかな。もし繋がっていたなら、この状況を不自然でないように伝えることができるといいのだけど。
「もう今日の練習は終わりました。遅くなってしまったので、スタジオの鍵を急いで返しに行かなくてはいけないの。このスタジオ棟からだと、管理課までけっこう距離があるので、早く行かないと時間が……」
「もう後がないんだ」
男が、斜めになっているわたしの肩を今度はしっかりと掌で押したので、わたしは押された勢いでそのまま後ろに倒れて、木の床で後頭部を強かに打った。
手にしていたビオラケースも裏向きに床に転がり、ケースの中でゴォンと開放弦の鈍い音が共鳴した。そこから膝で一歩前に出た男に完全に組み敷かれて、態勢は圧倒的に不利だ。
しまった。唯一武器になりそうだった譜面台も、手の届かないところまで転がってしまっている。バッグは、小さいし軽いし、あまり役に立たなそうだ。
会話が成り立たない様子を見ても、正常に交渉が出来ない可能性は高い。同じ音楽を学ぶ言わば同志のはずの人がこうして欲にまみれて落ちぶれていくのを黙って見ているのは、なんとも忍びなかった。怖い思いよりも、悲しい思いが大きい。
男がわたしの右手に握られているバッグを強引に引き離し、床に放り投げた。そしてその勢いでわたしの右手首を掴む。
危険なことは分かっていたけど、わたしは最後の賭けに出た。
「ここは、公共の場です。楽器が沢山置いてあるスタジオなので、廊下には監視カメラも付いている。ここで今あなたがしようとしている事は、簡単に外部に漏れる可能性があります」
話しながら、なんと冷酷な話し方をしているのかと、我ながら呆れた。
「自分の将来を明るくしたくてわたしと関わりたいと思ったのでしょう? それなのにこの行為が表沙汰になったら、その将来も、あなたの願望とは逆方向に転んで行く気がしますが、どうでしょうか?」
公共の場でよく知らない男に押し倒されて組み敷かれ、貞操の危機に曝されている中で、騒ぎもせずに相手に説教を垂れている。
もしかしたら、わたしは自分が思っているよりずっと強かなのかも知れない。
わたしに諭された男はほんの少し怯んだものの、でも後退することもなく、じっとわたしを見下ろしている。その目の奥に、わずかながら正気を取り戻せるかも知れない光を見た気がして、わたしはさらに畳み掛けるように言葉を並べた。
「遅いとは言っても、まだキャンパス内にはたくさん人がいます。いつ誰が廊下を通るかわからない。もしかしたらスタジオに入ってくる人がいるかも知れない」
冷静に、慎重に、男の出方を見ながら言葉を連ねる。
「あなたがこのまま行為に及べば、わたしもおとなしくしていられる自信はないです。だって、それなりの事をするつもりなのでしょう?」
もうちょっと。もう一息、なのだけど。
「…………きみが声を出さずにいてくれれば……大丈夫」
何を言っているんだこの男は、と思ってから、こんなことをする男にこちらと分かり合えるような感性を求めることがそもそも間違っているのだと思い直す。本当に意味がわからない。腹立たしくて仕方がない。
まだ、有効ではないか。でも、男の様子から見て、いきなり暴挙に出られるほど大胆な人間でもなさそうだ。まだ交渉の余地はあるかも知れない。
わたしは腹立ちのあまり、それまで以上に冷淡な口調で口撃した。
「それはつまり、わたしに、抱かせろ、でもおまえは感じるな我慢しろ、と言っているということですね?」
男の目の中の嫌な色が弱まった気がした。なんとかなるか。
「わたしも普通の女です。だから、セックスをすれば何かしら反応してしまうと思います。あなたの目的が何なのかわかりませんが、あなたの勝手な都合のためにそんな無茶な要望を押し付けられても、とても困るし非常に不愉快です」
我ながら、可愛くないな、と思う。
「それに、あなたが噂に流されてここに来たのだとして、もしわたしと関係を持ったのに思ってたような結果が出なかった時はどうしますか。その場合もわたしの力不足のせいにして逃げますか。それと……」
本当に可愛くない。でも、この場で涙を見せてイヤイヤ、ヤメテ、と抵抗するのは、相手の趣味嗜好によっては愚行の決行への促進剤になってしまう可能性があるとも感じていた。
思った通り、冷静に諭された男は完全に勢いを失って、相変わらずわたしの上に乗ってはいたけど、ただ俯いてじっとしているだけだった。
わたしはさらに追い打ちをかける。
「もしわたしが妊娠したら、ちゃんと子どもの父親になってくれますか?」
落ちた、と思った。
念のため、最後の駄目押し。
「せっかく音大の指揮科で4年間頑張って、最後の仕上げがこれでは、今まで応援してくれた人たちはどう思うんでしょうね」
名前は知らなかったけど、指揮科4年なことだけは確かなので、それを使って身元が分かっているようなふりはできたのかも知れない。
男の目から、得体の知れない濁った氷のような光は消えて、その代わりにただの透明の涙がボロリとこぼれ、わたしのコートに小さな染みを作った。
わたしは、きっともうこのコートは着られないだろうと思った。買ったばかりで、お気に入りだったのに。
その時、スタジオの扉が大きな音をたてて開かれた。
「スミ! 間に合ったー!」
飛び込んで来たのは、わたしが必死にスマホで呼び出した親友の真奈香だった。
良かった、通じてた!
真奈香のすぐ後に真奈香の恋人の眞たちが数人で駆け込んで来て、わたしの上に乗ったままうなだれている男を見るや否や、ものすごい勢いでわたしから引きはがし、そのまま床に引き倒した。
「てめぇ、吉岡!!」
眞が叫んだ。眞はこの男の名前を知っていたのか。でももう、そんなことはどうでもいい。
同じオケサークルに所属していても、バイオリンの真奈香とコントラバスの眞は今日はパート練習がなくて2時間近くも前にスタジオを後にしていた。もう校内にはいない可能性が高いと思って半ば諦めていたのだけど、まだ残っていてくれた。助かった。
真奈香が駆け寄って来てしゃがみ込んで、ゆっくりと起き上がりかけたわたしを強引に抱き寄せた。
「スミぃー! もぉー、びっくりしたよぅー……今、警備員呼んでるから……」
わたしにしがみついた真奈香がボロボロと涙をこぼした。
可愛いなぁ、と心底思う。女のわたしから見ても、可愛くて、愛らしくて、守ってあげたくなる。わたしには到底真似できない。
彼らの大声、物が床にぶつかる音、倒された男が発する悲鳴にも似たうめき声、そしてその光景。それらを目の当たりにしながらもどこか他人事のように感じて、今更ながら、もしかしてわたしはとんでもなく大変な状況に陥っていたのでは、と恐ろしくなる。
ただ、とにかくこのままでは大騒ぎになってしまう。そんなにおおごとにしたくはない。わたしは慌てて彼らを止めた。
「すみません、ありがとう、もういいです大丈夫。何もされていません」
わたしの言葉と、抵抗しない男の様子に、彼らは制圧する手をそれぞれ緩める。
助けに来てもらえて嬉しかったし、本当に助かった。でもこれほど大人数だったのは予想外で、こんな目に遭ったことをこんなに沢山の人たちに知られてしまって、今にも心が折れてしまいそう。
「もぉー、何もされてなくないじゃん、なんでよぉ、スミもっと怒りなよー!」
泣きながら喚き続ける真奈香を、逆にわたしが抱きしめてなぐさめた。代わりに泣いてくれた真奈香のおかげで、わたしはこの場で涙を見せずに済んだ。
名前の通り、たくさんの人に囲まれてみんなの真ん中で愛されている真奈香がわたしなんかの友達でいてくれることを、心から嬉しく思った。
怒れるものなら怒りたい。怒って、相手に怒りをぶつけてそれで気が済むのなら、そうしたい。真奈香のように、泣いて、怒って、それで感情が収まるのならぜひ、そうしたい。でも、そう単純ではなさそうだった。
あの危機から脱したというのに胸の中に溜まったままのこのイライラは、何?
わたしは何をこんなにイラついている? それを追求することも憚られるほどのこの絶望感は、一体何なの?
「ありがとね。まだ帰ってなくて良かった。真奈香が気付いてくれてほんとに良かった。助かった……ありがとう。でももう大丈夫。ほんとに何もされてないから。ごめんね、巻き込んじゃって、心配かけて」
なかなか泣き止まない真奈香を抱きしめていると、制服を着た警備員が2人スタジオに駆け込んできた。
「どうしました!?」
「大丈夫ですか!?」
警備員たちが、眞たちに拘束されている男に近づく。男は全く抵抗しない。
何人もの人たちがバタバタと動き回っているのをぼんやり見ていたら、眞が突然大声を出した。
今、朝陽って言った?
眞が声を投げかけた方を見たら、スタジオの入り口から眞の親友の朝陽が入ってきた。朝陽まで来たのか。
どうしてこんなことになってしまったの。
ガヤガヤと、みんなが大声を出して。
騒ぎが大きくなればなるほど、現実味が遠ざかる。
警備員は眞たちと何か言葉を交わしてから、うなだれたままの男の両脇を抱えて引き上げて行く。
「あの、いざこざはあったけど特に被害は受けてないです。本人も反省しているようなのであまりおおごとにしないでください」
この男のためなんかではない。
わたしが、この状況を認めたくないだけだ。
ただ、とにかく、事を大きくしたくなかった。それを聞いて真奈香がまた泣いたけど、眞がなぐさめ役を代わってくれたので任せた。
「スミ……」
朝陽が、まだ立ち上がれないでいるわたしを抱きかかえるようにして引き起こしてくれた。
自分ではちゃんと立ち上がったつもり。でも、膝がガタガタと震えてしまって、見事によろけた。すぐ隣にいた朝陽がとっさに支えてくれて倒れずに済んだけど、もし誰もいなかったら確実に転んでいた。それほど脚に力が入らなくて、体が思ったように動かせない。
よく見たら手も指も震えていた。それは末端の細かな震えではなく、体の芯から湧き出てくるようなガクガクとした深い深い震えだった。
背後で、わたしが床にぶちまけた荷物をみんなが拾い集めてくれている。
転がったビオラケースは、片付ける時に焦ったせいでファスナーがちゃんと閉まっていなかった上に、転がった衝撃でロックが外れていたらしく、彼らのうちのひとりが持ち上げたら蓋が開きかけて中身が落ちそうになったのだけど、楽器の扱いに慣れていそうなその人は上手く受け止めてくれた。
そして、f字孔の中をスマホのライトで照らしたりして、楽器にトラブルが起きていないか見てくれているようだった。
でも、その光景すら、わたしの身に起きたこの出来事が現実だったという証拠を見せつけられているようで、正視出来なかった。ビオラを調べている人たちが、試し弾きをしたりして何か会話をしていたけど、わたしは彼らに気付かれないようにそっと両手で耳を塞いだ。
みじめだった。情けなかった。友達に泣かれて、心配されて、見ず知らずの人にも助けられて。全てが悪い夢であって欲しかったし、そうでないのなら、いっそすぐにでも地球が終わってしまえばいいと思うほど、全てをなかったことにしてしまいたかった。
肩と手首以外に触られたところはなかったし、自分の中で『襲われかけた』と認めるのはとても癪だったので、『言い争いをしただけ』なことにしたかった。でも、実際には確かに『襲われかけた』のであって、その事実から逃げ切るにはわたしはまだ未熟すぎた。
前言撤回。自分で思っていたほどは、わたしは強かでも大人でもなかったということか。
結局、その日は真奈香と眞に家まで送り届けてもらった。
スタジオに駆けつけてくれた人たちにはお礼を言ったけど、その顔を見て言うことは出来なかった。情けなくて恥ずかしくて、下を向いたまま、何とかお礼の一言を絞り出すのが精一杯だった。
足元がおぼつかないわたしの荷物を眞が全て持ってくれて、真奈香がしっかりと手をつないでくれて、なんとか家まで連れて帰ってくれた。真奈香はまだ心配して、警察に届けたらどうかとか言っていたけど、とにかく大騒ぎをしたくなかったので後のことは大学側に任せることにした。
ひとり暮らしで良かった。親に余計な心配をかけずに済んだ。
真奈香が、一晩付き合おうか、と申し出てくれたのだけど、頭の中も心の中もとても混乱していてとりあえずひとりになりたかったので、ありがとうと言って断わった。
また翌日から普通に学校で会える事を願って、帰ってもらった。
ふたりが帰った後、わたしは玄関先に脱ぎ捨ててあったシミの付いたコートを、可燃用のゴミ袋に入れて捨てた。ウール素材なのに驚くほどすんなりと液体が吸い込まれていく異様な様子が、脳裏に焼き付いている。
あの男の落とした雫はとっくに乾いていたけど、その微かな痕跡は、わたしにとってはまるで真っ白なシーツの上に一滴だけ落ちた真っ黒な墨滴のように神経を逆撫でしてくるものだった。
誰かを憎むこととはこんなにも容易なことなのかと愕然とする。いまだかつて、これほどの憎しみを自分の中に感じたことはなかった。でも、その憎悪は外部にだけ向けられたものではないこともわかっていた。
これだけの気持ちを抱えてしまった自分こそが実は最も憎むべき存在なのではないか、という暗澹とした沈鬱を抱えて、でもそれを認めてしまえばきっと全てが終わってしまいそうな気がして、憎悪の矛先を向ける相手を強引に作り上げようとした。
本当は違うのではないか、とずっとずっと憂慮を続けながら、わざと答えに近づかないように逃げながら。
そうしているうちにわたしは日に日に腐っていった。
いっそ捨ててしまいたかったのはコートなんかではなく、その小さな染みを誘発した自分そのものなのではないかという自責の念は、いつまでも消し去ることはできなかった。
その後、わたしは大学に戻ることはなかった。
卒業まであと2ヶ月ちょっとだったのだけど、どうしても、どうがんばっても、再びキャンパスに足を踏み入れることが出来なかった。家を出ようとして定期券を見ると、またあの震えが来た。
わたしを襲おうとした男は退学したらしい。辞めさせられたのか自分から辞めたのかは分からないけど、そんな事はどうでも良かった。あの男が大学にいるかいないかは、もう関係なかった。
わたしがまわりから『あげまん』と認識されて存在していたその場所じたいが、もう嫌で嫌で仕方なかった。あんなに楽しくて大好きだった学校が、もうわたしの中にはなくなっていた。
もしまた学校に復帰したとしても、きっとわたしは『スタジオで襲われたあげまん女』として後ろ指をさされることになる。そんなことはとても耐えられない。
当然、就職の内定も取り消された。体面上は『健康上の理由』ということになった。大学側がそう配慮をして伝えてくれたのだ。
「せっかくここまで来たんだから、留年してでも卒論を完成させて卒業したらどうかな」
研究室で世話になった講師の友美さんが何度も連絡をくれた。でも、わたしの中には大学生活をまた送る選択肢はもうない。
親には本当の理由は伝えられなかった。ただ、大きな人間関係のトラブルがあった、と伝えた。だから、退学して就職もダメになったことを報告した時にはものすごく問いつめられたけど、もうどんなに頑張っても結果は変わらないことと、これから自活してやっていけるように頑張る事を約束して、何とか許してもらった。
音大なんてお金のかかる学校に行かせてもらって、最後の最後にこんなことになるなんて、本当に親不孝で申し訳なく思う。だから、本気で話して本気で謝って、これから社会復帰に向けて頑張ることを約束した。
真奈香や眞とはその後もちょくちょく連絡を取り合っていたし、時々遊びに来てくれて普通に話をしたけど、よく知らない人と会うのは怖かったし、特に男の人はみんな自分をそういう目で見ているのかも知れないと感じて近寄れなかった。
どうしても必要な買い物や用事にはビクビクしながら出かけたけど、それまでのように普通に外出することはほとんど無くなってしまった。
友美さんが、退学した後も色々と気にしてくれていて、時々連絡をくれた。そして、わたしが以前のように外出できなくなっている事を知って、在宅で出来る仕事を探してくれた。
その伝で、就職が内定していた会社から在宅限定で楽譜の校正作業のバイトをやらせてもらうことになった。こちらの都合で内定を蹴った元学生をバイトで使ってくれるなんて、とても寛容な会社だとありがたく思う。そういう繋がりを取り持ってくれた友美さんにも心からお礼を伝えた。
幸い、仕事は自分の能力を充分に生かせたし、誰とも会うことなくネット上のやり取りのみで全て済んだので、バイトではあっても量をこなせば何とか生活していく事は出来た。元々やるはずだった採譜の仕事には及ばないけど、それなりにやりがいもある。有り難かった。恵まれているのだと思った。
先の事を考える余裕もなく、ただただ、わたしは時間が過ぎるままに日々をやり過ごしていた。
夜明けなんていうものが来るとは微塵も思えないままに。
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