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妹のせいで不幸なんだ。
妹のせいで、いつも我慢していた。
11月だというのに、暖かい陽射しの午後。
背中のランドセルは、暑くて脱いだ上着を詰め込んだせいでパンパンだ。
「理世。お姉ちゃんなんだから、菜緒と一緒にいてあげて」
学校から帰って、母の第一声がそれだった。
近所の同級生と遊ぶ約束をしていたのに。何で妹の世話をしなきゃいけないの?
本当はそう言いたかったが、ぐっと堪える。
「菜緒はもう小学生なんだから、一人で平気でしょ」
「一緒にいるくらいいいじゃない」
細やかな反抗にも、母親はこちらを見ることさえしなかった。背中を向けたまま、PCから視線を外さない。
「忙しいんだから。協力してよ」
「友だちと遊ぶのに妹なんて連れていけないもん」
「我慢して」
一度も振り返らず、理世の言葉を冷たく跳ね返す。3人姉妹の長女に産まれて本当に損だと思った。
理世がしたいことは何だって我慢しないといけない。
「菜緒はいいよね。わたしが小1のときは学童だったのに」
「入れなかったんだから仕方ないでしょ」
できる限りの不機嫌な顔を母に向け、理世は立ったままの菜緒を見た。申し訳そうな顔など全くしない。こちらの苦労を何一つ知らない顔の妹に、また腹が立った。
次女の美南に押し付けようにも、今はいない。水曜日だから、習い事だろう。
「菜緒、行くよ」
仕方なく手を繋ぐ。
菜緒が産まれる前は家族でお出かけをしていた。外食もしたし、キャンプにも行った。
(お父さんとテントを立てたのに)
最近の父親は仕事が忙しいと言って休みの日もいない。だから、お出かけなんてしない。きっと、菜緒が落ち着かないから、世話をする親が疲れるから、出かけない。
☆
友だちとは公園で待ち合わせていた。住宅街の一画にある公園には、ブランコと滑り台と鉄棒があって、それぞれに他の学年の小学生が遊んでいる。
「妹ちゃんと一緒なの?」
待っていた友人Aが目を丸くする。
「このあと自転車でクリスマスプレゼント買いにいく約束だったけど、無理だよね?」
「なお、自転車乗れないよ」
無邪気に返事をする菜緒に、理世は腹の底からイライラした。お前のせいで迷惑していること、気付けよ。と、本当は罵りたい。
「ごめんね」
「大丈夫。理世、気にしないで」
友人Aはニッコリ笑う。
「家まで一緒に帰ろうね」
友人Aは菜緒と手をつないだ。
「買い物はまた今度ね」
理世は渋々うなずく。そうやって大人しく帰ることになった。
「本当に長女って損だよね」
ぽそりと呟く。
「えー」
友人Aはクスクスと笑った。
「妹の世話したり、ワガママに付き合ったり、順番譲ったりさ。あと、自分が小さい頃は駄目だったのに、妹は許されたり」
「例えば?」
「ジュースとか、おやつとか。アイスは決まったのしか食べちゃだめだったのに、菜緒は好きなものを食べてた。ズルい」
「理世ってかわいい」
友人はそういうと、じっくりと理世を見つめた。
「確かに童話とかだと、末っ子がおいしいね」
「そうそう! 姉はいつも悪役!」
「でもさ、あれって罪悪感だかと思うんだよね」
「ざいあくかん?」
「昔の人って、子どもを売ったり捨てたりしてたってきいたことある」
友人Aはそんなことどこで知ったのだろうか。
「自分たちが生き延びるために殺した。邪魔よね。たべるくせに、世話しなくちゃなんだもん。きっと殺したのよ。末っ子を」
(殺す、なんて)
友人Aは、不穏な言葉をさらりと口にして、何事もないように話を続ける。
「だから、英雄物語をしたてて、末っ子は私達の知らないところで成功した。わたしたちは悪くないって、いってるんじゃないのかな」
「そんな大昔のことなんてどうでもいいよ。今は末っ子だからって捨てられたりしないもん」
背中がゾクリと冷たくなって、理世はつい怒ったように言い返していた。
その時、ふいに後ろの菜緒の様子が気になった。
「菜緒?」
いるはずの菜緒がいない。
「菜緒!」
一人でどこかへいってしまったのだ。公園から家までのたった数分の間だというのに。
おしゃべりに夢中になって、目を離してしまった。
名前を呼び、すべての曲がり角に妹の姿を探す。友人Aも一緒に。
菜緒は農業用水路に架けられた、小さな橋の近くにいた。そこは住宅地と住宅地との間にあり、人気がない。車通りの多い道からも離れていた。裏寂れた田園風景の中に妹は立っていた。
「菜緒!」
理世に気づいても、菜緒は悪びれもしなかった。
「ザリガニいるかな」
用水路の端っこを指差す。理世にはどうでもいいことだ。
「帰るよ」
「やだ」
「お母さんに叱られるよ」
「やだ。理世はすぐ怒るからやだ。嫌い」
その時、感情を押し込めていた蓋が、開いてしまった。
「死ねばいいのに」
言わずにはいられなかった。
「お前なんか、死ねばいいのに」
ここは橋の上。
ーー妹は得だよね。
ーー何も出来ないくせに優遇されて。ワガママも許されて。
ドス黒い感情は渦巻いて菜緒に向かっていく。
「理世お姉ちゃんはさ」
突然背後から友人Aの声がした。
そして、振り返る間もなった。
「菜緒ちゃんに橋から飛び降りてほしいんだよ」
一瞬の隙きもなく、菜緒は橋の下へ落ちた。彼女が突き飛ばしたのだ。
「菜緒!」
理世は叫んでいた。
「何するの!」
橋の下から菜緒の泣き声が聞こえた。田んぼの水路にかけられた小さな橋とはいえ、突き落とすなんて。
「スっとした?」
ふと、友人Aは理世の隣で囁いた。
驚いて振り返る。友人Aは橋の下で泣き続ける妹を見ていた。無表情というには優しく、笑顔と言うには冷たすぎる面差しをして。理世の視線に気づいて、友人Aはにっこりと口角を上げた。
「もう一人の妹ちゃんもやってあげようか?」
信じられない言葉だった。
「やめて!」
「ふーん。妹は得。姉は損。そういってたのに? 妹でも、だめなんだ。へぇ。」
「違う」
泣き続けている菜緒の泣き声を背に、友人Aを睨みつけた。
「妹にこんなことしないで」
「嘘。本当はざまぁって思ってる」
「思ってない!」
「我慢しないで。わたしは理世のお母さんじゃないから、怒らないよ」
背負っていた鞄の中から、何かを取り出した。
「菜緒ちゃんのこと嫌いでしょ」
それは、ハンマーだった。
「役に立たないから」
ハンマーを携え、静かに、菜緒に近づく。
「妹がいらないってことは、生まれてほしくなかっまたんでしょ? 死んでほしいんでしょ?」
菜緒の泣き声がうるさかった。理世はただ立ち尽くして、泣きじゃくる妹を見ていた。
「ころさないで」
菜緒が涙を拭きながらしゃくり上げる。
「ごめんなさい」
どうにか声を絞り出す菜緒に、友人Aが吐息を漏らした。その姿を見た瞬間、理世の目の前が暗く淀んだ。じわじわと目眩が襲ってくる。
泣いている妹の前に立ちはだかる女がいる。
その光景は、どこか見覚えがあった。
「ごめんなさい、ちゃんと謝るから」
菜緒の言葉は記憶をなぞっていく。
ごめんなさい、ちゃんと謝るから、ごめんなさい、お母さん……
菜緒は怒られている思っている。家で母親に叱られた時と同じことを言っている。
橋から突き落とされ、ハンマーで殴られそうになっているというのに。そこまでされる非などないのに。
(母親と同じに見えるの?)
菜緒のワガママに苛立ち、ヒステリーを起こし、罵声を浴びせるなら、どんな反論も聞く耳を持たないなら、あの母親と同じか。
でも、理世はそれを許せなかった。妹の世話を押し付けられても、母に嫌味を言われてもいい。母と同じ。母に似ている。それだけは許せない。
「やめて」
理世ははっきりと言った。友人Aが振り返り、冷たい視線を投げかける。
「やめる?」
理世は何も言わなかった。だが答えたつもりだ。もう帰りたい。もう、やめよう。友人Aは理世を見たまま動かない。意気地なしとでも言いたいのかもしれない。でも、それでいい。
「わかった」
鞄にハンマーを押し込んで背負い直し、
「いこうか」
友人Aはいつもどおりの笑みを浮かべた。理世は菜緒に手を差し伸べる。
「帰ろう」
素直に手を伸ばす菜緒と並んで、再び歩き出した。
でも、もう、もとには戻れない。理世が菜緒に視線を移す。
(菜緒が大人しすぎる)
いつもなら、菜緒はあちこち動き回って、理世を困らせていた。自販機でジュースが買いたいとか。ブランコに乗りたいとか。遠回りして帰りたいとか。今日あったことをやたら話したがり、つまらないことばかり喋って。
今は、気味が悪いほど黙っている。
濡れたスカートから、ポタリとしずくが落ちた。
「わたしといる時は、隠さなくていいよ」
友人Aの微笑んだ唇だけが、脳裏に鮮やかに焼き付く。
彼女は、妹を用水路に突き落とした。それなのにヘラヘラと喋りかけてくる。正気とは思えない。答える気にはなれない。
「腹が立つよね。妹ばかり得してさ。だから、殺していいよね。理世もよく言ってた。姉は損だって。だから、妹に生きる権利はないよね」
理世は大きく首を振る。
「あれ? 否定するの? それは罪悪感かな?」
「違うよ」
菜緒の手をきゅっと握りしめる。妹はもう、何をしても無反応だった。
「気づいただけ。私は、童話に出てくる意地悪な姉ではない」
夕暮れ時を迎え、日は陰り始めていた。家につくと、母親は廊下に立って電話をしていた。帰ってきた理世に気づき、顔を向ける。
「理世、どうしたの?」
母親は吐き出すように呟いた。菜緒がずぶ濡れで帰ってきたことを咎められる。理世は思わず肩に力をいれていた。
「菜緒、濡れているじゃない。着替えておいで」
菜緒はうなずく。濡れた靴下を脱ぎ、ペタペタと洗面所へと消えてしまった。
「困った子だね」
苦笑いする母親に、理世は目を見開いた。めずらしく怒らなかった。もちろん、そのことにも驚いたが、それだけではない。
(気づかないの?)
いつも泣いたりわめいたりする菜緒に何の違和感もないのか? それに、なぜ濡れたかも聞かないのか?
「ねぇ、理世」
玄関に佇んだままの理世に、母親が近づいた。
「美南がなかなか帰ってこないの。ピアノ教室に電話したら、もう帰ったっていうのね。ねぇ、理世、迎えに行ってもらえない?」
衝撃が理世の胸の真ん中を貫いていった。
こんな時に長女を頼るのか!
(長女は妹を見殺しにしようとしたことも知らないで)
三女は濡れて返ってきたというのに理由を聞きもしない、気にもしない。
次女の帰りが遅くても姉を寄越す。
じゃあ、母親は何をするんだ?
「お前がいけよ」
理世の口から、思わず滑り落ちた。自分でも初めて聞く、凍りつくような声だった。
「親になんて口聞くの!」
母親はみるみる顔が赤くなり、反射的に叫んでいた。
理世は黙って玄関の外へ出た。
母親の叫び声が聞こえた気がした。でも完全に無視だ。
いつの間に隣りに居座っていた友人Aが肩に手を乗せる。
「親のせいで不幸なら、親を殺してあげるよ」
彼女の唇が作る笑みは、どこか確信的だった。
「不幸を誰かのせいにできるうちは幸せだからさ。今のうちだよ」
友人Aの顔が西日に照らされた。その顔は、理世と似ていた。まるで、鏡を見ているようだった。そういえば、背中がズシリと重い。背負っていた黒い鞄を下ろすと、理世はゆっくりとファスナーを開けて中身を覗いた。
鞄が作り出した黒く沈んだ虚空には、菜緒を殴ろうとしたハンマーがあった。
「不幸なのは、妹のせいじゃなかった」
握りしめたハンマーの柄は、理世の掌にしっくりとなじむ。ひんやり冷たくて、気持ちいい。理世はしっかりと握りしめて、もう一度母親のいる家へと戻っていった。
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