ニセモノの囁やき

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 罪悪感を持つ必要はない。あなたはひき逃げなんてしていない。確かにあなたの運転する車と接触したけど、もう済んだことでしょ?  まあ、一応あなたの疑問の答えます。でも、今からする話は忘れて。いわゆる、死神の話だから。 ★  当時、僕はとにかく何もかもが嫌だった。この世界の何もかもが。  それは些細なことかもしれない。職場で挨拶を返してもらえなかったり、雑談していた人たちが、僕が現れるなりさっと解散したり。誰とも話さず仕事をし、帰宅する。それが僕の毎日だった。  その頃は両親と暮らしていた。二人は僕がまともな仕事をしていることをものすごく喜んでいた。毎日のように「本当によかった」「これで安心だ」と言うものだから、辞めたいなんて口に出せなかった。  朝早く出社し、夜遅く帰ってさっさと自室にこもる。それだけの日々。もちろん休日に外出する気力など沸かない。部屋に逃げ込んで、僕はようやく僕でいられた。僕に戻れた。  その日も部屋に帰り、一息つこうとした時。腰高窓のカーテンが開けっ放しだった事に気づいた。母親が閉め忘れたのだろう。「換気くらいしなさいよ」と言っていた気がするから。外界への扉が開いているみたいで嫌な気分になる。 (締めとけよ)  苛立ちながら窓へと向うと、外に誰かが立っているのが見えた。小柄で若い女性だった。こんな夜中に窓からこちらを覗いているなんて不審者そのものだ。  でも、僕は彼女を知っていた。  「こんばんは」  彼女は頭を僅かに揺らし、頷くように挨拶する。 「何しに来たんだよ」  僕が返しても何も言わない。こちらを見つめたまま動かない。 「祟りに来たの?」  僕は大きく息を吸い込み、わざとらしくため息をつく。 「それとも僕を見下しに来たの?」  ヤケクソみたいなことを吐き出すと、ようやく彼女は口を開いた。 「あなたは良い人です」  僕は顔をしかめる。あまりに馬鹿にした言い草だったから。 「最低な人間なのに?」  彼女は小さく首を振る。 「そんなことはありません」 「嘘つけ」  言い捨てた僕を、彼女はじっと見つめる。 「あなたは優しい人です」   彼女がそう言い放った瞬間、僕は思わず敵意の視線を向けてしまった。目と目が合うと、彼女は反対に穏やかに微笑んでいた。 「お礼を言いに来ました。あなたのおかげで自由だから」  その時、胸がチリリと鳴る。 (自由?)  幸せそうに微笑んだまま、彼女は僕から遠ざかる。 「痛い思いをしたくなかった。だから代わりに身を投げてくれてありがとう」  僕はその時、その笑顔の狡猾にようやく気付いた。 「さよなら」  彼女は逃げるように消えてしまった。窓ガラスには青白い顔の僕が映っている。彼女と全く同じ顔の僕が。  窓を開けると冷たい風が舞い込んだ。街灯と近所の家の灯りが夜に滲んでいる。 「さよなら、か」  窓枠に乗り、僕は飛び降りた。 (今まで何故こうしなかったのだろう)  部屋は1階だから難なく外へと出られるのに。   行く先もわからず、裸足で街を歩き始める。部屋の中に留まるのはもう限界だった。息苦しくて、ずっと逃げ出したかった。歩きながら、ささやかな自由を感じながら、僕はあなたに轢かれた夜を思い出していた。   あの日、あの山道で。  僕は走る車の前に飛び込んだ。  一人で死ぬつもりだった。  それなのに、跳ね飛ばされた僕は近くを歩いていた彼女を巻き込んでしまった。そして二人して崖の下に落ちた。 「……死ねなかった」  地面に倒れ、意識が薄れていく僕の隣で、座り込んだ彼女がぽつんと呟く。  僕は見事に致命傷を追ったけれど、彼女は軽い怪我だけで済んだようだった。こんな夜中に山道を彷徨っている女だ。僕と目的は同じだったのだろう。それなのに彼女だけが助かるなんて!  無性に腹が立った。もう後悔していたから。何故やけになってしまったのだろう。やっぱり生きていたい、と。 「……お前が死ねばよかったのに」  気づくと彼女の足首を掴んで呟いていた。彼女は目を見開いてから、僕にそっと囁く。 「私の肉体で良ければさしあげます」  一瞬戸惑ったものの、渇望してしまった。命のある体を。 「その代わり私の両親を幸せにして」   そう言って泣く彼女の肉体を、僕は何も考えずに乗っ取っていた。馬鹿だった。彼女はずっと馬鹿を探していたのだろう。  でも、最悪な環境から逃げ出したいけれど術を知らない彼女と、どんな体でもいいからまだ生きていたい僕は、あの瞬間だけは互いに利益のある関係だった。 ★  その後は、あなたも知っている通り。僕とあなたとだけで起きた山道での交通事故として処理された。もう済んだこと。僕の死体は崖の下で腐ちているだろうけどね。  ね、わかったでしょ?  僕の一人称が僕のわけ。  あなたと付き合えないわけ。  中身が男だからだよ。本当は男に戻りたいんだ。  怖がらないで。大丈夫。あなたを乗っ取ったりしないから、もう、この話は忘れてほしい。絶対に乗っ取ったりしないから。  でも、僕を轢き殺した罪悪感から逃れたいなら、或いは。ね
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