20人が本棚に入れています
本棚に追加
四 夜着の女(ひと)
金沢の最初の映画館は、香林坊に当時できた福助座だと言われている。そのころはまだ活動写真と呼ばれていて、最初はその活動写真よりも歌舞伎などの芝居が主だったようだ。
葉子も幼いころ、加賀の団十郎と呼ばれた四代目嵐冠十郎の歌舞伎を母らと見に行った記憶がわずかばかり残っている。芝居の筋などはまるっきり覚えていないが、金銀の糸で刺繍が施された豪華絢爛な衣装に照明の反射する様や、隣の母が頬を紅潮させて舞台に見にいる様子、そして酒を飲みながら楽しむ人々の熱気は覚えている。
今日良子と行くのは香林坊の大神宮境内にあるスメル館である。カフェや映画館や芝居小屋の並ぶ香林坊は、何度来ても祭りの最中のようで葉子の胸は高鳴る。今日も境内はほうずき売りや飴売りの屋台が並び、売り子の呼び声と、人々のざわめきがうずを巻いている。
「頑張って休暇中の課題を泣く泣く終わらせた甲斐があったわ。めずらしくお母様もニコニコ顔でおこずかいもはずんでくれて、これも玉三郎さんのおかげってものね。今日も玉三郎さんにくれぐれもよろしくって。必死よ」
とうの玉三郎は葉子と良子の数歩先をぼんやりとした顔で歩いているばかりである。
「まぁ、もう全部終わらせたの?」
「葉子もでしょう?」
「わたしは」
あれから夜着のことや友のことで心忙しく、良子と進めた課題はそのままになっていた。
「えー? 葉子がめずらしい。いつも葉子が先に終わらせるのに」
「そうね。もうそろそろ頑張らないと」
話題のチャップリンの新作である黄金狂時代を見るために、ずいぶんと前から両方の親を口説いてやっと来た今日という日である。葉子は気がかりもありながら、やはり知らずと声が大きくなるほどには浮足立っていた。
「ほら、券を買うからそこにいろよ。迷子になるなよ」
いつの間にか立ち止まって振り返っていた玉三郎は眠たそうにそう言いおくと、販売所のほうへと歩いていった。
だいぶ余裕を持って家を出たせいもあって、三人が席についたときはまだ周囲に空きが目立つ様子であったが、もう少しすれば立ち見もでるほどの盛況となるだろう。なにしろ、チャップリンの人気はすごい。本ばかりであまり映画には興味のない玉三郎も、今回はチャップリンの映画であるからおそらく付き添ってくれたのだ。
「良子。良子の家のお店に悌吉さんっていう番頭さんがいるって聞いたんだけれど。うちのおしまにね」
「ん? えぇ、いるわよ。どうかした?」
パンフレットに目を落としていた葉子の右隣に座る良子は、不思議そうな顔を葉子に向けた。左側に座る玉三郎は、薄暗い中いつものごとく文庫本を広げている。
「もうだいぶん前よ。十三年とか、それくらい前なんだけれど、おかやさんから夜着を買ったようなのよ」
「夜着?」
「そう夜着」
良子はわかったようなわからない様な顔をしている。
「その夜着をどこから手にいれたとか、そういうことを知りたくて。お店のそういうことならその番頭さんに聞くのが一番じゃないかって、おしまさんが言うんだけれど、どうかな」
「どうかな、って言われてもね」
良子はそういいながらも頬に軽く手をあてて考え込んでくれている。
「そうね。やっぱりどこから仕入れたとか、どこに売ったとか、そういうことは悌さんに聞くのが一番だと私も思うわ。もし覚えていなくても、悌さんはいつも帳面に丁寧に記録しているから、きっと調べればわかると思うし。でも、どうして? なにかあったの?」
葉子はどこまでを説明しようか迷いながら、しかし良子の店から買ったものにいちゃもんを付けるように聞こえてしまうのも怖くて、ただ少し気になることがあってね、とだけ答えた。
「そう。急ぐ話? もしそうなら今日帰りにうちに寄って行ってよ。玉三郎さんも来てくれたらうちの母も喜ぶだろうし。もちろん葉子が来ても喜ぶわよ」
とってつけたような言葉に葉子は笑いながら、
「ありがとう。そう急いでいるってこともないんだけど、そうさせてもらおうかな。でも大丈夫? 番頭さん、忙しいでしょうに、急に行って迷惑じゃないかしら」
「大丈夫よ。きっと。最近は下のものに任せて、前よりは楽になったようだから」
良子は家業のことを話すときだけ途端に大人びた口調になる。それがなんだか時々憧れるような、うらやましいような気持ちになった。
「そう」
ちらりと玉三郎を見たが、やはり視線は本に落ちたままだ。そうこうしているうちに、目の前のスクリーンに映り始めた映像に、三人は飲み込まれていった。
映画が終わり、葉子と良子は今見たばかりの映画の感想を興奮しながら語りあっているうちに、尾張町にあるおかやの前に着いた。
良子が予想した通り、玉三郎の来訪に良子の母は色めき立ち、今日の礼を述べながら、高価そうな洋菓子で二人をもてなしてくれた。三人が母屋の客間でしばらく菓子をつまんでいると、すぐにおかやの番頭である悌吉が顔を出した。小柄だががっしりとした体つきをしており、和服で座る姿もさすが大店の番頭という姿勢のよさである。気を利かせたのか、悌吉が座ると、代わりに良子は目配せをしながら部屋を出ていった。
「玉三郎様も葉子お嬢様もお久しぶりでございます。お二人ともりっぱになられて」
玉三郎はさきほどからの余所行きの顔であいさつをする。世間知らずのようでいて、こういうところは如才ないのだ。
「すみませんね。お忙しいところ」
玉三郎の言葉に悌吉は愛想よく顔の前で手を左右にふる。
「いえいえ、最近はめっきりお役御免で、暇な身なんでございますよ。それで、なにか聞きたいことがあるとか」
「はい」
玉三郎が目で促すので、葉子から話し始めた。
「以前、といってもだいぶ前の話なのですが、十三、四年ほど前になると思います」
その言葉に、悌吉は本当にだいぶ前のお話でございますね、と少し驚いたような顔をした。
「えぇ。そのころにうちのおしまから冬用の布団を用意して欲しいとこちらにお願いしまして、それで夜着を用意していただいたことがあったのですが、お憶えですか?」
悌吉はほほぅ、と唸るとさほど悩む様子もなくうなずいた。
「えぇ、えぇ、覚えておりますよ。牛首紬の夜着でございましたね。ちょうどすぐに出せるものがあれだけでして、おしまさんもそれでいいということで、お渡ししたのを覚えておりますよ。あれがいかがされましたかな? なにか不都合がございましたか?」
悌吉の物覚えのよさに驚きながら、葉子は何と答えようか口ごもった。正直に言うのが一番なのだろうが、悌吉らに嫌な思いをさせるのは忍びない。葉子の様子を察してか、黙っていた玉三郎が口を挟んだ。
「いえね、茶柱が立つと縁起がいいとか、燕が軒に巣をつくると吉兆だとか、座敷童がいつくと家が栄えるとか、言いますでしょう」
急な話に、さすがの悌吉もうなずきながらも首をかしげている。もちろん葉子も目を丸くする。
「柳田國男の蝸牛孝にはかたつむりが吉兆だという地域もあるとか。彩雲なんかもまたやはり吉兆でしょう。うちの母や父はそういうことに熱心なたちでして」
「え、えぇ。うちも商売ものですから、やはり大奥様など、いろいろと方角や日にちなどはお気にされます」
先の見えない話にも愛想よく返す悌吉は、やはりさすがである。
「ご存じかと思いますが母も元は商売屋の娘ですから、とくに着るものにはうるさくて、そのぶん昔からの言い伝えにも詳しいものですからね」
のらりくらりと玉三郎の話は続く。
「着物は夜には干してはいけない、袴の襞がぴしりとしていないものは食うものに苦労する、とうるさく言いつけられていました。それで、母のいうことには、着物の話すのは吉兆だ、と。しかも女の吉兆だとこういうんです」
「着物が話す?」
急に話が戻ってきて、葉子はぎくりと玉三郎を見たが、とうの玉三郎は涼しい顔のままである。
「えぇ。大事にされた着物は、言葉を発する、とそういうんです。そしてそれは女の吉兆だと。いい家に嫁に行き、大事にされると、まぁそういう話なんでしょうがね、おかやさんから頂いた夜着が言葉を発したってんで、これは吉兆だと母も喜びまして。うちには今から片付かないといけないのがまだおりますから」
玉三郎は何が面白いのか。ははは、と快活に笑った。
「という話ですから、あの夜着の出どころやなんかを教えていただけるとありがたいと思いましてね」
葉子はあきれながらも、玉三郎の煙に巻くような作戦に感心した。穢れもいいようには吉兆だということか。言ったもの勝ちである。
「言葉を発したんでございますか」
悌吉は何とも言えぬ表情で、そう繰り返した。
「あの夜着はどこから?」
玉三郎の問いに悌吉はすこし視線を彷徨わせる。
「あれは、当時よく取引のあった道具屋から仕入れたのでございます。夜着ではあるが、紬自体はいいものだということで」
「仕入れてからすぐにうちへ?」
すっと息を吸って、悌吉は再度宙を見る。
「おしまさんから話がある前に道具屋からいいものがあると、話しがあった、と思います……。えぇ、そうです。狙ったような話ではありますが、道具屋が先でございました。私も、実際夜着にはもったいない着物だと思った覚えがございます。値もはりませんでしたから、すぐに引き取って」
あ、とそこで悌吉は何かを思いだしたようで、言葉を止めた。
「どうかなさいましたか?」
何かを思いだした悌吉は、それを言おうか言うまいか、逡巡しているようであったが、その逡巡を玉三郎に察されているだろうことに気が付き、苦笑いをした。
「吉兆の予兆があったんでございますね?」
「吉兆と呼んでよいのか」
「吉兆でございましょう」
玉三郎の言葉にふんぎりがついたのか、悌吉は口を開いた。
「夜着を仕入れた晩、衣文かけにかけて湿気を抜いていたんでございます。店の奧の、反物などもいくつか置いてある小部屋でございます。小さな部屋でございますから、そう店のものも出入りするような場所ではないのでございますが、夜にうちの丁稚の歳三が、喉が渇いて起きた際にその部屋の戸がすいているのを見つけたのでございます。雨戸も締め切ってありますから、真っ暗なはずだったのでございますが、不思議と戸が開いているのがはっきりとわかった、と。それで戸を閉めに行ったのでございますが」
ぐっと気温が下がった晩でございましから、自分の息が見えるような闇の中、わずかに二寸ほど開いた戸を閉めようと近づいて、中をふっと覗いたのでございます。すると洗い髪を簡単に束ねただけの女が中に。
葉子は知らず肩に力を入れて、息を止めていた。
「衣文かけにかけた夜着の前に立っていたのでございます。薄汚れた縞の着物がはっきり見えたと申しておりました。歳三から見えるのはその女の後ろ姿でございますが、歳三は驚いて身動きも取れず、声も出せずにしばらくその女の後ろ姿を見つめていたようでございます」
キリリ 聞こえるか聞こえないかの小さな音とともに、女の頭がゆらりと動く。
「女はゆっくりと振り向こうとしたそうで、そこで歳三はやっと動けるようになって、寝部屋へと走り帰って、隣で寝ていたものを起こして今あったことを語ったようでございました。二人は隣の部屋に寝ていた私を起こして、三人でその部屋に見に行ったのでございますが、その時には部屋の中は空。歳三が閉めた覚えのない戸もぴっしりと閉まったままでございました。もちろん夜着も変わらずそこにかけられたままでございました」
そこまで話し終えた悌吉は気まずそうな顔をした。
「歳三は寝ぼけることの多い質でございましたから、その時も寝ぼけての見間違いだろう、と。そう我々も取り合わなかったのでございます。また歳三も思い出したくないのか、寝ぼけたのだろうと言われても、それ以上何かをいうこともございませんでしたから。ただ、その後数日寝込みまして。食事もとれずげっそりとしてあの時は心配したのですが、数日後にはけろりと回復しまして。そうそう、その時はなにか悪い感冒にかかって、そのせいで悪いものを見たのだろうと、そう店のものとも結論付けたのでございます」
もちろん逆であろう。夜着のそばに立つ女を見たせいで、歳三は寝込んだ。やはりあの夜着には障りがある。それもそばにいただけで。
「その歳三君は、まだここに?」
玉三郎の問いに悌吉は眉間にしわを寄せた。
「いえね、それから数年はうちで働いていたんですが、ある時から動悸や眩暈を訴えるようになりまして、医者に見せましたら、心臓だというんで、しばらく兄の家でやっかいになると言うんで休みを出したんでございます。もちろんまだ二十歳にもならない歳でしたからね、しばらく養生してまたうちに戻ってきてもらうつもりだったんですが、そのまま……」
葉子はぞくりと腰から下の力が抜けるような感覚に襲われた。まさか……。
「一年ほどで、ある朝亡くなっていたと店に義理の姉に当たる人が連絡をくれて。やはり心臓が弱って、という話だったそうでございます。惜しいことをしました。歳のわりに義理の固い人間でございましたから」
今まで愛想のよい笑みを作っていた玉三郎の眉のあたりがぴくりと動いた。
「せっかく来ていただいたのに、こんなお話をお聞かせしまして」
いえ、と玉三郎が首を振る。
「人の世は、裏表の連続ですから、そういうこともございましょう。歳三さんは、残念でしたね」
「えぇ」
番頭然とした顔に、年相応の影が落ちる。いい人なのだろう、と葉子は思った。
「その道具屋はまだ?」
「はい。橋場のほうで。奥村、という店なんですがね。偏屈な男で、いえ、そう悪い人間でもないんですがね。もう代はさすがに息子に譲ったとは思いますが、まだ元気にやっております」
「お話を聞かせてもらうことはできそうですか。もちろんその夜着のことを」
悌吉は玉三郎の目をじっと見ると、諦めたようななにかを悟ったような表情をした。
「何か、あったのでございますね」
「悌吉さんの思っているようなことは起きておりません。ご安心を。しかし、やはり人の世は表裏。裏返してみても、また裏ということもありますから、念には念をいれて全てをひっくり返してみるのもまた一興かと」
しばらく悌吉は何かを考えている様子であったが、顔をあげると大きくうなずいた。
「お売りした責任がございます。もしよろしければ、わたくしも一緒に奥村にお供いたしましょう。入口の分かりにくい店でございますから」
玉三郎は、頭を下げる悌吉に向かって、さらに深く頭を下げた。
次の日の約束をして、二人は再度良子の母に挨拶をしておかやを出た。ここからうちまでは目と鼻の先であるが、わざとゆっくりと二人は足を進めた。
「死人が出てしまったな」
「でも、もしかしたら夜着は関係ないのかもしれない」
「そうだな。もちろん」
でも、関係があったとしたら。葉子は自分の腕をさすった。
あっという間に家の前についてしまい、葉子は足元に落としていた目をあげた。そこには当たり前のような顔で閉じた傘を下げた友が立っていた。
「おかりなさいませ。葉ちゃん、玉さん」
いたずらっこのように友は笑う。夏の日も、赤く落ちかけている。
「何よ。暗い顔をして」
葉子はなぜか友の顔を見ると、安心して泣きたいような気持になった。
「あらあら、大丈夫大丈夫。この友さんがいますからね、それに玉さんも、お優しいおじい様、おばあ様、お母様、お父様、それにお友達も。もしこの先どうしたらいいかわからなくなったら、その人たちにならどうするか、考えてみるといい。人は自分のことになると間違える生き物だからね。悩んだら、皆が喜ぶほうを選ぶんだよ」
いつのまにか目の前に来ていた友は、葉子の頭を優しくなでた。目をあげるとすでに友の姿はなかった。
「さぁ、はいろう」
玉三郎に促されて、二人は味噌汁の匂いのする家へと入っていった。
いつもの時間に目が覚めた。浅い眠りの中で、ずっと苦しい夢を見ていた気がするが、それがどんな夢だったのか、覚えていない。いまのいままで見ていたはずの夢をどうして忘れてしまうのだろう。
昨日のことを、私は思い出せる。しかし玉三郎の言葉の一字一句を、悌吉の語ってくれた内容の全てを、思い出すことはできない。一年前の今日何をしていたか、それはもう夢のようだ。
なんて儚いのだろう。端から全て忘れていくような営みに、なんの意味があるのだろう。
ずっと、夢を見ているような、そんな気がしている。なにか大切なことを忘れて、平気な顔で、私は生きている、そんな気がしている。
もうやめたい、ふっとそう思った。調べて、調べて、そこになにがあるのか、それが怖い。でもきっと私は、やめることはできないだろう。
朝食の片付けも済んだ台所を覗くと、隅に腰かけて豆さやの筋を取っているおこうが目に入った。来たばかりのときは真っ黒だった顔も、こちらにきて少し白くなったような気がする。朝でも少し薄暗いような土間で、一心不乱に豆を触るおこうの薄い肩を見て、葉子は泣きそうになった。昨日の悌吉の話を聞いてから、なにかずっと言葉にできないような気持をひきずっている。
「おこうちゃん」
「はい」
まっすぐな目が葉子を見た。白目の真っ白な目。同い年の私も、あんなきれいな目をしているだろうか。
葉子は何も言わずおこうの隣に腰かけた。戸惑うような表情のおこうに笑いかける。
「何か、体の調子が悪いようなことはない? 我慢してはダメよ。どこかおかしかったら、すぐに教えてね。おしまさんにでも、わたしにでもいいから」
おこうはきょとんとした顔のまま、首を振った。
「いえ。どこも」
「そう」
葉子は昨日からの不安が少しだけ減ったように感じた。夜着の障りがおこうに及んでいないか、葉子はずっと心配をしていた。
「変な顔、してますか?」
真面目に問うおこうに、思わず葉子は笑った。
「そんなんじゃないの。夜着のことで、何かおこうちゃんに悪いことがあったらどうしようって、思っただけ」
おこうは表情を曇らせた。
「誰かに何かあったんですか?」
おこうもおこうで、夜着の障りが誰かに及ぶことをずっと心配してくれているのであろう。優しい子だと葉子は思った。
「ううん。全然。いつかね、お母様が、この家はおばあ様が守ってくださっているから大丈夫なのよ、ってそういっていたの。私が一度すごい熱を出したときだったかしら。だから大丈夫よ」
「大奥様が」
おこうは遠い目で、土間の表面を見ている。二人の間に沈黙がおりた。おこうの手に握られた豆の青さだけが、色を持っているように見えた。
「お嬢様は……雪を知っていますか」
「雪? 知ってるけれど……」
金沢にも雪が降る。水分の多い北陸特有の重い雪が。その様を思いだして、葉子の脳裏に一瞬、大人の背丈を軽く超えるような雪に埋もれる村の様子が浮かんだ。あぁ、これはどこの光景だろうか。全てが白と黒になる。雪の匂いが、
「おこう。おこう?」
おしまが呼ぶ声がして、おこうが返事を返した。豆を入れた籠を置いて立ち上がろうとするおこうに慌てて葉子は声をかけた。
「雪って……」
「すみません。何でもないです」
もう一度すみませんと謝りながら、おこうはおしまの呼ぶほうに行ってしまった。頭の中に一瞬浮かんだ光景は、夢のようにもうすでに曖昧になっていた。
尾張町から通りに出て橋場町の交差点まではそう距離もない。古い店の多い交差点界隈は、夏真っ盛りの強い日差しの中とはいえ、多くの人でにぎわっている。ここから浅野川にかかる大橋を通って、右に行けば東の廓もすぐそこであり、その後ろにはこのあたりでは向山と呼ぶ卯辰山も控えている。お夏さんも蓮如さんの話をしていが、葉子も春の蓮如忌のときには必ず卯辰山に登り、春の喜びをかみしめる。
「一応通りに面してはいるんですがね、看板もなければいつも店の中も薄暗くて、入口もほとんどは閉まっているものでね、あれでよくやっていけるなと思いますよ。まぁ、道具屋と呉服屋じゃあ、商売の仕方も全然違うのでしょうがね」
店の中ではないからか、昨日より少し気楽そうな雰囲気で悌吉は葉子と玉三郎の少し前を歩いて二人を奥村という古道具店へと導いてくれている。
奥村は、悌吉によると基本的にはお茶の道具を扱う店なのだが、質流れの品などの茶道具以外の古道具も取り扱っているらしい。
「学校の同級でね、歳は私の方が一年下なのですが、当時はまぁ、そんなものでしたよ。家の都合で本当の歳なんかばらばらなところがありました。ずいぶん歳をとったのも交じっていたりなんかしましてね」
しばらく悌吉から奥村の先代の話を聞きながら行くと、橋の袂からほど近いところにある建物の前で立ち止まった。
そこは悌吉の言う通り、彼がいなければ通り過ぎてしまうような店だった。いや、店であることも一見ではわからないだろう。
まず看板がない。入口も閉まっている。それにガラス戸ではあるが、暗くて中の様子がわからない。全て悌吉の言う通りである。悌吉は躊躇いなく引き戸に手をかけたが、葉子一人では怖くて入れなかっただろう。
「お邪魔するよ」
外の明るさのせいで目がくらみ、入ったときは真っ暗だと思ったが、慣れてみると小さな灯がついている。奧から三十そこそこといった男性が出てきた。白い麻のシャツに、グレーの麻のスボンをはいている。眉の垂れた柔和な顔つきで悌吉に挨拶をする。
「お久しぶりです。中で父が待ってますよ」
「こちらは山本様のところのご子息と、お孫さんです」
「これはこれは、こんな汚いところに。なにもありませんが今お茶を用意してますので、そうぞ奥へ」
葉子は挨拶をしながら周囲をちらちらと見回した。掛け軸、茶碗、水差し、茶入れ。雑然とした感じではあるが、ほこりをかぶっているものは一つもない。
奥の間に通されて、玉三郎の背に少し隠れぎみに葉子は座った。悌吉と同級だという先代の巳之次は息子とはあまり似ておらず、ぼつぼつとした大きな鼻が顔を険しくしている。
「驚いたね。こんなに賑やかなのは久しぶりだ」
「急にすまないね」
「あんたはいつも急じゃないか」
悌吉と巳之次はカカカと笑った。しばらく二人にしかわからないような話をしたあと、悌吉は座りなおして、本題を切り出した。
「あんたと私の仲だから、単刀直入に聞くが、以前牛首の夜着を用意してもらったことがあったろう」
悌吉の問いに、巳之次はうんともすんとも言わない。
「君なら覚えてるだろう。あれは、何かいわくつきのものなのかい?」
「やはり何かあったのか」
巳之次の言葉は質問の答えにはなっていなかったが、葉子と玉三郎は嫌な予感に目を合わせた。
「やはり、とはどういう意味だい」
「古いものを扱う仕事をしていると、嫌でもそういう話は耳にはいる」
「いわくつき、という話か?」
巳之次は肯定を返すかわりに、そのまま話を続ける。
「以前の持ち主が自害したの、家が焼けたの、子供に不幸があったの、きりがない。だからわしは気にかけないようにしている。ものに人間の念がこびりつくだのなんざ、そんなことはあるわけもない。まして物のせいで人が死んでたまるものか」
悌吉が、うなるような相槌をする、
「それが古いものを扱うものの使命と思っておる。なにか嫌な糸がまとわりついていても、ここでぶちりと切るのが仕事だ。今時の人間は家を建てるときも、あの土地は自殺が出てるだの、狂人が出ただのと忌避するが、何十年、何百年さかのぼって、なにもなかった土地なんてものはこの狭い国にほとんどない。戦国時代なんざそこら中で戦があって、飢饉のときにはどこの道も死人であふれたんだ。そこらの土を見ろ。あれは人も虫も獣も植物も、死んで粉々になって、それが混ざってできている。そこで米を作って、芋を作って、それを食らって、土の上に家を建てて、えらそうに生きてるんだ。今更死んだ人間の使っていた茶碗で飯を食って、何を恐れる。阿呆らしい」
怒っているような調子で語っていた巳之次の顔からふっと力が抜け、しばらく小さな客間に静寂がおりた。
「あれはいい紬だった。あれほどの紬はもうなかなかない」
何かに憑かれたような顔で巳之次は言った。葉子は背筋がすっと寒くなるような気がした。
「夜着にするにはもったいない紬だった。質屋が持ってきたんだ。そこの高屋がね。どこかの商家が手放したのを回してきた。高屋もこんな紬を夜着にするなんざ豪儀な店だなんて言っていたがね、わしも夜着にしておくのはもったいないと思ったよ。それで着物に戻せるものなら戻そうかとも思っておいてあったんだ。今思えば夜着ではなかったらこの店には来なかったろう。古着屋もあの紬なら喜んで買うだろうさ」
話の先が見えない。最初威勢のよかった巳之次の語りは徐々に勢いがなくなり、今はなにか自分自身に語り掛けているようなものになっていた。
「嫁さんが寝ついていたんだ」
「お正さんかい」
「風邪をこじらせてな。もともとそう体の強いほうじゃない」
そういえば先ほどお茶を持ってきてくれたのは、年齢からして息子の妻だろう。巳之次さんの奧さんはどうしたのだろうか。
「一人夜にふっと店の隅に包んであった夜着が気になってな、見ていたんだ。目の整った、柄もいい、見れば見るほどいい紬だった。ほころびもなく、色褪せもない。ふっと、普段嫁さん孝行なんてしたこともないわしが、嫁さんにこれをかけてやろうと思ったんだ。寒くなりかけの時期だった」
葉子は自分の二の腕を抱きながらじっと話の続きを聞いている。
「嫁さんも暖かいと喜んでおった。明け方なにか違和感を感じて目が覚めたんだ。それで隣に寝ている嫁さんの顔を覗き込んだ。もうそのときにはこと切れていた」
「な」
悌吉が思わず声を上げた。玉三郎はじっと畳の目を見ている。
「寝がけにな、うつらうつらしている嫁さんに声をかけた。そのときに返した言葉が最後だった。幸福そうな顔で、暖かいせいか顔色もよかった。夢の続きを見ているような声音で、こう言ったんだ。
十一面観音の姫神様が呼んでおられる。
「その時は死ぬみたいなこといいやがって、と思って寝たんだ。結局本当に死にやがった」
言葉だけは威勢がいいが、息のような声だった。
「それ以来ものが怖くなった。もう糸を切ることができなくなったんだ。それで店を完全に息子に任せて、今は家でじっとしているよ」
泣き笑いみたいな顔をして見せる。
「あの時」
悌吉が何かを思いだしたかのように声を出した。
「お正さんの葬儀からまだそう経っていなかったな」
「そうだ」
巳之次は固まった膝をさすりながら座りなおした。
「あんたが来たとき、あれはもう処分するつもりだった。しかし嫁さんの十一面観音が見えたっていう言葉が忘れられねぇでな。情けない話だが捨てられなかった」
葉子はふと、玉三郎の話を思いだし、吉兆も障りも紙一重なのだと、そう思った。
それにこれは誰にも、息子にも言っていなかったんだがな、と巳之次は頬にあたりにひきつらせた。
「一度捨てようとしたんだ。嫁さんの形見分けなんかの片付けをしているときに、いっそのこと燃やすようなくずごみと一緒に燃やしてしまおうと思ったんだ。そう思ったとたんに、神棚の鏡がはじけるように割れてその破片が降ってきたんだ。驚いて見上げると朝あげたばかりの榊が枯れはてて、ふらふらと落ちてくるところだった。あんなにも恐ろしいと思ったことはない。人生で一番恐ろしかった」
巳之次はよたよたと体を後ろにずらすと、誰にともいわず頭を下げた。
「すまなかった。本当にすまなかったと思っている」
「よしてくれ。私も一緒だ。私もきっとわかっていたんだ。あの夜着がなにか普通ではないと。それでもどうしようもなかった。見て見ぬふりをして売ってしまったんだ。あんたの気持ちはわかる。あれを燃やすことなどできなかったろうよ」
「どうかしていたんだ。みすぼらしい言い訳だが、ほとんど覚えていないのだ。お前さんに売ったときのことをな」
部屋の中に重苦しい空気が立ち込めるなか、玉三郎が声を出した。
「もし」
苦い顔をしていた二人が玉三郎のつるんとした白い顔を見た。
「十一面観音のお力であれば、われわれ人間にはどうすることもできますまい」
巳之次らがはっとした顔を向けるなか、生意気なことを申しました。と玉三郎は頭を下げた。
徐々に力が抜けるように、泣いたことのないような顔をゆがませて、巳之次は嗚咽を漏らして泣いた。その肩を悌吉は長い間強くさすっていた。
それで、と再び玉三郎が言葉を発した時には、場の空気は大分柔らかくはなっていたが、葉子は得体のしれない恐怖に、じくじくと苛まれているような不快感が消えなかった。
「その高屋さんという質屋さんが夜着を買い取ったという商家はどこかおわかりですか?」
「いやそこまでは聞かなかったな」
巳之次の返事に小さく落胆する葉子と玉三郎を見て、巳之次は席を立った。
「聞いてこよう」
「え、今ですか? そこまでは」
「いやいや、わしが気になるんだ。それに店はすぐそこだ。しばらく顔を出していなかったからちょうどいい。申しわけないが、少し待っていてもらえまいか?」
「それはありがたいですが」
玉三郎の言葉が終わるか終わらないうちに巳之次は部屋を出ていった。足が悪いのか、左足をすこし引きずるようにしている。残された葉子らがしばし今聞いたことを反芻していると、襖が開いて、さきほどの女性がもう一度お茶を持ってきてくれた。茶請けに羊羹が載っている。もしかしたら今慌てて買いに走ってくれたのかもしれないと思って、葉子はありがたく羊羹を口にしたが、ほとんど味はしなかった。
思ったより長い時間、ニ十分ほどだろうか、が経って巳之次が戻ってきた。
そわそわとする悌吉の顔をちらりと一瞥して、暗い顔で巳之次は今聞いてきたことを語り始めた。
「野町のほうにあった蠟燭屋だとよ。それなりに羽振りのいい店で、屋号は小幡蝋燭っていう名だった、と」
過去形である。もう店はないのだろうか。
「隠居のじい様、主人夫婦、その夫婦には十八になる息子を筆頭に男女五人の子があったらしい。そして若い女中が二人。長年そこで働いていたばあさんが一人。その家には十一人もの人間がいたようだが」
葉子は嫌な予感にごくりの喉がなった。もう夜の始まりを見せる空に飛ぶ黒い影の声が遠くに聞こえる、その大きくもない音が、やけに耳をつく。これは耳鳴りか、それとも。
「残暑のころ、ある晩十八になる長男が発狂して、刃物で一家惨殺の上、逃亡。犀川に身をなげた、と」
最初のコメントを投稿しよう!