10 lull

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10 lull

 ひとりでいた時間が長すぎて、誰かと濃密な時間を過ごす感覚を忘れかけていた。  言葉を交わすことも、自分の意思を伝えることも、触れたり触れられたりすることも、何もかも自信がないし、怖い。  それでもわたしはジュンと共にいることを選んだ。ジュンと触れ合って、ジュンをもっと深く知ることを望んだ。  たくさん考えた。ジュンが言ってくれた通り、納得いくまで、気が済むまで考えた。それで、決めた。 「嫌になったらいつでも言ってね」  いくつも逃げ道を用意してくれたおかげで、わたしは決心がついた。  LDKと工房からは隔離された、少し奥まったところにある寝室。  ジュンがフットスイッチを踏んで間接照明を点けた。温かみのある電球色の光がほんのりと部屋の一角を照らす。  工房とは真逆で、あまり物がないシンプルな部屋。  わたしの手を引いてベッドまで誘導したジュンは、わたしをベッドに座らせてから、自分はわたしの目の前の床にひざまづいた。目線が同じになって、至近距離で正面からジュンの顔を見る形になる。  今更気付いたのだけど、ジュンの顔はとても端正で美しい。カッコイイとかイケメンとか一般的に男性の容姿を褒めるような言葉ではなく、とにかく、整っている、というような形容が相応しい。  そんな顔をじっと見ていたら、ジュンってこんな顔だったっけ、と思い始めて、次第に、これは誰だっけ、と感じるようになって、ゲシュタルト崩壊を起こした。  仄かなオレンジ色の灯りに照らされたその顔が、グイ、と近づく。 「スミ、いい匂いする」 「……ジュンのシャンプーだよ、おんなじ匂いでしょ」 「えー……そうかなぁ……」  鼻先がそっと触れて、そう指示されたような錯覚を感じて目を閉じる。一度低く腰を落としたジュンに、わずかに下から突き上げるように唇を絡めとられて、キスの力に流されてそのまま少し上を向いたら、惰性で後ろに倒れてしまった。  気付いた時には、身を乗り出してきていたジュンに組み敷かれていた。  その瞬間、甘いキスの余韻は一気に消え去って、わたしの中のモヤモヤとした嫌な何かがものすごい勢いで膨らみ始める。  身体が硬直して、手足の指先がスッと冷え、きっと顔も強ばった。  ジュンが、思わず縮こまろうとしたわたしの腕に触れて、ゆっくりと穏やかに諭すような口調で言う。 「思い出す事を無理に遮断したらだめだよ。無理矢理しまい込んでおいたら、いつまでもその記憶は昔のままで何も変わらない。思い出しても大丈夫だから。思い出して、その記憶を上書きして。もう終わったこと、もう昔のこと、今はもう違う、っていう新しい情報を上書きしてみて」  ずっと、ずっと、思い出さないように必死に耐えてきた年月。それを、そんなにあっさりと覆すようなことをしてもいいの? ジュンを信じられないわけではないけど、それでもそう簡単にスイッチを切り替えるようにはいかない。 「あの時触られたのは、どこ?」  あえて記憶を引き出すような質問をして、ジュンはわたしに揺さぶりをかける。わたしはできるだけ感情を動かさないように努めて、ただ記憶だけを辿った。 「左肩と、右の手首、あと……足に、太腿に、乗られて……」  申告した箇所に、ゆっくりとジュンの指が滑ったあと、唇が押し当てられる。借りたシャツの袖をそっとたくし上げて、手首に。胸元のボタンをひとつずつ外してはだけさせて、肩に。本当に情報を上書きしていくかのように、丁寧に、確実に。 「はい。これでもう、この手首はあいつが触った手首じゃない。俺が触った手首だから。肩も、足も……全部、俺が触ったから……」  わたしの尻込みの原因をスタジオの事件だと思い込んだジュンが、その恐怖から解放するための暗示のようなものをわたしに投げかける。全く間違っているというわけではないけど、実際はもっと複雑で、ジュンの優しさを受け止めたい気持ちと、心の内をすべて余す事なく話してしまいたい気持ちとが、胸の中でどろどろに混ざり合う。 「……うん」  身体の芯は熱を持ち始めているのに、手足の指先がみるみるうちに冷えていく。それは自分でもはっきりとわかって、触れたシーツやジュンの服が生温かく感じた。その事実が、自分を否定していた時の気持ちとリンクして、この期に及んで自分を責め立てる。  ぞわぞわと涌き上がってくるフィジカルな快感と、大脳新皮質の最奥から蘇ろうとじわじわと滲み出て来ている黒い記憶とが、しばらく落ち着いていたと思っていたわたしの心をぐしゃぐしゃにかき乱した。  やめておけば良かった?  来なければ良かった?  ジュンとふたりきりになんてならなければ良かった?  これは、何の始まり?  このまま流されると、その後に何が待っているの?  もう知っている。  これは、『終わり』の始まり。今まで何度も何度も経験した。繋がったら、あとは終わるだけだ。  怖くて、恐ろしくて、切なくて、申し訳なくて、一体何に対してなのかはわからないまま、心の中でずっと「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返していた。  逃げたい。逃げ出したい。ここから消えていなくなりたい。そう思うのに、声を出すことも身体を動かすこともできない。  鼓動が異様なほど激しくなって、思わず固く目を閉じた。 「目を閉じたらダメだよ。目を開けて、今目の前にいるのが誰か、ちゃんと見て」  耳元で極小の、優しくて強かに響く、ジュンの声がする。  好きで、好きで、どうしようもなく心地よい声。でも、目は開けられない。  目を開けたら、見たくないものが見えてしまうかもしれないから。 「スミ。ちゃんと俺のこと見て。あいつじゃないから、見て。今までの誰でもない。俺だから」  わかっている。そんなことはもちろん。  それでもどうしても目は開かない。  ふいに、チェロの音が聴こえた気がした。  でも、よく聴くとそれはとても近い所から奏でられていて、少し考えたらそれが人の声だということに気付いた。  ジュンが、歌っていた。  音量は小さいけど、本当にチェロと聴き(まご)うような、深く重厚で、それでいて艶のある、倍音が豊かな甘い甘い声だった。  朝陽から音源をもらって何度も何度も聴いて一音残らず覚えてしまった『emergence』の旋律に、少し重たい印象の言葉が乗っていて、これは……ドイツ語だ。  わたしはドイツ語は音楽用語以外はよくわからない。だから、言葉は乗っていても意味を伴った言語としては伝わって来なくて、旋律を伝える単なる発音としてだけ響いてくる。何のメッセージ性も持たず、感情すら伴わない単なる音としての旋律。それが、無性に心地よかった。  チェロの音色と人間の声が音域や周波数的に似ているということは、知識としては知っていた。もちろん、実際に音を聴いても似ていると思うこともあった。でも、これほどまでに身体で感じたことは、初めてだった。  そして、何より驚いたのは、わたしとジュンのキーのピッチの好みが寸分違わず一致していたことだった。  音叉やチューナーを使ってぴたりと合わせた絶対値的なピッチとは別の、感覚的に持って生まれた、本能的に気持ちいいと思う絶妙なピッチの好みが、見事に合致していた。これは狙ってできることではないはず。狙うなら、相手のピッチの好みを感覚的に把握していなくてはいけなくて、それは現実的には不可能に近い。だから、ジュンとわたしのピッチの好みは、恐ろしいほどの偶然的に一致していたとしか思えない。  G♭は若干低めが好き。D♭はほんの僅かに高めが好き。そんな事が本当に偶然一致していたのだとしたら……。何か、運命的なものを感じずにはいられない。  わたしの身体のいたるところに押し付けられるジュンの唇と共に歌声は場所を移動し、時折、キスの深さに反比例するように旋律が薄らぐ。  キスによって、身体のあちこちに隠された錠は次々に見つけ出されて、声が、そのひとつひとつを丁寧に解錠していく。そうやって、わたしは少しずつ解放されていった。  あちこちを巡っていた唇が、わたしの耳元に戻って来た。頭の先からつま先までほぼ全てをジュンの大きな身体に包み込まれて、もうわたしは観念するしかなかった。  ジュンは、自分の顎の骨をわたしの耳のすぐ後ろにある側頭骨に押し当てて、そこで再び、甘く低い声で旋律を奏でる。耳だけから聴く気導音とは違う、直接身体の中に響く骨導音が、わたしの理性をあっという間に麻痺させる。  ピッチの好みの一致のせいも相まって、ジュンの発する音はそのままわたしの中に存在する音と共鳴して混ざり合い、いつしか自分の中から発せられているのかと錯覚するほどになっていた。ただひたすらに音に侵されていくあまりの心地よさに、身が芯から震えた。  胸が、痛い。  肋骨の隙間から手を差し込まれて直接心臓を握られているかのように、胸の奥が痛くてたまらない。その焼け付くようなひどい痛みを、わたしは確かに愉しんでいた。  未だ開けられない目から、涙が溢れる。これほど固く閉じられた瞼からでも、こんなにも涙は簡単に溢れてしまうものなのか。  ジュンの声が、たまらなく心地よかった。  突然、ぴたりと音が止まった。ほんの少し待ってみても、歌声は止まったまま。どうしたんだろう。何があったんだろう。  そして、気付いたら目を開けていた。 「やっと目覚めた」  目の前、本当にすぐ目の前に、ジュンがいた。 「ね。俺だったでしょ」  ジュンはわたしの指先に触れて、一度掌でキュッと握ってから、そっと自分の首筋に触れさせた。ものすごく暖かく感じる。ということはつまり、ジュンはものすごく冷たく感じている、ということで、そんなことは申し訳なくて続けられるはずがない。  そっと手を引こうとしても、ジュンはわたしの手首を握っていて、手を引っ込めるのを許してくれない。そして、片手が少し温まると、もう片方の手も同じように温めてくれた。 「何が、嫌? 何がこわいと思う?」  訊かれて、考えてみるけど、言葉は出てこない。本当はわかっているのに、言葉にならない。  黙ったままのわたしの上から一度離れて、ジュンはベッドに横になった。 「じゃあ、ひとつずつ、考えていこう」  服の乱れたわたしをケットでくるりと包んで、ゆっくりと言葉を確かめるように探して吐き出す。  ケットごと全身を抱き寄せられて、両手を大きなジュンの掌に包まれて、さっきまで氷のように冷えていた指先が少しずつ温まっていくのがわかる。 「セックスは、嫌い?」 「……嫌いじゃない」 「触られるのは、嫌?」 「……嫌、じゃない」  ひとつ答える度に、ジュンがわたしの頬や額にキスをくれる。そして、ひとつ答える度に、わたしの心の内がひとつずつ露呈していく。 「俺のこと、こわい?」 「……こわく、ない」 「だったら、何が気になる?」  ジュンのことも、触られるのも、セックスも、怖くない。襲われかけたことはあっても、未遂も未遂で、素肌に触られたのは本当に手首だけだ。あの男は怖いけど、ジュンなら大丈夫。  今こうしてジュンに触れられて、キスを受けて、抱きしめられてこんなに近くに居ても、そのことじたいは怖くない。それどころか、わたしの身体の奥底から、彼をもっと欲しいと思う淫らな欲望がほんの少しずつ露になってきていることに、わたしだけでなくジュンもきっと気付いている。わたしの身体はこんなにもドキドキして、確実にジュンの仕掛けてくることに反応していたのだから。  違うのだ。そうじゃなくて。 「わたしと関わったら、ジュンも、離れて行ってしまうかも知れない」  はじめは、それだけ言うので精一杯だった。でも言ってしまったら、ずっとずっと我慢していた何かがぱちんと弾けて、もう自分では止められなくなった。 「みんな、離れて行ったの。『あげまん』の法則なんだって。みんな、どこかへ行った。嫌いになったなんて言われたこと一度もない。喧嘩別れしたことだって一度も……それなのに、いつもわたしはひとりになった。みんな、ありがとうって言って笑顔でいなくなった。わたし何も悪いことしてないのに……『あげまん』って、なんなの……なんでわたしがそんなふうに言われなきゃいけないの!?」  この2年半、抑えて抑えて抑えまくって耐えてきた不満が暴発し、息が続かなくなるまで捲し立てた。  わたしと関わった男は全てわたしの元を去っていった。『あげまん』というのはそういう存在なのかと納得せざるを得ないほど、見事に全員出世してあっという間にわたしの元を去った。振り向きもせず。だから、ジュンもわたしと関係を持てば同じように去っていってしまうのではないか。その不安が、もうずっとずっとわたしの中に深い根をおろしていた。  わたしの努力は自分の首を絞める。相手への奉仕は自分の道をぶった切る。良かれと思ってやったことが、裏目、裏目に出る。1度や2度ではない。ということはきっと、わたしが悪い。わたしに原因がある。そうとしか思えない。  男のせいにしてしまうのは簡単だった。でも、そんな男と付き合う判断をしたのは自分。何度繰り返してもまた同じような道を選んできたのも自分。やっぱり自分が悪い。自分の責任だ。  とっくに気づいていたのにちゃんと向き合うことから逃げていたせいで自分でもちゃんと見えていなかった想いに、いよいよ対峙するしかなくなる。 「ねぇ。よく考えてみて。スミと関係持ったら俺が離れて行くんじゃないか、って心配してるってことは、スミ自身が『あげまん』を認めてしまってることにならない?」  まるで小さな子どもに言い聞かせるように穏やかにジュンに言われて、ハッとする。  確かにそうかも知れない。自分では絶対に『あげまん』なんかじゃないと思ってきたつもりだった。でも、色々な事があって、沢山の人にそうだと言われて、もしかしたら本当はやっぱり『あげまん』なんじゃないか、と心のどこかで思ってしまっていたところもあるのかも知れない。その言葉はまるで呪詛のようにわたしの魂を縛り付けて、内側から腐蝕させるかのようにじわじわとわたしの全身に浸潤してきていた。  この女とヤれば出世する、とレッテルを貼られて、それはつまり、わたしのセックスは男を出世させるためのもの、という認識が、自分ではそう思っていなくても散々言われて染み付かないわけはなくて、それが単純にセックスに対する抵抗としてわたしを縛り付けているのだと気づいた。 「それにね、俺のイメージでは、スミから離れていった男たちは、スミを捨てたっていう感じじゃない……巣立っていった、ってとこかな」  ジュンが、わたしの髪や頬に優しく指を滑らせる。時々その指が耳のあたりまで滑り込んで、くすぐったくて思わず肩をすくめる。 「わたし、『あげまん』じゃない」 「うん。わかってるよ」  どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。自分で『あげまん』なんかじゃないと思っているなら、ジュンが去ってしまうなどという心配は無用だったはずなのに。  惑わされていた。本当に色々なものが見えなくなっていた。 「スミは普通の女性だよ。ただ、ちょっと、関わった人を本気にさせるのが上手なだけの、普通の女の人」  ジュンの言葉によって長い間の呪縛から解放されて、そのまま再びジュンに新たな暗示をかけ直されていく。  もう隠すことがほとんどなくなったわたしは、おそらく安堵に似たような気持ちのせいで、涙を我慢できなくなっていた。 「俺はいなくならないよ」  相変わらず自信満々に豪語したジュンは、ケットごとわたしを抱き寄せて、耳元で甘く囁く。 「どこにもいかない」  ジュンの言葉が、わたしの中へスッと沁み入って、じんわりと奥底まで浸透する。 「何が『あげまん』だよ。下劣極まりないな。自分で努力して出した結果を誰か他人のおかげとか、どれだけプライド低いんだ。俺は自分の力で成果を出す。結果が出ればそれは自分の力。それ以外にないでしょ。だから、俺は、いなくならないよ」  そうか。そういうことか。  わたしは過去に付き合った男たちに対して、得体の知れない苛立ちを覚えることが多かった。それがどうしてなのかは、当時はわからなかった。  でも、今ならわかる。彼らはみんな、自分に自信がなかった。同時に、プライドが低かった。わたしに対しては大きな口を叩くくせに、いざ自分のことになると不平不満や不安を口にする。そんな男ばかりだった。それを、わたしは突き放す事ができずに、少しでも力になれるのならと色々相談に乗っていた。お人好しにも程がある。  俺はどうしたらいいと思う?なんて訊かれて、そんな事は自分で決めろ!と言い放てるだけの経験や度胸が当時のわたしにあれば、もしかしたら『あげまん』なんていうけったいなイメージを付けられてしまうこともなかったのかも知れない。そういう意味ではやっぱり、自分にも大きな原因があったのだと思い知らされる。 「バカだなぁ、わたし……」  思わず口をついて出た言葉に、ジュンが驚いた顔をした。 「どうした?」  初めてジュンを見た時の、ぶっきらぼうだけど人に媚びず、自分の行動に自信を持っている印象に、わたしはもう魅かれていたのだろう。自信満々で、しかもその自信にちゃんと根拠があって、努力を積み重ねて結果を出している、そんなジュンの真っ直ぐな強さに最初から魅かれていたのだと思う。 「なんでもない。いいの、だいじょうぶ」  次から次へと溢れ出してくる涙を見られないよう、両腕で顔を隠す。そんなわたしをジュンはしばらく見守ってくれていた。何も言わず、何もせずに。 「ちょっと吹っ切れた感じ?」  少し落ち着いてきて大きく息を吐き出したわたしに、ジュンがようやく声をかけた。顔を隠していた腕をそっと避けて、至近距離で目を覗き込まれる。 「どうせあの事件の後、ろくに泣いていなかったんでしょう」  本当に何でもお見通しなのだ。洞察力が優れているのは、もの言わぬ楽器を相手に百戦錬磨しているからなのかな。 「時間が解決してくれるなんていう人いるけど、そんなの無理だよね。ひとりじゃあね。どんどん沈んでって、色んなもの見失うもんね。そうするとタイミングとかきっかけも失うし。俺もそうだった。でも、そういう時に手を差し伸べてくれる人がいたなら、それに(すが)ってもゆるされると思うんだけど……そろそろ誰かに……俺に頼ってみる気になった?」  ああ、そうか。だからか。  ジュンがわたしの判断を待ってくれたのは、ジュンもそうだったからだ。ジュンも、どうにもならなかった時、眞が根気強く待ち続けてくれたと言っていた。だからジュンも待てたのだ。  はっきりと、手を差し伸べるどころか両手を広げて受け止めようとしてくれているジュンを、失いたくない。でも、それを伝える術がわからない。どうやったらその腕の中に飛び込んで行けるのか、そんな単純な事がわからない。  わたしの変化を敏感に察知したジュンは、ゆっくりと様子を伺いながら、改めてわたしを丁寧に組み敷いた。ケット越しにジュンの身体の重みを感じて、胸の奥がグゥ、と締め付けられる。真上から黙ってじっと見下ろされて、それだけでたまらなくなる。  ジュンは、わたしの唇に一度軽くキスをすると、そのまま唇を滑らせて耳元に寄せた。そして、耳たぶを唇でそっと挟んで、チュ、と音をたてた。  ぞくぞくと小さな震えが生まれて、吐息に声音が混ざるのを止められない。  自分の身に何が起きていてこれからどうなっていくのか、そういうことが全く考えられなくなるほど、瞬く間に乱されていく。 「耳……くすぐったい?」  とろけてしまいそうなほど甘い低音を吐息とともに直接耳の中に吹き込まれて、身体が砕けてしまいそうだ。ズルい、と思った。そんな甘い声でそんなふうにされたら、わたしはもうどうしようもなくなってしまう。  喉の奥から漏れ出る音は、次第にわたしの意図とは別次元のものとなって、どうにも奔放な有様で空間に散らばっていく。  息が上がり、苦しくなって、呼吸を肩で逃す。  知らず知らずのうちに両脚をモゾモゾとすり合わせていて、それに気付いたジュンが、わたしが(まと)っているケットをそっと剥がした。  はだけて脱げかけている服をゆっくり開かれて、露になった胸元に、そっと唇が落とされる。恥ずかしくて逃れたくて、腕を動かそうと思ったのだけど、そうする前に両腕を掴まれて固定されてしまって、結局何も出来なかった。  ジュンは、わざと音をたててキスを繰り返した。胸、二の腕、脇腹……そして、その音と刺激に身悶えるわたしを見て、嬉しそうに目を細めた。 「……ジュン、………ねぇ、ジュン!」  たまらず、ジュンを呼んでキスを止めさせる。 「ん? なに?」  顔を上げたジュンがわたしの方を見た。緩い癖のある髪が乱れて頬にかかり、うっすらと上気したその顔は、目眩がしそうなほど色っぽい。 「ちょっと、待って……もっと、ゆっくり……」  心臓がどうにかなってしまいそうだった。 「……いいよ。スミのタイミングで」  言ってから、一度ゆっくりとわたしと目線が合うところまで這い上がってきて、極上の微笑みをくれた。その笑顔がわたしだけに向けられているのだと思うだけで、もうわたしは一切の抵抗し得る可能性を手放すしかなくなる。  ジュンは、一度剥がしたケットを再びたぐり寄せると、わたしを抱き込んでからふたりの身体を覆って、そのままじっと動きを止めた。 「じゃあ……どうしたい?」  問われて、考えた。  考えて、悩む。  わたし、どうしたいのだろう。何をして欲しいのだろう。  そう思って、ふと気付く。  わたしは今まで、お付き合いを決めた人に対しては、何かしらの要望や希望を意思表示していた。あなたにはこうして欲しい、あなたはこうあるべきだと思う、あなたはこうしなくてはいけない……決して自分から進んでしていたわけではない。相談を受けたり、アドバイスを請われたりした時に、善かれと思って自分の考えを伝えていたつもりだった。  今思えば、なんと傲慢で思い上がった言動だったか。それでもあの頃は、自分も相手のためを思って必死だったし、わたしの言う事を真に受けた男たちがその通りにして満足したり、思い通りの結果を出したりしたことに、少なからず悦に入っていたのだと思う。  では、今。ジュンとこうして向き合ってみた時に、わたしは彼に何を望むのか。ジュンに何をして欲しいのか、ジュンにどうなって欲しいのか。  答えは、何も出て来ない。  何もして欲しくない、という意味ではない。そうではなく、こちらから望むことが思いつかない。ジュンはジュンの思うようにすればいい。ジュンのすることを、ただありのままに全て受け入れてみたかった。 「どうして欲しいか、教えて」  ぴたりとジュンの肩に添わせた頭部に、ジュンの声がダイレクトに響く。 「特に……ない、です」  思わず言い淀んだわたしに、ジュンは懐疑の視線を向けた。 「……そっか」  何か含みのある言い方でわたしの主張を受け流したジュンは、そのままわたしを抱いた姿勢でただじっと横たわっている。  BGMも会話もないジュンの腕の中で、聞こえてくるのは耳元に響く心臓の鼓動と、胸の奥で繰り返される呼吸音のみ。時々、微かに動くジュンの腕が起こすシーツの擦れ合う音が混ざる。  ただひたすら続く規則的な連続音を黙って聴きながら、次のアクションが起きる気配がないことにわずかな不安を覚えた。  まさか、眠ってしまった?  そう思ってそっと見上げてみたら、ジュンは眠ってなんかいなくて、()けてしまいそうなほど優しい表情でこちらを見つめていた。目が合ってしまって、もう、逃げられない。 「どうしようね。困ったね」  全然困った様子もなく、余裕たっぷりに困った芝居をしながら問いかけてくる。 「して欲しいことがないなんて。どうしようかね」  そう言いながら、ジュンはわたしの頬に掌をあてて、それをそっと、ゆっくり移動させた。耳元から顎へ、そして首筋へ。それからまた頬まで戻って、親指だけを伸ばしてわたしの唇をギュウ、と押し潰す。歪んだ唇をさらにグニグニと押し捏ねて、突然解放した後、そっと人差し指で軽くなぞる。その緩急の卑猥さに、理性がグラリと揺らいだ。  一度わたしの頭部を遠ざけたジュンが、身体をずり下げて目線を合わせてくる。  近い、と思った瞬間にはもう唇が交わされていて、ゆっくりと舐めとられた唇はそのまま力なく閉鎖を解いていった。 「じゃあ……俺のしたいこと、してもいい?」  キスの距離のまま呟いたジュンには、わたしの答えを待つ気はなさそうだ。 「さわりたい」  そう聞こえた時にはもうジュンの手はわたしの身体を抱きしめていて、そのまま、首や背中や腰にこれでもかと指を這わす。 「本当に、本気に、させられる」  そういえば、さっきもそんなことを言っていた。 「ほん、き?」 「(あお)られるっていうか」  まさか。煽られているのはこっちなのに。 「そ……かな……?」  ジュンはわたしの身体からいったん離れて正面からじっと目を見つめた後、両頬にそっと手を添えてゆっくりとキスをする。 「そう……こういうことにだけじゃなく、いろいろ……スミと居ると、何に対しても本気でがんばらなきゃ、っていう気にさせられるんだよ」  自分では、そんなふうに相手にプレッシャーをかけているつもりは全くない。そんなふうに感じていたら一緒にいて疲れてしまわないだろうかと不安になる。 「Zuckerbrot und Peitsche」  突然聞こえた綺麗なドイツ語に、一瞬心が跳ねた。 「……なに?」 「日本語だと……んーと、アメとムチ、みたいな」  ますます、そんなつもりはないのに、と不安が増す。意図的に相手をコントロールしようなんて思っていないのに。 「無理矢理やらされてるわけじゃないよ。ただ、なんていうか、本当に……やたらと煽られる。いつの間にか、煽られて、でも暴走しそうになればしっかり抑えられて。だからスミと向き合った男たちは、いつの間にかがんばってて、道を踏み外しそうになったら引き止められて、失敗なく上昇していけたんだろうな」  自覚のない事を自分の成果のように言われて、身の置き所がない感じがしてしまう。 「わたしなんかに、そんな能力ないよ」  卑下したわけではない。本当に自分にそんなことができるとは思っていない。 「スミのダメなとこ、ひとつ発見。スミは、自分が相手に与えてる影響をわかっていなさすぎる……自分がどれだけ相手を翻弄してるか、自覚がなさすぎる。それは時に、罪なこともあるんだよ」  罪、と言われて、ドキリとした。ついさっき悟った自分の失態を改めて指摘されたような気がして、気が咎める。 「ごめん、実はこれ、まるっきり眞の受け売り。俺が眞に言われたことそのまま。でも悔しいことに、事実なんだよね」  ふと気付くと、わたしはもうほとんど衣類を身に(まと)っていなかった。いつのまにここまではだけさせられたの。なけなしの下着だけでかろうじてケットに(くる)まれている。セックスとは結びつかないような会話をしながら、ジュンはさりげなくわたしを裸にしていた。まるで奇術師のように。  それから、一度身体を起こして自分もようやくシャツやジーンズを脱ぐと、ケットを捲ってわたしの隣にスルリと潜り込んだ。  肌と肌が直接触れ合う感覚。もう何年も感じていなかった、独特の感触。猛烈な心地よさと微かな罪の意識が混在するその感覚に、まだ充分には解れていない心がゆっくりと少しずつ緩み始めるのがわかる。 「あぁ。ほら。また。眞に負けたくないって思って、がんばりたくなる」  そう言ったジュンの声が、耳のすぐ近くで甘く響いて、身体の芯がゾクゾクと震える。  背後に回った手が、とっくにホックを外されて中途半端にひっかかっているだけのブラをスルスルと外して、ケットの外へ放った。そのまま乳房を大きな手でそっと覆われて、思わず身を固め、つい、ジュンの手を押さえてしまった。 「もうね、これ言っちゃったらあとは手がなくなっちゃうっていうくらいの、とっておきの方法を教えてあげるね」  ジュンが、わたしの指を自分の手から1本ずつ丁寧に剥がして、全部外してからキュッと握った。そのまま肩にキスをされて、力が入る感覚と抜ける感覚を同時に感じる。 「俺が引きこもって死にそうになって眞に引っぱり出された時にやったことなんだけど」  とっておきの方法を教えてくれるというのだから、しっかり聞いておきたい、と思う。思うのに、ジュンの指や唇が、それを簡単には許してくれない。 「あの時に、俺は、色々と諦めたんだよ」  やっとの思いで聞き取った言葉が、ぐるぐると頭の中を彷徨う。  諦めた。あきらめた。色々と。  ……何を? 「普通なら、引きこもってる時の状態を諦めた状態だと思うよね」  ジュンの唇が肩から首筋に移動して、さらに耳元まで滑り上がってくる。くすぐったくて身をすくめてしまう。でも、気持ちいい。 「だけど、後から考えたら、引きこもってる時って実は、諦めてたんじゃなく、まだ抵抗していたんだよね。逃げてはいたと思うけど、でもまだ、闘っていた。何かと」 「何、か……?」 「うん。何だろ、例えば、自分が生まれた環境、持って生まれた性格、能力、感性、それに付随した周りの人や物、そういう、全てに対して」  言葉の途切れる度に、ジュンの唇はわたしの肌にひとつずつ印を落としていく。甘くて、温かくて、切なくて痛みすら感じる、目に見えない印。  ジュンの話を邪魔したくなくて、必死に声を漏らさないように耐えたいのに、叶わない。 「でも、眞に連れ出されて、現実を突き付けられて、ひとりで意味の無い相手を作り上げて闘ってることを思い知らされた時に、色々な……本当に色々な全てを、諦めたんだよ」  大きな告白を済ませたジュンは、満足そうに微笑んで、またキスをたくさん落とす。ひとつひとつ、確かめるように、一箇所ごとに刻みつけるように。  降り注ぐキスに気をとられていたら、ジュンの手が少しずつ下の方へ移動して、背中から腰をゆっくりとなぞられた。ゾクリと震えて、肌が粟立つ。そのままジュンの手は、わたしのお尻をスルリと滑った。  乱れ始めた呼吸にどうしても声が乗ってしまう。恥ずかしくて、確かに自分の口から漏れているはずの音がどんどん客観性を帯びていくのを、(たかぶ)って舞い上がっていく意識の隅っこでぼんやりと認識した。  本当にこれ、わたしの声? 「何かに捕われて、勝手に(かせ)をかけて、身動き取れない気になって……それが全部自分だけでやってたことに気付いて……というか気付かされて」  わたしの反応をちゃんと見ているくせに、何食わぬ顔で話を続ける。それでいて、わたしが反応するポイントは見落とさずにしっかり攻めてくる。 「諦めた。もう、色々と。持って生まれた運命とかそういうのはもう、どうしようもなくて、でもそれでもまぁいいや、誰に対してでもなく、自分にとってはまぁいいや、って思えるようになって、それから俺は今の生き方ができるようになったんだよ」  お尻のあたりを撫でていた手が、内腿にも滑って、足の付け根まで届きそうになる。思わず足を閉じようとすると、ジュンの手がやんわりとそれを阻止した。普段絶対に人に触られたりしないところを執拗に撫でられて、感覚が少しずつ狂わされていく。  話をちゃんと聞きたい願望と、ジュンの手によってもたらされる快感を集中して味わいたい気持ちが、わたしの中で悶々と闘い続けていた。  ジュンの話に相づちを打ちたい。でもジュンの愛撫によって漏れるのを止められない声がそれを邪魔した。ジュンの話の流れとは関係なく絶え間なく漏れ続ける吐息と声が、ジュンの声と混ざり、重なり、融けていく。 「自分一人でなんとかしようとも思い詰めてたけど、それも眞にどんどん踏み込まれて、ああもう抗えないなーって諦めて……諦めたり、流されたり、逃げたり……そういうのもアリなのかって気付いた。だから俺はそれから、一生懸命、全力で諦めたり逃げたりしてきたんだよ」  そこまで言うと、ジュンは再びわたしをぎゅっと抱きしめた。大きな身体にすっぽりと抱き込められて、それだけですべてを預けてしまいたくなるほどのとてつもない安心感に襲われる。  委ねてしまいたい。すべて。 「あー……これは本当は、言いたくなかったんだよ。だってこれって俺の力じゃないし。眞の……眞たちが俺にしてくれたことそのままだから、全然俺の力じゃないし」  わたしを抱くジュンの腕に、そっとキスをする。細いけどぎゅっと筋肉が詰まっている感じの、力強い腕。あんなにしなやかに大きなチェロを奏でる、優しい腕。一度では足りずに、何度も唇を押し付けた。すると、ジュンはいきなりわたしの身体をくるりと仰向けに倒して、そのままがっつりと上に乗った。  ケットが捲れて、裸の胸が外気に曝される。恥ずかしくて隠したいと思うのだけど、両腕をジュンの腕に絡めとられていて動かせない。 「でももうそういうのも、まぁいいや、って。スミの枷を外せるなら……俺だけの力じゃなくてもまぁ、いいかなーって」  喋り尽くした、といった感じでふわりと笑ったジュンが、わたしの唇を捉える。そのまま、怒濤のキスの嵐。唇も、頬も、顎も、首筋も、耳も、おでこも、どこもかしこもキスで清められていく。食べられてしまいそうだった。  引きこもっていた2年以上の間、わたしは何かと闘っていた?  闘っていた自覚はない。わたしの感覚では多分、逃げていた、だけだ。そして、その逃げている自分をどこかで許せないつもりでいたように思う。  他人に影響されること。  他人の言葉に左右されること。  他人の言動に動かされること。  今まで、無意識的に避けていたこと。そうならないように気を張って生きてきた。でもジュンは、それを受け入れてもいいのだと言う。今までのわたしの中にはなかった道。  なるほどな、と気付く。  わたしはやっぱり、自分と闘っていたのか。自分で決めた自分で居続けなくてはいけないと頑になっている自分と、闘っていたのだ。  それを邪魔した男を憎んだ。それを壊した男を恨んだ。簡単だったから、その相手を憎悪の対象にした。でも、本当に憎かったのは、紛れもなくこの自分自身だった。憎いのも、イライラするのも、全て不器用で要領の悪い自分に対してだったのだ。  まぁ、いいや。  そう思って諦めてもいいの?  そうか。  わたし、諦めたかったのか。  ずっとずっと、こうなってしまった原因を探って、追求して、疲れて、逃げて。それでもまた追求して、また疲れて。その繰り返し。それを延々続けて、わたしはもう諦めてしまいたかったのだ。全てを、諦めて、投げ出したかった。 『あげまん』だとレッテルを貼られたけど、まぁいいや。  男たちにヤらせろと言い寄られたけど、まぁいいや。  切羽詰まった男に押し倒されたけど、まぁいいや。  迷走して、長い時間を無駄にしてしまったけど、まぁいいや。  あんなことがあったのに、ジュンの事を好きになってしまったけど、まぁいいや。  まぁ、いいよね。 「俺、普段、普通に見える?」  特に問題があるようには思えない。それどころか、自信たっぷりで余裕すらあるように見える。 「うん。特に、気になることは……」  わたしがそう答えると、ジュンの柔らかい笑顔がほんの僅かに歪んで、またすぐに元の微笑みに戻った。 「そっか。でも俺ね、実は今でもめちゃくちゃ怖い。スミが俺の何もかもを知った時に、変わってしまうんじゃないか、離れて行くんじゃないか、って」  静かで熱い言葉。  受け止めたい。ひとつ残らず、すべて。 「でも、もう……それも、まぁいいや、って思うようにしたんだよ。そうしなきゃ、何をすることも出来ない。まずはスミを信じて、ぶつかって、それでもし何かが変わってしまったとしても、それはそれでまぁいいや、仕方ない。そう思わなきゃ、一歩も進めない。そういうリスクを覚悟してでも、俺はスミともっと関わりたいと思ったんだよ」  唇が落ちてきて、ジュンの想いを纏ったキスは、またもわたしの心をこじ開け、押し入ってくる。 「俺も、スミも、生きてて、元気に……こうして……それでいいよ」  いつの間にかジュンのキスが肩より下にも及んでいて、さらにジュンの手はもっと下の、寝ている状態では見えない辺りまで降りていて、わたしは密かに覚悟を決めた。  もう、闘いたくない。 「今までそれぞれに何があっても、誰にどう思われても……今は俺は、スミとセックスしたい」  ジュンの指がゆっくりと腰を滑り降りて、そのまま内腿の方まで入り込む。緩く内腿を撫でてから、わずかに場所を移して、そっと鼠蹊部のあたりを彷徨(うろつ)く。そして、遠慮がちに下着の上から掌で秘部をふわりと包み込んだ。 「ジュン……」  ただ恥ずかしくて、とにかく恥ずかしくて、でもどうしたらいいかわからなくてつい名前を呼んだ。 「……嫌?」  ごく至近距離で、鼻がぶつかりそうな位置で。  やんわりと下腹部を覆っていたジュンの手が、ほんの少し奥の方へとずれていって、その指先はいちばん深いところの入り口のあたりをさわさわと(いら)う。  思わず漏れたのは、快楽より羞恥の要素が多く、軽く拒絶のニュアンスを含んだ、抵抗とも取れそうな声。やめて、と言いたいわけではないけど、ジュンのアプローチを素直に全身で受け止められるほど上質な場数を、わたしは踏んできてはいない。  羞恥に負けて怖気づくわたしを、ジュンはこれ以上ないというほど優しい眼差しで見つめて、ひとつキスをくれた。 「じゃあ、今度こそ、どうして欲しいか……教えて」  こんなわたしなのにジュンとセックスしたいと思ってしまったけど、まぁ、いいや。 「キス、したい」  ひとつ口にしたら、またひとつ吹っ切れたような気がした。きっともっとある。したいこと。して欲しいこと。  わたしの要望を、ジュンは丁寧に受け取ってその通りにしてくれる。 「他には?」  恥ずかしいけど、まぁ、いいや。 「……ぎゅって、して」  また、その通りにしてくれて。 「あとは?」  もう、なんだかよくわからなくなってきたけど、まぁ、いいや。 「もっと、いっぱい、ぎゅっ、って……それから……」 「……それから?」  もう、して欲しいことをみんなしてもらっていた。大好きな、大好きな、ジュンの甘くて低くてまろやかな声を至近で囁かれて、拒みたい理由なんてひとつもないな、と諦観する。  言葉を選ぶのがこれほど難儀だと感じたことはなかった。今、自分の気持ちを伝えるのにいちばん相応しい言葉を探したけど、紡ぎ出せない。  まぁ、いいや。  そうだ。まぁいい。言えなくても、まぁいい。伝えられなくても、まぁいい。ジュンがここにいれば、まぁいいや。 「だいすき」  脳を通らず、胸の奥からダイレクトに零れた言葉。それをわたしは、とても客観的に聞いていた。  そうか。わたし、ジュンが好きなんだ。  なんだかとてもすごい言葉な気がするけど、まぁいいや。 「あぁ、なるほどね……これか……」  恐る恐る顔を上げて、独り言ちたジュンの様子を伺おうとして、断念した。そうする前に、勢いよく上半身を起こしたジュンに両腕を取られ、そのまま磔のようにベッドに押し付けられてしまったから。 「スミは、本当に……」  独り言のように呟いた後、組み敷いたわたしの肩のあたりにおでこをゴンと落とし当てて、ジュンは握っているわたしの手首をぎゅっと締め付けた。そしてそのまま、届く範囲にバラバラとキスを落とす。 「……ん、あれ?」  ジュンの唇が強く触れた場所を確認して、思わず声を漏らした。 「ん? なに?」 「キスマークかと思ったけど……違ったから……」  てっきり痕をつけられていたかと思ったら、そこには何も残っていない。 「つけないよ、そんなの。あれ、ただの内出血でしょ。そんな怪我させてるのと同じようなこと、できないよ」  そんなふうに言う人と今まで出会ったことがない。びっくりして、思わずジュンの顔をまじまじと見てしまう。 「え、つけて欲しかった?」  確かに、あれはついてすぐの時は赤くてきれいでも、しばらくすると茶色く変色してアザのようになってお世辞にもキレイとは言えなくなるし、もし第三者に見られるような場所につけられたら、所有欲や被所有欲をアピールしているようでみっともないので、わたしも好きではないと思っていた。 「うんん、いらない」 「そっか。良かった……あんな痕つけなくても、俺の痕跡はスミの中にしっかり残せるからいいんだよ」  ものすごい勢いでキスを重ねられて、一気にターボがかかったジュンの様子に気圧されて、後込む。 「あ、ま……待って、待っ、て……」 「2年半も待ったのに、まだ待たなきゃだめ?」  本当に、もう待つつもりはないらしい。  せわしないキスとは正反対に、わたしの内腿にそっと添えられた手は、そうとは分からないほどの微力でそこをゆっくりと割り開き、僅かにできた空隙へジュンの上腿が割り込んでくる。  最も無防備な部分を曝け出す破目になったわたしは、自分の中にかろうじて残されていた羞恥という名の最後の悪足掻きを示して見せた。 「スミは、いつでも、どんな時でも、何をするにも全力投球だよね」  膝を閉じようとして、あっけなく阻止された。片脚分だけ開かされていた大腿が、ジュンの身体の重みで自然と彼の腰の幅まで開かされてしまう。 「たまには全部、放りだしちゃいなよ」  押さえられていた両腕を、ジュンの長い指に頭上で一束に(まと)められて、いよいよ次の展開を覚悟するしかない。 「どう、やって……?」  頭では理解できているのに、実際にやってみようとすると(つまず)くことばかりだ。不器用すぎてもはや、笑える。 「何も考えないで、ただ、今のこの時を楽しめばいいんだよ」  楽しめばいい、と言われて素直に楽しめるほど余裕がないことは、きっとジュンにもすぐにバレてしまう。そんな、自分の今までの生き方に自信を持てていないことも、すぐにわかってしまうことだ。うまくできるかな。  わたしの緊張を察したのか、ジュンが急におどけた様子で呟く。 「そういう俺の方が、忘れてたら、どうしよう」  突然言われて、何のことかわからずそのまま聞き返す。 「……なにを?」 「やり方」  ジュンの冗談めいた言い方のおかげで、極限まで緊張していた空気がほんの少し和らぐ。わたしたちは自然に笑った。良かった。 「……だいじょうぶ。わたしも忘れてるかも知れないから」  クスクスと笑い合って、そのままキスを交わす。ようやくキスが対等になってきた気がして、ほんの少し自信がつく。それから、薄く開けた唇を傾け合って、重ねた舌でお互いの唾液を混ぜ合わせる。直前まで飲んでいたワインの香りがまだ残っていた。  ジュンの空いている方の手がそろそろと下りていって、わたしの腰をなぞってから、薄い布一枚に包まれただけのその部分へとあっさり到達する。  自分の口から漏れる声に妙に煽られて、焦る。  どうしてこんなに気持ち良さそうな声が次々と溢れてくるのだろう。ドラマや、映画や、アニメや、アダルトビデオや……そういう作り物で聴くような作られた声とは全然違う。聞き心地の良い声でもないだろうし、相手を煽るために作為的にコントロールされている声でもない。ただ、抑えても抑えてもどうしても漏れてしまう、生理現象的な発声。そんな声が自分の口から漏れていることを、わたしは意外と冷静に愉しんでいた。  この、内臓を絞り上げられるような感覚に、呼び名はあるのかな。繰り返し襲ってくるこの堪え難い(うず)きに、内臓が()かされてしまうのではないかと心配になる。  ジュンの指が、下着の上から、もうどうしようもなく熱くなっている溝をゆっくりとなぞる。腰が揺れそうになって、息も上がって、このままではとんでもなく乱されてしまいそうで、それが怖くてあわてて色々なものを抑え込んだ。 「なんで我慢しちゃうの?」 「だっ、て……」  耳元にぴったりと唇を寄せて、ジュンは極小の声で囁く。 「ここ、防音だから、どんなに声出しても外には聞こえないよ」   そのまま耳たぶを甘噛みされて、ジュンの言い分を受け入れたつもりはないのに、つい、堪え切れずに声を漏らす。  下着をそっとずらして、ジュンの指が直接わたしに触れた。小さな小さな蜜音が耳に届く。恥ずかしくて、気が遠くなりそう。  何の抵抗もなく軽やかにそこを滑る指が、溝を何度か往復してから、とうとうその端にある敏感なボタンを見つけ出してしまった。  それまで漏れているようなだけだった声音が、突如、一気にブーストがかって、もはや「漏れる」で済むようなレベルでなくなっていることをはっきりと自覚する。  一段と大きな声をあげたわたしを見て、ジュンは嬉しそうに微笑んだ。  溢れてくる蜜を掬いとって、それをそのボタンに擦り付けると、ほんの僅かに指先を滑らせてわたしを跳ねさせる。 「中も、触っていい?」  たったひと言の質問の中に膨大な量の意味が含まれている気がして、一瞬、答えに迷う。でも、迷ったところで行き着く先はひとつだけだ。  頷いたわたしをじっと見ていたジュンは、ほんの少しだけ微笑んでから、ゆっくりと、蜜の溢れる場所に押し入って、その指を奥深く埋めた。  忘れていた感覚。もう一生ないかもしれないと思っていた感覚。  あまりの衝撃に、わたしは呻き声を抑えることが出来なくなっていた。  また、心臓を直接鷲掴みにされたような胸の痛みに襲われて、そんなつもりはないのに涙が零れてしまう。嬉しいのに、幸せなのに、気持ちいいのに、どうしてこんなに胸が痛いの。  わたしの中を慎重に探るジュンの指は、わたしのわずかな反応も見逃すまいと細やかな移動を繰り返した。そして、少しでもいい場所を探し当てようと、ポイントを探る。  その感覚の絶妙な変化に、わたしの声は勝手に返事をするかのように応えた。  指先まで神経を研ぎすませて触れてくるジュンを全身で感じて、ジュンを好きになって良かった、と思う。まるで弦楽器の駒の傾きを調整するように、魂柱の位置をコンマミリ単位で調整するように、丁寧に、慎重に、持ち得る限りの五感や神経を駆使して触れてくるジュンを、心から愛おしく思う。  わたしは彼に、何を返してあげられるのだろう。  しばらくわたしの中を泳いでいた指がある一ヶ所を過った時、とてつもない快感がわたしの身体の奥底から猛烈な勢いで駆け上がってきた。  驚くほど大きな声が出てしまって、慌てて口を押さえた。  一瞬動きを止めたジュンは、わたしの反応を慎重に確認すると、今通ったポイントをもう一度探し当てようと再び動き出す。そして、わたしがその刺激に耐えられずにすぐに声を出してしまったので、その場所はあっという間に見つけ出されてしまった。  身体が、熱い。  同じところを何度も緩く圧迫されて、ひたすら、声をあげ続けることしか出来ない。乱されて、追い立てられて、何か自分ではどうにもコントロールできない大きなうねりが身体の中から引き出されそうになっていることに気付く。  どうしよう。  このままでは、この波にあっけなく飲み込まれてしまいそう。  一方的に攻め立てられて、急に、ジュンは楽しめているのかどうかが気になった。でも、絶え間なく声をあげさせられているので、言葉で尋ねることが出来ない。  どうしようか迷ったけど、意を決して、さっきからわたしの太腿のあたりにゴツゴツと当たる、わたしの身体にはない固さのジュンの塊にそっと手を伸ばす。指先でそっと在り処を確かめてから、更に手を伸ばして掌全体でやんわりと触れる。肌触りのいいコットンのボクサートランクス1枚隔てたその熱い塊は、触れた瞬間、大きく跳ねて、ジュンもちゃんと今を楽しんでいることを教えてくれた。 「今は、だめ」  もっとしっかり触ろうと思ったのに、ジュンの手がそれを拒んだ。そして、わたしの手をそっと退けると、またそのまま頭上で固定して、空いている方の手でスルスルとショーツを抜き去った。それから、また指をゆっくりとわたしの中へ埋めていった。  さっきよりも強い圧迫感に、ほんの少し身体が強張る。もしかしたら、指の本数が増えたのかもしれない。  力を抜けずにいると、ジュンがキスをくれた。唇を押し当てられて、その力で少し開いた唇に舌が触れる。もっと近づきたくて、もっと触れ合いたくて、自分からも唇を舐めるジュンの舌をペロリと舐めた。  わたしの中にいるジュンの指は、今度は入ってから全然動かない。さっき散々圧迫されたその場所にも何も仕掛けて来ない。  ただ深い呼吸だけを静かに繰り返して、わたしはジュンの次の動きを待つ。  じっと動かないジュンに真上から見つめられて、目を逸らせない。  どうして動かないのかと意識すればするほど、わたしの中がそれを確かめるようにジュンの指をぎゅっと固く抱きしめる。そして、その感覚はわたしの熱情をさらに熱くし、それを感知するたびにジュンは切なそうに眉間に皺を寄せた。  逆らえない。  飲み込まれそうなこの波に。  この渦に。  色っぽい声を出そうとか、可愛らしく喘ごうとか、そういう気が全くないわけではない。でも、そんなことにまで意識を回せる余裕は全くなくて、ただひたすら何もかもを諦め続けた。  もうどうしようもなくて、どうしていいかわからなくて、それなのに、わたしはジュンを求めて腰を僅かに揺らしてしまう。それを合図にしたように、ジュンはわたしの中のいちばん熱い場所をグイ、と再び擦り上げた。  一瞬にして激烈な熱に包み込まれて、わたしはあっという間に見え得る限りいちばん高い場所へと押し上げられた。  堪えても堪えても声は漏れ、涙も零れて、どうしたいとかどうしたくないとか、そういうことすら考える余裕が無くなっていると気付いた時には、もうわたしの足元には立てる土台はなくなっていた。  そして、ジュンの指に導かれて、あっけなく爆ぜる。  喉の奥からは、コントロールなどできようもないほど窮極じみたうめき声が漏れて、それを恥ずかしいとかかっこわるいとか思う意識はないわけではないけど、やっぱりそれもどうすることもできなかった。  一度登り詰めてしまえば、足場を失った身体は、あとはただただ堕ちていくだけなのだと思っていた。でも、ジュンのきつい懐抱がそれを引き止めた。  快楽の波に身を捩るわたしの身体を背骨が軋むほど固く抱きしめ、耳元でそっとささめく。 「ね、簡単でしょう? 楽しむのに、理由も言い訳もいらないんだよ」  行き着くところまで行き着いた後、その波から離脱させてもらえない苛烈さに、わたしは絶望にも似た猛烈な諦観を余儀なくされる。  もう、いい。  もう、いっそこのままジュンに抱き折られてしまってもかまわない……それほどまでに、熱く、苦しい。  ふいに、ジュンの身体がわたしから離れた。  突然の解放に恐れ戦いて、思わず手の届く範囲の冷たいケットを可能な限り引き寄せて、必死にかき抱く。でも直前まで与えられていたジュンの重みや熱さとの格差に、これでもかというくらいに満たされていた心は驚くほどの勢いで萎んでいくのがわかる。登り詰めた余韻が残る肉体だけが置き去りにされた。  そのあまりの切なさに思わず呻くと、妙な具合に身体を捻ってわたしに背を向けていたジュンは、こちらを向いて身を屈めてキスをくれた。2度、しっかりと唇を押し付けてから、ジュンは再び身体を起こす。 「……Scheisse!」  何か言葉が聞こえたけど、意味が分からなかった。ということは、わたしに向けて放たれた言葉ではなさそうだ。  少しイラついたようなジュンの様子に何か声をかけるべきかと迷っていたら、ジュンがこちらに向き直って、そのまま覆い被さってきた。 「ごめん……久しぶり過ぎて、やっぱり忘れてた」  何の事だろう、と考え始めたのだけど、上に乗ったジュンがわたしの膝をそっと割って自分の身体を割り込ませたので、それどころではなくなった。  ジュンの手がわたしの脇腹からどんどん下へ降りて、太腿までたどり着くと、スルリと内側へ回り込む。怯んで足を閉じようとしても、ジュンの腰ががっちりと嵌まっていて、叶わない。  一旦果ててまだ余韻が冷めていないところへそっと押し当てられた、ジュンの塊。その固さと熱さに、わたしはぶるりと身震いした。身体の深部から、ゾクリゾクリと、正体のわからない期待のような畏怖のような何かが涌き出してくる。 「スミ」 「はい」 「……スミ」 「……はい」  わたしの名前を呼ぶジュンの声が、少しずつ近づいて、いつしかキスと混ざり、耳元にたどりつく。 「スミ」 「……うん」 「スミ」 「……はい」  声は、わたしの全てを包み込み、奥底まで浸透して、芯から融かしていく。その、身が蕩けそうな絶望的なまでの諦観が気が狂いそうなほど心地いい。 「スミ。入ってもいい?」 「……うん」  上半身を少し起こしたジュンが、僅かに腰を進める。忘れかけていた、身体の一部を物理的にこじ開けられる独特の感覚。  次から次へと襲い来る快楽や不安や羞恥などといった感覚の塊に押しつぶされてしまいそうに感じて、思わず両腕で顔を覆う。 「……ス、ミ……」 「…………うん……!」 「隠さないで」  腕をそっと掴まれて、そのまま頭上で軽く固定された。すぐ近くでじっと見つめられて、もう、抗えない。 「スミ……」  目を合わせたまま丁寧に名前を呼ばれて、返事をしようと思ったのに、そのままゆっくりと貫かれたわたしは、何もできなかった。  まだ緩やかに収縮を繰り返しているところへゆっくりと押し入られて、もう頂点に到達していたと思っていたのに、さらにその上へと押し上げられていく。全身が恐ろしいほどに粟立ち、感じたことのないようなゾクリとした震えに襲われる。 「痛く、ない?」  思うように言葉が出なくて、声もうまく出せなくて、ただひたすらに頷く。  まだ上があるのか、もっと上がっていかされるのか、と怖くなっていると、ジュンは全く動かずにじっとわたしを見下ろした。  ほんの少しも動かずにいると、繋がっている部分の状態が次第にはっきりしてきて、わたしの中で息をひそめるジュンの形をなぞるように認識できる気がして、そのあまりの卑猥さに息が止まりそうになる。  何の意図もない、目的もない、ただただ好きだからするだけのセックスをしたかった。  好きだから、触りたい。好きだから、キスしたい。好きだから、抱きたい。好きだから、繋がりたい。ただそれだけのセックス。  そんなシンプルなことにたどり着くまでに、どれだけ遠回りをしてしまったのだろう。『あげまん』だとか、運だとか、そんなくだらない事にがんじがらめにされて長い間苦しんでいたことが、本当に口惜しい。  でもきっと、それがわたしの道程だったのだろう。過ぎてしまった時間はもう書き替えられない。でも、これからの時間は、自分で、自分たちで作っていくことができる。きっと、できる。  ジュンがいれば。  みんながいれば。  今日何度目の涙だろう。こんな泣き虫じゃなかったのに、と思っても、涙は止まってくれない。人前でやたらと泣くような人間にはなりたくないと思うのに、どうにもならない。こんなに泣いてばかりいて、ジュンは呆れてしまわないかと不安になる。  そんなわたしを見下ろしていたジュンが、独り言のように小さく呟いた。 「……うん、だいじょうぶそうだね」  唐突に、思い出す。  あの日、あのスタジオで、わたしがぶちまけた荷物を拾い集めてくれた人たち。その中で、転がったビオラが壊れていないか確認してくれた人。その人が、少し音を出してから言ったのだった。 「うん。だいじょうぶそうだね」  と。  あれは、ジュンだった。  そうだ。確かにジュンだった。  肩甲骨のあたりまである長い髪を後ろで一本に束ねた、とても背の高い男の人だった。今聴いた声と同じ、低くて甘くて優しい声だった。あの時、耳を塞いだのだけど、その声はわたしにはちゃんと届いていたのだ。だって今、ちゃんと、こんなにはっきりと思い出せる。  わたしは本当に、ずっとずっと前からジュンを知っていたのだ。 「諦めて、逃げておいで」  胸の最奥まで突き刺さったジュンの言葉は、そのままそこに留まって、ゆっくりゆっくりと融けていく。それはわたしの心に根付く残雪を内側からそっと融かしていくようだった。  赦されることがもたらす幸福感に溺れて、現実を見失ってしまいそう。  頑張れ。  挫けるな。  耐えろ。  我慢しろ。  諦めるな。  逃げるな。  この世に溢れる、応援の言葉の何と多いことか。  人は幼い頃から、それらの言葉に背を押されて、そうするのが当然なのだと刷り込まれて生きている。その残酷な援護の海を泳ぎ続けて来た身には、ジュンの紡ぎ出す言葉がまるで溺れる者の目の前に投げられた浮き輪のようで、ただただ手を伸ばして縋ってしまいたくなる。  本当に、逃げてもいいの?  諦めて、逃げて、そうしたらその先に、ジュンは居てくれるの? 「……ジュ、ン…………」  涙の向こう側にゆらゆらと滲むジュンを求めて、手を伸ばす。  伸ばした手はすぐにジュンの指に受け止められて、そのまましっかりと握られた。指を交互に組んで、しっかりと掌を合わせて、もう簡単には解けないように繋ぐ。両手をそうやって固定されたまま、鼻先が触れそうな距離で見つめ合う。 「だいすきだよ」  わたしが欲しかったのは、たったそれだけの言葉だったのだ。  付き合ってください。  頼りにしてるよ。  俺のものになって。  ……幾人もの男に、いくつもの言葉で口説かれた。彼らはみんなそれなりに、わたしを必要としてくれていたのだと思う。でも、ただわたしを好きだとだけ言った人はひとりも居なかった。  好き、という簡単な言葉がこんなにもわたしを熱くし、胸を焦がし、こんなにも切ない。  こんなときは、どうしたらいいんだろう。どうやって応えたらいいんだろう。  わたしの中でじっと静止するジュンを意識すればするほど、そんなつもりはないのにわたしの中がぎゅっとジュンを抱きしめる。それは一度では済まなくて、しかも、固く抱きしめるほどにわたしのボルテージは勝手にどんどん上昇して、コントロールが利かなくなっていく。  全身にうっすらと汗が滲み、同じように汗ばむジュンと触れ合った肌が、キュッと抵抗を感じて引っかかる。  また、昇り始めるのがわかる。  このままでは、また……。  少しでも身体に力を入れると、声帯が閉じて、吐息はそのまま喘ぎとして漏れてしまう。それが恥ずかしくて、とにかく力を抜いて喉を開き、ただ深く深く呼吸を繰り返してプレッシャーを減らす努力をする。でもそれは、結果的に逆効果になってしまった。  鎮めようと抑えた反応は、そうしないと暴走してしまいそうな快楽の存在を証明し、静けさは、その快楽を与えてくれているジュンの存在を改めて浮き彫りにする。  今まで生きてきて、これほどまでに自分の身体も、心も、意思も、感覚も、とにかく自分の持っているもの全てを完全に誰かに委ねてしまうという経験はしたことがない。ここまで誰かを信頼したことも、許したことも、きっとない。  その痛いほどに甘やかで切なげで狂おしい感情は、わずかに恐怖のベールを(まと)い、これ以上はないというくらいに優しくわたしを包み込んだ。  一度登り詰めた直後の身体はあっけなく再び上昇させられて、怖いと思うのにそれに逆らえない自分を、わたしはなぜか俯瞰で客観的に見つめている気がした。  胸の奥がこれでもかと絞り上げられ、その痛みが身体の芯を伝って下腹部の最奥まで届くと、わたしは耐え切れずにどうしようもないうめき声を上げた。  もう、限界かも知れない。  言葉を発することができず、どうすることもできなくて、ただジュンの目を見つめ続けた。  おねがいします。  たすけて。   「……うん。いいよ」  そう、聞こえた気がした。  ジュンの、甘くて低いまろやかな声。すぐ目の前で囁かれた、心地いい低音。その声が消えると同時に堕ちて来た、優しいキス。  もう、止められない。  わたしは、いいよ、と赦されて、その手に縋り、その声に導かれて、さっきよりも深い頂に引きずり込まれていく。  そして、ジュンに正面から見守られたまま、全てを手放した。  こんなに静かな最果ては、今までたどり着いたことがなかった。少しも動かず、声も出せず、ただただ深く深く登り詰めて。こんな穏やかな絶頂があるなんて、わたしは知らなかった。  ジュン、と呼んだつもりだったけど、その声はきっとこの世には生まれ出ていなかったかも知れない。  涙が零れて、視界が滲む。その歪んだ世界の真ん中で、ジュンの優しい瞳がほんの少し揺れて、切なそうに崩れた。  わたしの頬にジュンの長い髪がふわりと触れる。ジュンが頭を下げてわたしの肩にトンと乗せた。固く結んでいた両の手を徐々に解いて、ジュンがわたしを抱きかかえるようにして身体を固定する。解放された両手が心許なくて、そのままジュンの背に回した。  繋がって、いちばん高いところまで連れて行かれた後は、今度こそただそのまま堕ちていくだけなのかと思ったのに、やっぱりそんなことはなかった。  行き止まりかと思えた頂上は、だだ広く開けていて、わたしはそこをひたすらに揺蕩(たゆた)う。わたしの身体を強く抱きしめたままゆっくりと少しずつ動き出したジュンが、堕ちていく事をさせてくれない。  そこはまるで、初めて『emergence』を聴いた時に見えたあの景色にそっくりで、恐ろしいくらいに広大な静寂の中をただ揺蕩うこの感覚は、もはやセックスをしていることすら忘れてしまうほどのものだった。  ジュンの吐息とともに吐き出されるエッジボイス混じりの低音が少しずつ余裕を無くしていくのを、意識の片隅で感じ取る。でももう、それもすぐにできなくなった。  もっとジュンを感じていたいのに、もっとジュンの熱を受け止めたいのに、追い立てられて、追い詰められて、わたしは何もかもを諦めるしかなかった。  まぁ、いいや……  そう思ったところまでは覚えているけど、それからは、もう、わからない。気を失うのとは別の、意識を、手放すような、放棄するような、そんな感覚。  全ての意思という意思を放棄して、ただ流されて、ただひたすらに揺蕩い続けた。  自分の世界とジュンの世界が溶け合う音が聴こえた。

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