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一 夜着の声
自然と目が開いた。アカモズのせわしい声が聞こえる。あの鳴き声で目が覚めたのだろうか。いつも起きる時刻よりほんの少し早いと感じた。
葉子の通う石川県立金沢第一高等女学校は今日から夏季休暇に入る。しかし学校に向かわなくてもよいとはいえ、いつまでもぐずぐずと布団の中にいるわけにはいかない。女学校の友人の家で夏季休暇中の課題を一緒に進める約束があるのだ。前日までは楽しみであったそれが、今は少し億劫に感じる。それは起きたばかりのけだるさのせいばかりではなく、幻のような前夜の光景のせいだろう。
まだ夢を見ているようだ。全て夢だったのかもしれない。
そうぼんやりと思いながらも、彼女との逢瀬が夢ではなかったことを、葉子ははっきりとわかっていた。まだ耳に残る彼女の声、鼻腔に残る着物の匂い、そしていまだ頭の中をひらめく水の蝶のきらめき。
葉子は一つため息をついて、母や女中の誰かが起こしに来る前に布団から出ると、素早く身づくろいをして、家の女たちが忙しく立ち回る炊事場へと向かった。
「おはようございます」
割烹着を着て女中のおしまやおこうに指図をする母、令子に声をかけると、彼女よりさきにおこうが振り返り、おはようございます葉子お嬢様、と頭を下げた。
おこうは数か月前に、この山本の家に来た中働きの娘で、年は葉子と数か月ばかりしか変わらず、そのため葉子はおこうに何度もお嬢様と呼ぶのをやめてほしいと頼むのだが、おこうはそのたびに困ったように頭を下げるだけで、かたくなにお嬢様と呼ぶ。葉子はそのたびに、なにかちくりとした寂しさを感じた。
「あら、さすが葉子さん早いのね。それに比べて玉三郎はどうせまだまだ起きてこないのでしょう。昨日も遅くまで灯が漏れていましたからね。お勉強ならよいのだけれど、またなにか変わったご本でも読んでいるのでしょう。悪いけれど、起こしてきてくれないかしら」
葉子の母令子は、おっとりと振り返りそういった。令子は山本家の長女で、二十歳のときに検事である父と結婚し、父は山本家に婿に入った。令子は、このあたりでは昔からの資産家として名のある山本家の箱入り娘として大事に育てられた空気を十二分にまとい、葉子とは似ていない切れ長の目元は、三十をとっくに越した今でも、娘ですら時折はっとするほど美しかった。
「えぇ」
葉子は母の言いつけ通りに玉三郎の部屋へと向かい、その戸へ手をかけた。
「開けますよ」
返事を待たず戸を勢いよく開けると、吊られた蚊帳の中で玉三郎は布団に横になったまま、片手で本を顔の前にかざしている。
「朝です」
「知ってる」
「知っているなら起きてください」
「なんだい、お前だって今日から休みなんだろう? 今日くらい朝寝したってばちはあたらないだろう。戻ってもうひと眠りしたらどうだ。どうせ今日も暑くなるんだ。まだ涼しいうちに寝ておけよ。どうせまた夜中にふらついていたんだろう」
葉子は夜中に抜け出していたことが玉三郎に知られていたことにどきりとしたが、それを顔に出すことなくぴしゃりと言い返した。
「お兄様と違って忙しいんです」
玉三郎は山本家の末っ子で、母の年の離れた弟であるから、葉子にとっては叔父にあたる。しかし今年十八になる彼を、葉子は兄のようにして育った。
「僕だって忙しいさ。今日中にこの本を読んでしまわないと、先生が返せってうるさいんだ」
先生とは、玉三郎の通う第四高等学校、いわゆる四高のご教授連のことではなく、彼が〝先生〟と呼び慕う県立図書館の博識の司書のことだろう。
「それがお仕事ですからね。図書館もお兄様みたいに期限がきてもなかなか返さないような人には利子をとればいいんだわ。それに早起きは三文の徳だっていうのなら、朝寝は三文の損でしょう。こうやって毎日起こす私に三文支払ってもいいくらいだわ」
「なんだい、朝から金の話か。お前は本当に父さんに似てがめついよ。人はパンのためだけに生きるにあらず、だぜ。本くらい読んだらどうだ」
「本なら読みます」
玉三郎は馬鹿にしたように鼻をならす。
「どうせまた花物語だとか、めそめそしたやつでも読んでいるんだろう」
葉子はむっとしてブラウスのリボンの揺れる胸を反らした。
「あら、めそめそしているって知っているのね。馬鹿にするわりには読んでいるんじゃなくって?」
「そりゃあ読むさ。僕はなんだって読むよ。字さえ書いてあればね。新聞だって、漫画だって、電柱の広告だって読むさ」
言葉通り、玉三郎はいつみても何かを読んでいる。それは流行りの小説のときもあれば、葉子には分からない横文字の本のときもある。夏目漱石も森鴎外も、谷崎や芥川も、ゾラやバルザックやストリンドベリも、彼にとっては文字の羅列という点で同じなのだろう。
「まぁいいわ。起こしましたからね。朝餉の整うまでには来てくださいよ」
「はいはい」
一度も葉子のほうに目をやることなく、玉三郎は本に目を通しながらなげやりに返事をした。葉子は大げさなため息を聞かせながら、腰をあげた。
母の用意していた森八の干菓子を手土産に、学校の友人である岡岸良子の家についたのは、約束の九時半にぴったりの時間であった。葉子は時間を守ることに、常に潔癖ともとれるほどの気遣いを見せた。この時も玉三郎から長年借りたままである懐中時計を確認しながら、歩幅を調節してまで時間を合わせた。早すぎても、遅すぎてもだめ。一番適切な時間に着くことが肝心なのだ。
葉子の住む山本の家がある尾張町は黒い甍の並ぶ、藩政時代からの由緒ある町である、というのが祖母の言であった。実際葉子の住む家も、同じ尾張町にある良子の家も、前田のお殿様の代までさかのぼることのできる古い家である。松、ツツジ、梅、椿。いつ見ても一分の隙もなく手入れされた庭木を隠し持つようにして、正面には屋号を白く染め抜いた紺の日除け暖簾がかけられている。葉子はいつもの通り、庭石の上を歩き、呉服店を営む店の裏にある屋敷の玄関の前へと回った。
「ごめんください」
玄関口から声をかけると、待ち構えていたように良子が顔を出した。
「やっぱり。葉子はいつも計ったようにぴったりに来るから、あたしもぴったりに戸を開けようと思って待っていたのよ。でも少し遅かったかしら」
「あら、そんなことないわ。ぴったりよ。びっくりしたわ」
二人はくすくすと笑いあいながら、良子の母のいる居間へ向かった。
母から言付かった挨拶文を読み上げながら菓子折りを渡すと、良子の母は満足そうな笑顔で、葉子の祖父母の健康などを気遣った。良子をそのままふっくらとさせたような彼女は、頬の肉のせいか、年より若々しく見える。旧家の呉服問屋の岡岸家の嫁として、良子の母はいまだ古めかしい丸髷で貫いている。彼女が洋装を着ているのなどは見たこともないし、想像もつかない。
挨拶がすんで良子が勉強に使っている奥の間に入ると、葉子はふっと息をついた。
「何度会っても良子のおば様に挨拶するときは緊張しちゃう」
「それはそうよ。娘のあたしだって、緊張するんだから。お母様が髷を結っていないところも、だらりと座っているところすら見たことないのよ。私には到底無理だわ。髪型も着物も旧時代的で、いやになっちゃう。それに比べて葉子のとこのおば様は、髪型も着物もおしゃれよね。それに優しいし、美人だし。うらやましいわ」
母は優しい。それは葉子も思っている。しかし、葉子にとっては良子と良子の母の関係のほうがうらやましいものに思えた。もちろん、良子の母の厳しさは想像がつくし、良子の苦労も慮るのだが、良子はその母の厳しさにぶうぶうと文句を垂れることができたし、そしてそれに良子の母は怒りながらも結局は苦笑で許すような、そんな関係だった。それは世の中どこにでもあふれているようなものであるはずで、もちろん葉子と葉子の母もそれができないはずはないのだが、葉子はどうしても母に微妙な遠慮を持っており、それが親子の間に薄くて固い壁を作っていた。それは明らかに、葉子側の問題であった。葉子は母や父に逆らったことがなかった。
「そうかな。さぁ、宿題を片付けてしまいましょう。それで明後日の映画は、おば様許してくれそうなの?」
前々から良子の母のお許しがでれば、葉子と良子は香林坊にあるスメル館で映画を見る約束であった。もちろん玉三郎が二人の護衛として着いていく、という条件付きではあるが、葉子はそれを楽しみにしていた。
「それがね、最近機嫌がよくて、行っていいって。玉三郎さんのおかげよ。お母様、玉三郎さんのことがお気に入りなのよ。できればうちの姉をお嫁さんにしたいって思ってるんじゃないかしら。もちろん私の前ではそんなことはっきりと言ったわけじゃないわよ。でもうちの姉のほうが一歳上でしょう。だから少し遠慮してるのね。でもわたしじゃあ、こんな娘を嫁にやったら、葉子の家に失礼だって思ってるのよ。お姉さまはなんでもはいはい言うけれど、私は反抗的だから。ふん、失礼な話よね」
葉子はいつものごとくよく回る良子の口元を眺めながら、今朝の玉三郎の本を読む横顔を思い出した。色白で姉に似た切れ長の目元、若干やせすぎではあるが、女性好きのする見た目ではある。しかし葉子からしてみれば、理屈っぽく、本を読むこと以外は箸の上げ下ろしも億劫そうな男の嫁になるなんて、想像するだけでもぞっとする。
「お兄様のどこがいいのかしら。あんな人のところにお嫁にいったら苦労するわ。それこそ本と結婚しているような人よ」
「四高生ってだけで、お母様は満足よ。優秀だって評判だから、きっと東京の大学にいくのでしょう? それに加えてあの見た目。うちのお母様、時々歌舞伎を見にいくのくらいが楽しみだから。ほら、玉三郎さん、歌舞伎役者みたいじゃない」
「そうかしら」
ふっと、もし玉三郎と良子の姉が結婚すれば良子と親戚になれるのだと思いついて、それもいいかもしれないと考えたが、目の前の宿題の山のことを思い出して、慌てて良子の目の前で手を振った。
「いけないいけない。宿題が全然進んでないなんて知られたら、おば様にやっぱり映画はダメだって言われちゃうわ。ほら、さっさとしてしまいましょう。作文も書き取りも縫物も、はぁ、どれから手をつけましょう」
多すぎる宿題を前にため息をつく葉子を後目に、目の前の良子はもうすでに心は映画館にあるようで、夢見るような目でまだ光のともらぬ電灯を見つめていた。
宿題をなんとか半分ほどは片付けて葉子が家に戻ると、ちょうど勝手口からおこうが中に入るところであった。
「おこうちゃん」
「あ、お嬢様。お帰りですか」
葉子が駆け寄ると、ふっと眉のあたりに影を作って、作ったような笑みを返した。手には藁で編んだ買い物かごに菜物や経木で包んだものがのぞいている。家から近い近江町市場で夕餉の食材を買ってきたのだろう。
「おつかいお疲れ様。今日はいい食材があった?」
「あ、はい。ハチメが安かったので」
おこうは葉子が話しかけても必要最低限の返事しかせず、自分から会話を始めることなどほとんどない。しかし料理には興味があるのか、食材のことなどを訪ねると、ぽつぽつと訛りの目立つ言葉ではにかみながら話してくれる。そんなとき葉子はすっと胸が軽くなるようであった。
「楽しみね。あ、そうそう、友達のところでこれをもらったの。みんなには内緒ね。おしまさんなんかに言うと、いろいろうるさいでしょ」
葉子はスカートのポケットから色紙で作られた小さな包みを取り出した。少しだけふくらんだそれを、躊躇うおこうの手に半ばむりやり握らせた。
「金平糖なの」
おこうは驚いたように一瞬目を丸くした後、その包をそっと縞の着物の胸元にあてて、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとうございます」
おこうは何度も頭を下げながら、勝手口から入っていった。
葉子はその細くしまった背中を見送りながら、彼女の両親のことをふと思った。葉子は彼女のことをあまり知らない。何度か令子に尋ねたものの、本当に知らないのか、葉子には言う必要がないと考えているのか、あまり教えてはもらえなかった。ただ玉三郎がどこからか聞いたところによると、両親はすでに亡くなっており、親戚だか知り合いだかが斡旋してこの家で働くことになったらしい。
葉子と同じ、まだ幼いと言ってもいい年齢で、おこうは一人、見知らぬ場所に連れてこられて懸命に働いている。おしまは家事の仕方などには厳しいところがあるが、情に厚い性格であるし、葉子の母も父も、まだ健在である祖父母も、中働きの娘をいじめたりするものはこの家にはいない。それどころか若い娘のような繊細さを持つ令子などは、不憫なおこうの境遇を憐れんで、何かと心遣いをしてあげているように思う。
しかし、それであっても葉子にはおこうの孤独を、想像してあげることすらできない。比較的裕福な家で、父母も祖父母も揃い、何不自由なく育ってきたのだ。それを、葉子は時折罪悪のように感じるときがある。おこうの不幸がおこうのせいではないように、葉子の境遇は葉子のせいではないのはわかっているが、もちろん葉子の努力の結果でもない。
世間は平等ではない。葉子は自分が特別の不美人とも思わないが、奥二重の小さな目は、まつ毛も短くてパッとしないし、全体的になんの特徴もない顔である。母になってもなお美しい母を毎日見る身としては鏡を見てため息をつくこともある。
その不平等を少しでも埋めたくて、葉子はおこうを見ると、何かしてあげたいという欲求にいつもかられる。しかしこの気持ちも、もしかしたら葉子の自己満足の思い上がりなのかもしれないと思って、憂鬱になるのだった。
昼に金沢の夏の風物詩であるドジョウのかば焼きを食べ、食後の棒茶をすすりながら、目の前でやっと腰を下ろした令子に葉子は話しかけた。
「お兄様は?」
「さぁ、また例の先生のところじゃないかしら。やっと読めたとかなんとか言っていたから」
「そう」
食の細い玉三郎は昼時になっても帰らないことが多く、家のものも玉三郎がいなくても気にすることもない。
「葉子さんはお会いしたことあるの?」
「先生に? えぇ、あるわ。お歳は、どれくらいかしら。少なくてもお父様よりは上ね。おじい様より上ということはないでしょうけれど、どちらかというとおじい様に近いんじゃないかしら。髪が真っ白で、おひげも真っ白な、お顔だけ見るとどこかの伯爵様みたいな方よ。何でも知っていらして、ちょっと見た目は怖いのだけれど、お優しい方だと思うわ」
「あら、そんなお歳の方なのね。てっきりもう少しお若い方かと思っていたわ。あの誰でも蔑ろにする玉三郎が慕っている方だから、どんな方か気になっていたのよ。今度私もご挨拶にいこうかしら」
葉子は母が本を読んでいるところを見たことがない。新聞も、おそらくないだろう。最近では女性が本を読むことをとやかく言うような風潮は大分減ってきたが、母の時代はまだそれがあったのだろう。今では本を読むことは品のよい趣味のように言われることもあるが、昔は不良のすることのように思われていたのだろうか。不思議なものである。
「それがいいわ。図書館にお母様がお顔を出されたら、お兄様びっくりするわね」
二人は目を合わせて笑いあった。
「そういえばね」
何かを思い出した令子の言葉の途中で、おしまが皿に茶請けの干菓子を乗せて持ってきたので、令子はおしまに礼を言って、一言二言なにか家のことを頼んで、口を茶で湿らせた。葉子は花の形の薄黄色いお菓子をつまみながら言葉の続きを待った。おっとりした令子はこういうときそのまま話が流れてしまうことも多い。
「あぁ、そうそう、それでね。不思議な話があって」
今日はちゃんと話の続きを忘れなかったようだ。令子は少女のように首をかしげた。
「おこうがね、言うんだけれど、夜着がしゃべる、って」
夜着が。
なぜか心臓のあたりが、しんと冷たくなった。
「よぎって。その、寝るときの、夜着?」
「えぇ。その夜着よ」
夜着が、しゃべる。その言葉の意味を取りかねて、葉子はただじっと母の顔を見つめた。
「あの子、ずっと言わずに我慢していたらしいのだけれど、夜寒かったみたいでね。もう暑いじぶんだから冬用の布団類なんか全部片づけてしまっているじゃない。昔からみたいなんだけれど、あの子寝ているときに体温が下がってしまうみたいで、ねぇ、そんなこともあるのね。私にはよくわからないけれど、とにかく夏でも暖かくしないと夜つらいみたいでね、やっとこの前おしまに相談したらしいのよ。あの子、来てからずっと言いたいことも言わないでなんでも我慢してしまうたちじゃない。私も気を付けてはいるけれど、なにもかもわかるわけでなし。でもあの子の境遇を思うと、きっと今までずっと遠慮していなければいけないような生活だったのね。それを思うと、切ないわ」
令子の話は、ゆっくりとした口調で、本題から遠ざかったり近づいたり、聞くのにいつも根気がいる。
「それでなにかかけるものを、って探したら普段使っていなかった夜着があって、虫もついていないし日に干したらすぐに使えるようだったから、それをとりあえず使わそうって、おしまが納戸から見つけてきて」
山本家の奧にある広い納戸には、何世代分もため込まれたいろいろがしまいこまれている。葉子は少しのぞいたことがあるくらいで、そこの掃除やなにやらはいつもおしまなどがしてくれるので、何が入っているのかもよく知らない。もちろんそんな夜着があることも知るよしもない。
「それで二日前の夜にそれを始めて使った夜、おこうが寝ていたら声がしたらしいの。それではっと起きてしまった。おしまか誰かに呼ばれたのだと思ってしばらく起き上がって様子をうかがっていたのだけれど、誰かが呼んでいる気配はない。それで気のせいか夢だろうと思ってもう一度横になろうとしたら、寝ている場所のごく近くから」
あたたかいか、てけんなっとらんか
女の声だったという。かすかな女の声が、ごく傍から聞こえたらしい。
「あたたかいか、てけんなっとらんか……」
夜着がそれを使うものにあたたかいか、と聞いたというのか? それにてけんなっとらんとは、どういう意味だろう。
「どういうことかしらね、それはおこうも検討がつかないみたいで」
令子の口調に怯えている様子はなかった。そういえば、葉子は母が幽霊やら妖やらの話をしているのを聞いたのはこれが初めてかもしれない。祖母はその手の話が好きであるから、幼いころから聞かされた反動でそういうものをあまり信じていないのかもしれない、と考えて、昨晩の美しい光景がよみがえった。昨日の滝の白糸といい、言葉を発する夜着といい、今年の夏はなにか特別に怪しいものが湧き出てでもいるのだろうか。
「声に驚いてじっと身を固くしていたみたいだけれど、その日はそれ以上声がすることもなく、気が付くと眠っていたらしく朝になっていたみたいなのよ。そしてその日は何事もなく過ごして」
きっと夢現のことだろうと思ったのだろう。あのおこうが、そういうことを気軽に誰かに相談するとは思えない。一人で抱えこんでいたのだと思うと、やるせない。そういうとき、同い年の葉子に世間話のついでに気軽に話してくれればいいのに、と葉子は思う。
「また夜になって、同じように夜着をかけて横になった。昨晩のこともあって寝不足だったのか、横になるとすぐに眠ってしまったみたいで、また夜中にはっと目が覚めた。その時は自分がなんで起きてしまったのかわからなかったみたい。昨晩のこともあるし、なんとなくおそろしいような気持ちで夜着の中でじっとしていると、夜着からふっと生暖かな、まるで人の息のような風が顔に吹いて、また」
あたたかいか、てけんなっとらんか
「その時おこうには、その声が夜着から聞こえたものだとはっきりとわかったみたいなのよ。そして急に恐ろしくなって、次の日おしまに相談したのを、おしまから私が聞いたというわけ」
話がひと段落着いた令子は、冷めた茶をすすった。
「もし何か悪いものが憑いていて、このおうちの人に迷惑をかけたらすまないから、ってそう言うのよ。何もおこうのせいじゃないっていうのに、本当に健気な子よね。まだここに来て数か月でしょ。気疲れが出てくるころだと思うのよ。だから悪い夢でも見たんじゃないのかとは思うのだけれど、そう言ったっておこうの気持ちが晴れるわけじゃなし、形だけでもお祓いかなにかしてもらおうと思うのよ。そうすれば気も楽になるでしょう」
葉子はそこで急におこうが近くにいないかが気になって視線を彷徨わせると、それに気がついて令子が首を振った。
「大丈夫よ。おこうはおしまについて今外に出ているから」
葉子は、そう、とため息を漏らす様に返事をし、首を傾げた。
「でも、そんなお祓いって、どうするの? いつものお寺さんに頼むの?」
令子は無意識なのか見えない奥の間に視線をやり、心持ち声を潜めた。
「お母様がこういうこと、お詳しいでしょう? それにこういうことを隠していると、また後で何を言われるか知れたもんじゃないから、相談したら、私が預かりましょうって」
「え?」
思わず葉子は声が出した。
「じゃあ、今その夜着はおばあ様のところに?」
「えぇ、そうよ」
どことなく苦々しいような表情で令子はうなずく。
「私に任せておきなさい、ってこうよ」
祖母の口調を真似てぴしゃりと令子は言い、二人は目を合わせて遠慮がちに笑いあった。そこへ閉めてあった居間の襖がすっと開き、ふたりはぎくりと肩をすくめてその開いた方を振り向いた。
「なんだ。また二人で僕の悪口でも言っていたんだろう。おい葉子。おばあ様がお呼びだ」
のぞいた顔が玉三郎であったことにほっとしながら葉子は聞き返す。
「おばあ様が?」
「あら、どうしましょう。いまおしまもおこうも出かけているのよ。お茶漬けくらいならすぐ出せるけれど」
葉子の言葉にかぶるようにして、令子が慌てた様子でそう言うと、玉三郎は手に持っていた厚い本を顔の前で振った。
「今はいいよ。腹がすいたら自分で適当にするさ」
「またそういうことを。もっと食事を大事にしなさいってこの前お父様にも言われていたでしょう。ただでさえあなたはやせすぎなのにそれ以上痩せたらお勉強の方にも差し支えがでるわ。魚は生臭いっていうし、肉は肉で獣臭いって、おしまもあなたに何を食べさせようかいつも悩んでいるのよ、それに」
いつもの姉の説教に玉三郎は逃げるそぶりを見せながら、もう一度葉子に声をかけた。
「まぁ、とりあえずおばあ様のお部屋に行くんだな。お前にしては珍しいな、何を怒られるようなことをしたんだ」
「お兄様とは違います」
「こら、玉三郎、話しは終わってませんよ」
姉の言葉を遮るように玉三郎は再びぴしりと襖を閉めた。
「ほんとにもう、あの子ったら」
「おばあ様、私に何の用事かしら」
少し頬の上気した令子は、閉まった襖から葉子に視線を戻し、首を傾げた。
「さぁ、もしかして夜着のことかしらねぇ」
「私も、今の今だからそうかなって思ったのだけれど、でも私に何を話すのかしら」
「さぁ」
令子は白い落雁をつまんでほろりと前歯で噛んだ。
今年古希の祝いをした祖父とは歳の離れている祖母の勝はまだ若い。たしか五十四、五であるはずだ。二十歳前後で祖母が結婚したとき、祖父はすでに三十五ほどだったことになるが、祖父の結婚がそこまで遅れた理由を葉子は聞いたことはない。特に理由はなかったのかもしれないし、はたまたもしかしたら今の祖母が初めての妻ではないのかもしれないが、葉子は母などにもそれを聞いたことはない。特に聞きたいとも思わないし、どうしても知りたくない、というようなことでもない。まぁ、所詮若者には興味のないことである。
祖母はまだ年は若いがあまり体が強くないのと、呼吸器が弱いために風邪をひくのを恐れていて、奥の間からあまり出てくることはない。食事もここでとるし、日中はここで縫物や編み物などをするか、仏間にこもって長いこと手を合わせている。
祖母は信心深い。そして玉三郎が言うには、何か勘がするどいようなところがあるらしい。そしてそれは子供たちの誰にも遺伝しなかったようだ。
「失礼します」
勝の声が返るのを聞いて、葉子は静かに襖を開けた。部屋の中にはいつものように小さな勝が人形のように座っていた。床の間には庭の百日紅が活けられ、その上には勝の筆で、散れば咲き散れば咲きして百日紅と短冊にしたためられている。
「今日からお休みですね」
「はい」
「課題はあるのですか?」
「はい、今日の午前中に友人のお宅で進めてきました」
「それはいい」
ふと凛とした勝の言葉と、昨日の友の言葉が重なって、ぴんと背筋が伸びた。
そうでなくても、勝は知らずと相手に威圧感というか背筋を起こさせるなにかを持っている人であった。葉子は細かな小言くらいはあるが、改まってしかられたようなことは物心がついてからは記憶にないのだが、この祖母の部屋に入る時はいつもどことなく緊張する。
「お母様に聞きましたか?」
「夜着のことですか? それならば聞きました」
「どう思いますか?」
勝の真意を測りかねて、葉子は言い淀んだ。
「どう、ですか」
「怖くなりましたか?」
「いえ、怖くは」
そう、不思議と怖くなかった。令子の話し方のせいかもしれないが、恐怖心はわかなかった。それどころか、なぜか話を聞き終わったときには心が温かくなるような不思議な感じがした。
「不思議と怖い感じとか、嫌な感じはしませんでした。そう悪いことのようには思えなくて。でも、おこうちゃんは怖かったろうと思います」
勝はふっと笑った。つい最近まで真っ黒だった祖母の髪に白いものが混じっているのを葉子は見つけた。目じりにも皺がある。
「そうね。かわいそうに、怖かったでしょう。どうするといいと思いますか?」
「え?」
なぜ葉子に聞くのだろうか。
「おこうに新しい布団を」
「そうね、それはおしまが用意してくれているでしょう。では、この夜着はどうしましょうか」
勝は彼女の背後にあった大きな風呂敷包みを自分と葉子の間に置き、その結び目をはらりと解いた。中にはきちんと畳まれた一枚の夜着が入っていた。紺の紬に、白く縞が入っている。シンプルだが粋な着物でしつらえられた夜着である。ぱっと見目立つシミもなく、長い間使われることなく納戸に押し込められていたものとは思えない。
「いい紬でしょう。色もそれほど褪せていない」
「しゃべり、ましたか」
勝は目を大きくして葉子の顔を見つめた。おかしいが、葉子が真面目であるために笑うのを我慢している、といったような表情に見えた。
「いいえ。ここではまだ一言も話してはくれません」
昼間、だからだろうか。それとも故あっておこうにしか話しかけないのかもしれない。
「お祓いをしてもらったほうがよいでしょうか」
お寺に持っていけばなんとかしてくれるのでは、とそれくらいに葉子は思っていた。
「何を祓うのでしょう」
「それは」
決して勝の口調は葉子を怒っているのでも、責めているものでもなかったが、葉子ははっとして黙り込んだ。
「人は分からないものを分からないままにしておくのが苦手なのか、それに幽霊だの妖怪だのとなにか理由を付けて、それを何か汚らわしいもののように考えて自分から遠ざけて安心する、そういうところがあります。でもそれでいいのでしょうか。それで救われることもある。もしかしたらそれだけでおこうは安心して、今日からぐっすりと眠ることができるかもしれない。その点では、それは意味のあったことになるのでしょう。しかし、どうしてこの夜着は言葉を発したか、それはきっとわからないままになるでしょう。私にはそれが残念に思えるのです。これはとてもいい紬ですから」
もう一度紬を褒めて、勝は優しい手つきで夜着の表面をなでた。
もし、幽霊だの妖怪だのが苦手な人であれば、言葉を発したなどといういわくのあるものに手を触れるのも嫌であろう。おそらくすぐに燃やしてしまう人もあるだろうし、それも恐ろしいような人は、葉子のように寺などに持っていくことを考えるだろう。
しかし、葉子にとってもそれは何か切ないことのように思えた。まだ何か悪いことが起こったわけじゃない。この夜着は何かを伝えたくておこうに話しかけたのだ。
「聞いてあげなければなりませんね。夜着が何を言いたかったのか」
自然と葉子の口から言葉がでた。その言葉に、勝は満足そうにうなずいた。
「それは葉子、あなたにしかできないことでしょう。おばあ様はなぜかそう思うのです」
葉子は紬の表面をじっと見つめながら、ゆっくりと頷いた。
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