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「ごめんね、隼人。他に好きな男ができちゃったの」
『お誕生日おめでとう』
彼女の誕生日には高級レストランを予約し、今月の生活費が心配になるほど高価なプレゼントを渡した。
『君は僕の命だ』
少し違う。自身の命より彼女の命を愛した。
幼い頃から勉学ばかり、二十八年間、恋愛とは無縁であった僕の初恋。
その恋が両翼を引き裂かれるように散ったのは三日前のことだった。
あの日、降り始めた雨の形はカラスの羽根に似ていた。去って行く彼女は、突如として店屋の角から姿を現した男と腕を組む。
ああ、あの男なんだね。僕から君を奪ったのは。
その時、舞い散る羽根が囁いたんだ。
【あの男が憎い。殺したい】と。奴さえ消えれば彼女は戻ってきてくれる。そう思った。
彼女と男を尾行。映画を観た後、レストランで食事をし、二人は見知らぬアパートの二階に消えた。二階の202号室。おそらく、ここが奴の住処だ。
彼女が帰ったら決行しよう。僕はホームセンターに向かい刃渡り二十センチの包丁を購入。再び奴のアパートに引き返す途中、古本屋の軒先に並んだ一冊の本が目に留まり足を止めた。
【復讐は計画的に】と書かれたタイトル。何かに引き寄せられるように本を手に取ると、その本は驚くほど薄く軽かった。
本を開いてみる。
「復讐計画は一ヶ月かけてじっくり練るべし。そして決行日を決め、カレンダーに書き込むこと」
そう書かれた一ページだけしかない書籍。
僕は、その言葉にしばし目を奪われた。一ヶ月の猶予。焦ると失敗する、という意味だろうか。
確かに、包丁を持ち乱入しても確実に殺せるとは限らない。縛る縄と返り血を浴びるだろうから使い捨てのカッパも必要だろう。
思い直した僕は本を購入。部屋に戻ると、押し入れから今年の卓上カレンダーを取り出した。赤ペンで一ヶ月後の日付に大きく丸をつけ、その下に「決行日」と書き込む。
一ヶ月かけて、奴の動向を探ってみよう。そう思った。
僕は大手製薬会社の研究室に勤務している。仕事が終わると、僕は奴のアパートへと向かった。アパートというだけで、奴が一人暮らしとは限らない。まずは、それを探ってみようと考えた。
一階に設置された集合ポストを確認。チラシの他に公共料金の明細書が入っていた。奴は門倉誠という名前らしい。
毎日、調べるうちに門倉の行動パターンというか、帰宅時間が判明した。平日は二十時頃。休日は日曜日だけ。休日前に彼女がこのアパートを訪れて泊まっている。
決行日まで後二週間、いつものようにアパート近くをウロウロしていると、前方から泣きながら歩いてくる子供に遭遇した。
「ママ」と小さな声を発しながら泣いている。ツインテールに赤いワンピースを着た、見た目、五、六歳の女の子だ。
迷子だろうか?どうしようか迷った末、僕は女の子に声をかけた。
「どうした?迷子か?」
女の子は涙目を上げる。
「ママが……」
迷子決定だ。
「おいで」
僕は女の子の手を引いた。
「どこ行くの?」
「警察署。ママを探して貰おう」
「けい、さつ?」
「うん。君、名前は?」
「彩綾」
「何歳?」
「六歳、お兄ちゃんは?」
「えっと橘花隼人。二十八歳だよ」
「お名前違う。パパかと思ったのに」
「ん?パパに僕が似てるってこと?」
「うん、おんなじ洋服着てる」
「あっ、スーツね。会社員はみんな同じような格好してるからね」
「高さも髪も、おめめも似てる」
「おめめ?目のこと?」
「うん。パパも細い目だった」
んー、身長百七十二センチ、髪型は黒いどうってことない短髪だし、奥二重の細い目は気にしてるポイントなんだが。
「彩綾ちゃんは、小ちゃくて目が大きくて可愛いね」
僕がそう言うと、彩綾は立ち止まり僕の腰に巻きついた。前を見つめてガタガタと震えている。
視界を振る。すると、目の前に白いブラウスと水色のスカート姿の女性が立っていた。女性が叫ぶ。
「彩綾、探したんだよ」
「ママ……」
彩綾は逃げるよう、僕の後ろに隠れる。どうやら、この女性がママなんだろうけど様子が変だ。
「彩綾、こっちにおいで」
女性が手を伸ばす。その時、「ママ、怖いから嫌」と彩綾が呟いた。
虐待だろうか?僕は彩綾に振り返る。
「なんで怖いの?」
「ママがさーやを抱いて、ビルから飛び降りようとしたの……」
「えっ?」
瞬間、女性は路上に膝をつき、顔を両手で覆った。
「ごめん、彩綾……ごめんなさい」
彼女は酷く泣いている。こんな時、どうしたら良いか分からず、オロオロした後、僕は女性と彩綾をカラオケボックスに誘った。まずは個室に入り落ちつかせてから話を聞こう。そう思ったのだ。
椅子に座り、ひたすら彼女の背中を摩っていると、落ちついたのか、彼女が語り始めた。
「三年前、事故で夫を亡くしました。彩綾と二人で強く生きていこうと思ったんですが、毎日が辛くて、生きていることに耐えられなくなったんです」
女性の名前は真下彩さん。二十九歳。ブラウンのセミロングが似合うが、目がくぼみ、やつれて両頬が削げた人。もっと太れば可愛いとは思う。彼女は両親を早くに亡くし、身寄りもなく天涯孤独だと俯いた。
何とか自殺を食い止める方法はないものか?考えを巡らせていると、あの本が頭にポンッと浮かんだ。
「自殺は一ヶ月後にしたらどうでしょうか?」
「一ヶ月後、無意味です。気持ちは変わりませんから」
「別に気持ちは変わらなくても良いですよ。でも、どうせ死ぬなら悔いが残らないようにした方が良いかと」
「悔いって何ですか?私に悔いはありません」
「彩さんになくても彩綾ちゃんにはあると思います。ためにし聞いてみましょうか?」
僕は彩綾に尋ねた。
「彩綾ちゃん、何がしたい?」
対面席に座る彩綾はオレンジジュースに差したストローから口を外すと元気に叫んだ。
「動物園に行きたい!」
「ほらね」
僕は彩に微笑む。
「明日は日曜日、僕は休みです。彩さんは?」
彩はハンカチを握ったまま、呆然とした顔で答えた。
「今日から永久的に休むつもりでしたが、明日は、やっ、休みです」
「じゃあ、明日は動物園に行きましょう!」
この時、互いの住所、連絡先を交換。
次の日、親子の家まで車で迎えに行くと、アパートの扉が開かれフリフリワンピースの彩綾が笑顔で駆けてきた。その後を緑のシャツにジーンズ姿のママが気怠るそうに歩いてくる。彩綾は後部座席、彩は助手席に乗ることになった。
動物園に向かう途中、彩の横顔は僕にこう言った。
「昨日は十月一日でした。十月三十一日、決行です」
「へ?何がですか?」
「自殺です。忘れないようにカレンダーに○をつけて決行日と書きました」
「なるほど」
(僕の決行日は十三日後だけどね)
象を見ながらハシャぐ彩綾。そんな彼女を眺め、ボンヤリ考えていると、隣に立つ彩が言った。
「私、象が好きです」
「分かります。あの長い鼻が可愛いですよね」
「私が可愛いと思うのは象の足です」
「へっ?」
「あの太い脚がたまりません」
「ああ、そうですか」
キリンを眺めている時も、彩は呟いた。
「あの脚がたまりません」
普通は長い首だと思うのだが。どうやら彼女は足フェチらしい。
動物園からの帰り道、運転席と助手席の間に身を乗り出し彩綾が言った。
「今日はママのカレーが食べたい!」
「カレーか。いいですね」
ウィンカーを右に下ろしハンドルを切る僕。
「ママのカレー美味しい?」
「うん!ママのカレーは世界一美味しいんだよ!」
「すみませんが、スーパーに寄って下さい」と彩が丁重に頭を下げる。
スーパーに寄り買い物を済ませてアパート前に車を停車させると、彩は仏頂面でこう言った。
「カレーは作り過ぎますので食べていって下さい」
そんなわけで、親子の家におじゃましてカレーをご馳走様になる僕。彩のカレーは彩綾が自慢するだけあって、世界一、いや宇宙一美味しかった。
色とりどりの花に囲まれた遺影の中には少しだけ僕に似ているパパが笑っている。壁にかけられたカレンダーには、31の数字が赤丸で囲まれ、しっかり決行日と書かれていた。
この親子が死んでしまったら、きっと天国のパパは悲しむだろう。
僕の決行日までには、何とか彩の気持ちを変えたい。強くそう思う。
翌日も、次の日も、僕は毎日二人の元に通い夕食を食べるようになった。
穏やかで楽しい時間が過ぎてゆく。いよいよ明日は僕の決行日。僕は夕食を食べながら彩に聞いた。
「まだ死にたい?」
「はい」
ダメだ。全く彼女の気持ちは変わっていない。しょうがない。僕は決行日を十月三十一日まで延ばすことにした。ハロウィンに復讐ってのも悪くない。それに今週は彩綾を遊園地に連れて行く約束をしてしまったのだ。
「楽しい?彩綾?」
「うん!」
メリーゴーランドに乗り、彩綾と僕は手を繋ぐ。振り返ると、馬車に乗った彩が控えめに手を振っていた。最近、彼女は少しだけ笑うようになってきたと思う。その笑顔をもっともっと増やして、死から遠ざける。それが僕の役目だ。
遊園地からの帰り道、彩綾はハシャぎ疲れたのか後部座席で眠ってしまった。決行日まで後三日。僕は彩に聞いた。
「まだ死にたい?」
彩は何も答えない。ずっと俯いていた。
「彩さん?」
アパート前、車を停車させ僕が少しだけ近づくと、彩はこちらに顔を向けた。
「死にたくないって言ったらどうなるんですか?」
「どうなるって?」
「死にたいって言わないと、アナタは私と娘に会いにきてくれなくなりますか?終わってしまうんですか?」
「彩……」
「終わってしまうなら、私はずっと死にたいです」
胸の中にくすぶっていた熱い想い。それが一気に爆発した。たまらず彼女の肩を引き寄せ抱きしめる。
「終わらないって言ったら、アナタは生きてくれますか?」
「うっ、うぅぅ」
彩の嗚咽が胸の中から悲しく響く。
「答えろ、彩」と、僕は吐き出すように問う。
「僕と君、彩綾とパパ、四人で生きるか?」
彩はズズーッと鼻を啜りながら顔を上げた。
「それは夕食を食べながら考えます。決行日を延ばしながら、毎日、考えます。アナタと……」
◆
十月三十一日は休日前夜。ハロウィンの夜、僕は決行するため、門倉のアパート前に立った。今頃、二人は熱い時間を過ごしているはず。
良く考え、悩んだ結論。
それを胸に秘め、階段を一歩いっぽ上がる。部屋の扉をノックしようとした時、ドアが勢いよく開き奴が姿を見せた。
金メッシュと左耳のピアスが揺れる。門倉は驚いた顔で僕を凝視した。僕は奴の横顔しか知らない。正面から顔を見たのは初めてだった。
門倉は「お前……確か」と記憶を手繰り寄せた後、指を差し不敵に笑う。
「彼女の前の彼氏だろ?何の用だ?俺を嘲笑いに来たのか?」
嘲笑う……だと?僕は首を僅かに傾げた。
「何のことだ?」
「とぼけんな!俺が彼女に捨てられたこと笑いにきたんだろ?」
「捨てられた?どうして?」
「違う男ができたんだよ!あのアバズレ女、絶対に許さなねぇ!ぶっ殺してやる!」
奴は手に握った包丁を胸の高さまで上げる。今から彼女を刺しに行くのは明白だ。
まさかの展開。
今日、僕は奴に祝福の言葉を伝えにきた。なぜなら彼女の幸せを素直に願う自分がいるから。それが僕の考えた決行だからである。
「退け!」と、鼻息の荒い奴に「ちょっと待て、落ちつけ!」と、僕は両腕を広げた。
「復讐計画は一ヶ月かけてじっくり練るべし。そして決行日を決め、カレンダーに書き込むこと」
「はっ?」
「その方が成功率の高い復讐ができる。僕はそれで成功した」
沈黙で僕を見つめている門倉。やがて奴は包丁を下ろした。
「それはマジか?」
「マジだ。お前、赤ペン持ってるか?」
「知らねーが、探せばあると思う」
「そうか、お前の決行日は十一月三十日だ。忘れないように○をして決行日と書いておけ」
僕はそれだけ言い残して踵を返す。
僕らの見る景色は、止まることを知らず常に動き続けている。今のこの感情が、一ヶ月先も同じであるとは限らない。
階段を下ると、ビューッと冷たい風が吹いた。
僕はコートの襟を立て、カボチャに彩られた街を早足で歩く。行く先は?そんなこと決まってる。
愛する恋人と娘の待つ場所へ夕食を食べに帰るのだ。
一ヶ月先、いや一秒先の未来さえ人間には予測不可能。……だけど、この瞬間、僕はこれが正しい決行で最大のハッピールートだと信じている。
今夜のメニューは何だろう?
今は、早く帰って二人の笑顔で癒されたい。癒された後は、決行日と書かれた二枚のカレンダーを三人で破り捨てる予定だ。新しい決行日は、もういらない。書かせないから。
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