三 夜着の夢

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三 夜着の夢

「私もね、思い出していたんですよ」  少し亀のような上唇がでっぱった口元をきゅっと結んでおしまは葉子の顔を見た。おしまは決して太っているわけではない。むしろ痩せているくらいなのだが、骨が太いのか、腰のあたりも肩のあたりも張り出していて、実際よりも大きく見える。白髪の混じった髪を低い所でひっつめに結い、いつも滑るような速足で歩く。一見するとにこりともしないその顔は怖く見えるが、今まで務めた女中の誰もが慕う、情の厚い性格である。歳ははっきりと聞いたわけではないが、五十は軽く超えているだろう。 「てっきりお嬢様の生まれる前のころのことだと思っていたんですがね」 「え? おしまさんって、お母様の生まれる前からここにいるの?」 「えぇ」  やはり表情一つ動かさないおしまは、葉子の母のことを今でもうちの中ではお嬢様と呼ぶ。それは母を赤んぼうのころから知っているせいでもあったのか。 「十六からですからね。今のおこうとほとんど同じときからここでお世話になっています。よく泣き止まないお嬢様をしょって散歩したものです。一旦泣くと泣き止ませるのに手間取るお子でございました。その点葉子お嬢様はほとんど泣かない良い子でございましたよ」  動かないおしまの顔にわずかにからかうような表情が浮かんだ。 「もう、それはいいから」 「はいはい。夜着でございますね。あのころ家の事業が忙しくおなりになって、女中が増えた時期がございました。そのときにいくつか布団も準備したものですから、そのときのことだろうなんて勝手に思っていたんですがね、おこうに新しいものを用意しないといけないと考えているときに、ふっと思い出したんでございますよ。あれは葉子お嬢様の生まれた次の年のことでございます。布団が盗まれたことがございましてね」 「盗まれた? 泥棒が入ったの? そんなこと、初めて聞いたわ」  驚く葉子を後目に、おしまは常の表情を崩さない。 「いえね、大した話ではないのでございますよ。布団だけだったのです。取られたのは」 「布団だけ?」  自慢ではないが、山本の家は当時から資産家でここらでは有名で、祖父の趣味である一目見て高価そうな壺や香炉なんかもそこら中に飾られているのである。どうしてそれらには手を出さなかったのだろうか。よっぽど布団が欲しかったのか。 「そんないい布団だったの」 「いえいえ、女中用の布団でございます。冬を前に日に当てようとしていた矢先、布団が一組なくなっていたんでございます。もちろんそういいものでもございません。長年使い込んだもので、ほつれを直さないといけないようなものでございました」 「どうして、そんなものを、わざわざ」  なにかおしまの考え違いなのではないかと思ったが、この几帳面で仕事にほこりを持っている女中頭の前ではそんなことは言えまい。 「わたくしたちも当時不思議でございまして。しかも家の一番奧の納戸の中のそれまた奧に仕舞われていたものでございますからね、誰かがそこまで忍び込んでいたのだと思うと恐ろしくて。ですがお上の世話になるほどのことでもないと旦那様がおっしゃるもので、特に届け出をするでもなし、そのままであったのでございますが、冬を前に女中用の布団が足りないのは事実でございましたから、おかやさんに無理を言って早急に取り寄せてもらったのでございますよ」  おかや。良子の家の呉服屋の屋号である。 「今は、まぁ、その当時だっておかやさんはもう中古の夜着なんてものは取り扱ってはいなかったのですがね、馴染みの縁で、用意してくれたんでございますよ。古着ではありましたがね、質はいいものでございました。しかも夜着にするにはもったいないほどの見事な紬でしたから、はっきりと覚えていたんでございます」  さっきは忘れていたような口ぶりじゃなかったか、と思ったが、もちろん葉子はそれを口に出しはしない。 「そうだったのね」  葉子が生まれてすぐに、あの夜着はこの家に来たのだ。しかし葉子が物心ついてからはあの夜着が干されたりしているのを見たことはない。ずっと誰にも使われることなく納戸に仕舞われていたのだろうか。おしまや勝も褒める、りっぱな紬でできた夜着であるはずなのに。 「それから女中さんが使ったのでしょう」 「えぇ。もちろんでございます」  ふっとおしまの顔が陰った。なにかあったのだ、と葉子は悟った。 「その女中はすぐに寝込んでしまいましてね。名は、夏、でございました。その夜着を使い始めてから、もちろんその時分はその夜着が原因だとは思ってはおりませんよ。夜着を使わなければならないような季節になったということで、急な寒さに体がびっくりすることは若いものでもよくあることでございますから、みなその程度に思っておりました。最初はなんとなく顔色がよくないな、というような程度だったのでございますが、どんどん目に見えてやつれて参りまして、とうとう朝起きてこれなくなりましてね」  まさか、と葉子は胸が苦しくなったの。 「何か、ご病気に? まさか死んで、しまった、とか……」  若くして亡くなってしまった彼女の気持ちが夜着に残ってしまったのだろうか。葉子の脳裏に、先生から聞いた鳥取の布団の話がよぎる。 「いいえ、元気にやっておりますよ。三人子を産みましたが、もう大きくなっていることでしょうね」 「へ? あぁ、そうなの。それはよかったわ」  葉子は先走った自分に赤くなった。 「数日はこの家で寝込んでいたんでございますがね、亀戸医院の大先生が往診に来てくれたりもしたんですがね、原因はわからずで、しいて言えば寝不足だろう、と」 「寝不足?」  眠れなかった、ということか。なんのせいで? もしかして、その夜着のせいで? 「何か寝不足になるようなことがあったって言っていたの?」  おしまは、首を振る。 「そのときも何か心配があるんじゃないのか、問いただしてみたのでございますが、はっきりとは言わず、数日後、実家に帰らせてくれ、と泣きながら言い出したのでございます。大奥様なども心のせいかもしれないとおっしゃっていたので、すぐに人を使って彼女を実家に送り届けてくださったのでございますよ。それで生家に戻りますと、嘘のようにすっかり元気になりまして、念のため家で暫く静養するうちに、縁がまとまりまして、そのまま縁づいたのでございます。今で言う、ホウムシックでございますかね。家が恋しかったのだろう、とみなで言っておりました。布団はそれっきり使うものがいなくなって、納戸に仕舞われてしまったのでございます」  葉子はいつもの癖でぐっと下唇を噛みながらしばらく考えていたが、おしまの顔を見た。 「その、お夏さんに、会えるかしら。その時のこと、教えてもらいたいの。もしかしたら、その時も夜着が話したのかもしれない。それで怖くて寝不足になったのかも」  おしまは何も言わず、じっと葉子の顔を見つめた。葉子はいたたまれなくなって、祖母に頼まれたことを言おうかと口を開きかけたとき、おしまはふっと笑った。めずらしく頬の肉が盛り上がって、優しい顔になった。 「大奥様から頼まれたのでございましょう? もちろんこのおしま、助けになることならなんなりといたしましょう。しばらくお夏の様子も見ておりませんでしたから、ちょうどよい機会でございます。一緒にお供いたしましょう」  おしまの言葉にふっと肩の力が抜けるようであった。知らず知らず、自分一人で夜着の謎を解明しなければならないと、どこか片意地を張っていたのだろう。しかし、おしまがいる。玉三郎もいる。そして先生も、友も。それが心強かった。 「ありがとう。おしまさん」 「では、少しお持ち下さいよ。夕飯の仕込みをして、留守の間のことをおこうに頼んで、お嬢様にも少しお伝えしなければならないことがありますから。それが済みましたら出掛けましょうか。車を呼びましょうか。それほどの距離ではないのでございますがね。人力のほうがすぐ来るかもしれません」 「あ、あの、今日、行くの?」  おしまの勢いに押されるようにして葉子言った。 「はい。あら何がご用事が?」 「あ、いいえ。何も」 「なら、今日向かいましょう。善は急げと申しますから」  善か。善ならいいのだけれど。葉子は自分で頼んだことながら、何か自分でも正体のつかめない一抹の不安を感じていたが、おしまのせっかちさに苦笑しながらうなずいた。  自動車か人力を呼ぼうとするおしまを説き伏せて、葉子らは、夏、という女性の家に路面電車で向かうことにした。  金沢電気軌道により敷かれた市内電車は、大正八年に開業し、その当時は五台の花電車が祝賀運転したのを母や玉三郎とともに見にいったのを覚えている。たしかあの時も暑い季節で、人、人、人の人の海の中を玉三郎が手をつないでくれて花飾りをつけられた電車を人の間から覗き見た。けばけばしい作りものの花とたくさんの日の丸で飾られた電車は葉子には気恥ずかしそうに見えた。それは、最近見た粟ヶ崎遊園の猿が、頭に花飾りを乗せられていたときも感じたものだ。葉子は小さいころより七五三やひな祭りなどで着飾られて人前に出るのは苦手であったから、その時の何とも言えない気まずいような気分を思い出してしまうのだろう。猿はきっと煩わしいと思いこそすれ、恥ずかしいなどとは思っていなかったとは思うが。  葉子は電車が好きである。特にこの青くこじんまりとした市内を走る電車は特に好んでいるのだが、おしまなどは特に、葉子が年頃になってからは一人で乗ることにいい顔をしない。それゆえこうやって誰かが一緒に乗ってくれるときは電車に乗るよい機会だった。 「子供のようでございますよ。そうきょろきょろとされちゃあ」 「あら、靴を脱いで椅子に反対に座らないだけましだわ」 「まぁ、そんなことを」  久しぶりに市電に乗って興奮しているのだろう、葉子は何とも言えない晴れやかないい気分であった。そんな葉子の様子を見て、背筋に棒でも入っているような姿勢で座っているおしまはわずかに笑ったようだった。  初めて乗った八歳ごろの時は、そうやって窓に張り付き、流れるその光景を飽きずにずっと眺めていたものだ。それは葉子だけではなく、子供たちはもちろん、大人だって流れていく見慣れたはずの街並みに釘付けであった。なぜかいつも見ている町も、電車の窓から見ると、常とは違う映画の中の町の様に見えた。 「びっくりされないかしら。急に家に行って」 「大丈夫でございますよ。話が済んですぐ連絡を入れておきましたから」  さすが何事も隙の無いおしまである。葉子は感嘆のためいきをついた。  夏、という人は今年で歳は三十三ほどになるという。生家は里見町にある小さな料理屋で、生家からほど近い広阪通りに面した場所で古書店を商う家に嫁に行ったそうで、そこで三人の子を授かり、隠居の姑とともに忙しい日々を送っているそうだ。 「最後に顔を見に行ったのは確か三番目の子が生まれてしばらくたったころでございましたから、もう三年も経ちましょうか。大きくなっているのでございましょうね。やんちゃそうな男の子でございましたよ」 「生まれたばかりなのに、やんちゃそうってわかったの?」  葉子は少しからかうような調子で聞いた。なぜかおしまには、何を言っても許されるだろうというような、子供っぽい甘えがつい出てしまう。母や父に出したくても出せないものが、おしまの大きな懐が引き出してしまうのだろうか。 「えぇ、もちろんでございます」  おしまの言い方に葉子は口を開けて笑ったが、女の子が口を開けて笑うものではございませんよ、とたしなめられて口を無理やり閉じた。  尾張町駅から市電に乗り、博労町、武蔵が辻。武蔵が辻交差点ではポイント切り替え手の詰めた小さな小屋の横を通り抜け、そこから十間町、下堤町、南町を通って、尾山神社前、石浦町を過ぎ、香林坊で運賃を払い、葉子とおしまは電車を降りた。そこから左手に玉三郎の通う四高の赤レンガを、右手にちょっとした宮殿のような四階建ての市役所庁舎を見ながら進むと、おしまは通りの半ばでぴたりと止まった。  そこは間口二間ほどの古書店の前であった。ここが夏さんの店なのだろうと葉子が思っていると、開け放たれた出入りから着物の袖を端折った女の人が出てきた。黒々とした髪を簡単にくるりと結って、そこにセルロイドの簪が刺さっている。 「あら、今おつきに? ほんとにお久しぶりです。ほんとはこちらからご挨拶にいかんといかんのに」  女性はおしまにもたれかかるような勢いでそう言うと、はっとして目を葉子に向けた。白く丸い頬の、かわいらしい人である。 「あらあら、もしかして葉子様ですか? あんに小さかったのに。きれいなお嬢様におなりになられて」 「ご無沙汰しております」  葉子は戸惑いながらも頭を下げた。 「あらあら、わたしとしたことが、こんなところで。汚い店ですけれど、どうぞあがってください。お嬢様にはお恥ずかしいところですがね。あんた、あんたー」  まくしたてるようにして話しながらおそらく店のご主人を呼びながら、女性は一旦店の中へ消え、そしてすぐにまた顔を出した。 「どうぞ、こちらへ」  葉子がおしまを見ると、おしまは苦笑いのような表情を滲ませながら、葉子を中へと導いた。  中は、図書館とはまた違った様子の本の森であった。ちらりと一番目立つ棚を見やると、そこには謡の薄い本がずらりと並んでいる。そのほかの棚には表紙の古びた書籍が、びっしりと並んでいる。広坂にいくつかある古書店は玉三郎の行きつけであるから、この店にも訪れているのかもしれない。案の定、店内をきょろきょろと見回す葉子の前で、おしまと夏が玉三郎について話を始めた。 「つい、数日前も来られたばかりですよ。いつも長いこと棚を眺めて、うちの人とも熱心に話していかれますから、ほんとに勉強熱心な方だって、いつも感心しているんですよ」 「その熱心さをすこーしでも他のことに回してくれると、家の方も安心されるんですがね」  常々家の者皆が思っていることをおしまは代弁した。  その店の女将の夏は、大き目の声ではきはきとしゃべる明るい女性であった。一瞬でもこの女性に不幸があったのでは、と思った葉子は恥ずかしいような気持ちであった。  二人を客間に座らせたお夏は、少しして葉子よりいくつか幼いであろう少女と、そしてその背後に隠れるようにして立つ、これまた姉よりもいくつか小さい少女とともに茶を運んできた。一瞬気が付かなかったが、姉の背には、三歳になるかならないかほどの男の子が背負われていた。その子が暴れたのか、少女は男の子を畳に下ろした。 「一番上の子が菊江、下の子が良江、一番下は清太と言います」  子供たちは母親に促され、恥ずかしそうに挨拶をした。一番下の男の子だけが、最後まで母の腰のあたりに顔をつけたままだった。 「姉ばかりの末っ子だからか甘えん坊の恥ずかしがり屋で。先が思いやられますよ」  夏は優しいまなざしで末の男の子の頭を撫でた。 「男の子は優しいくらいがちょうどいいよ」  おしまもまた子供らに我が孫のような優しい目を向けていた。  子供らが奧に戻り、しばらくおしまと夏が近況などを話し込んだあと、おしまは何げない調子で例の夜着のことを切り出した。最初はなかなかぴんとこない夏であったが、しばらくすると思い出して、手を打った。 「えぇえぇ、きれいな夜着でした。思い出しましたよ。確か紬、でしたよね。そうそう、あまりいいものだから最初は緊張で寝れないのかと思ってたんですよ。その夜着を使った最初の夜ですよ。なかなか寝付けませんでね、もともとこんな性格ですから、どこでもいつでもくーっとすぐに寝つけるのだけが取り柄みたいなところがありましたのに、あの日はなぜか目が冴えて、いつまでも布団の上でごろりごろりろ寝返りを打っていたんですがね」  おしまが茶をすするのに倣って、葉子も乾いた口の中を冷たい麦茶で湿らせた。 「それでもそのうち寝ついたのか、夢を見まして。それが、なにか苦しい夢でしてね」 「苦しい?」  思わず問うた葉子に夏はうなずいた。 「はい。追いかけられていると思うんですが、はっきりとはしませんで、でも走って何かから逃げいているのは確かで、何から逃げているのかもはっきりとしないのに、怖くて怖くて。暗い山の中をずっと走っているんです」  山の中を。 「何か、変な音を聞いたとかはなかったかい」  おしまの言葉に、夏は視線を天井に向け考え込む。 「音、ですか」 「声、とか」 「声……」  あぁ、と夏は何かを思い出したようだ。 「許せ」 「許せ?」  夏は自分でもはっきりとしない、といった表情だ。 「夢の中で、確か、許せ、と。それはなんとなく、覚えています」 「女性の声だったかい?」 「いいえ、男の……」  夏はぶるりと体を震わせた。心なしか顔色が悪くなっているような気がする。もちろん葉子が気が付くようなことにおしまが気が付かないわけもなく、おしまはわずかに慌てた様子になった。 「すまないね。思い出したくないことを思いださせて」 「いえ、そういうわけじゃあ……」  しばらく夏は一人記憶を探っているような表情で黙り込んでいたが、ふっと息を吐いた。 「すみません。やはり思い出せないですね。ただ、すごく恐ろしいものを見たような気がするんですよ。それが、毎晩」 「毎晩かい」  おしまはため息をついた。 「はい。徐々になにか気持ちがそがれるような、体の芯が冷えていくような感じで日一日体に力が入らなくなっていって、夜寝るのが恐ろしくなって」 「すぐに言ってくれればよかったのに」  おしまの言葉に夏は素直に謝ったが、ふっと笑った。 「いえね、あの時、失恋をして」 「ん?」  急な話におしまは首をかしげる。 「笑わないでくださいよ。それにお嬢様にこんな話を聞かせるのは恥ずかしい限りなんですが、もう時効だと思って許してくださいね。あのときね、好きな人がいたんですが、その人が見合いをしたってんで、もうそれはそれは落ち込んでいて」  おしまは言われたとおり笑わずにじっと話の続きを待っている。 「幼いながらそれが悪い夢の原因だろうって、そう思っていたんですよ。今になっちゃあ馬鹿みたいですがね。それともう一つ、病気になれば家に帰れるかもしれない、そうしたらもしかしたら好きな人と結婚できるかもしれない、なんて思ったんですよ。今の私なら叱り飛ばしているところですがね、当時は真剣だったんです」  で、家に帰ったらもう夢は見なくなったのかい? おしまの問いに夏は気恥ずかしそうな表情のままうなずく。 「えぇ。それはぴったりと。家に戻って一晩普夢も見ずに眠りこけて、昼頃に自然と目が覚めたころにはもうすっかり体から悪いものが落ちたようにすっきりとしまして」  それにね。と夏は目だけで笑っているような顔で続ける。 「しばらくして見合いはうまくいかなかったらしいって聞いて。馬鹿みたいですけれど、すっかり息を吹き返しましてね。本当に子供だったんですよ。それでもうその時には嫁いでいたんですけれど、姉に相談したら母や父に言ってくれて、母や父はなんだ早く言えばよかったのに、なんて反応だったらしいんですがね、そんな年頃の乙女が好きな人がいるなんでこと、そう簡単に言えませんよ。ねぇ、お嬢様」  葉子は急に話をふられて、曖昧に笑ってみせた。 「それでとんとんと話は進んで」  おしまはそこでははーん、としたり顔で店の方を振り返った。 「それが今のご主人ってわけかい」 「まぁ、そうなんですがね」  夏はすっぱいものでも噛んだような顔で宙を打つようなしぐさをした。 「あの時は結婚できなきゃ、なんて思い詰めるくらいだったんですがね、今となればずっと店に二人ですからね、ご主人が外にお勤めに行く後ろの家の奧さんがうらやましいくらいですよ」  おしまと夏は愉快そうに笑った。葉子はふと、今日は何のためにここに来たのか、忘れそうになり、無理やり夏が見たという夢のことに考えを巡らせた。  夏が見たという恐ろしい夢は、明らかに夜着を使っていたときにだけ彼女に起こっていたもののようだ。おこうが聞いたという声は夏には聞こえなかったようだが、彼女が体調を崩したのは事実である。 「しかし、やっぱりあの夜着には障りがあったんだねぇ」  障り。おしまの言葉に、葉子ははっとした。そうだ。夜着の障り。みなが恐れているものはそれなのだ。夜着が言葉を発した、ということは普通には起こるはずのないことである。それゆえ恐怖を引き起こすこともあるだろうが、なによりその普通ではないものによって、何かそれを使うものに悪いことが起こることが一番恐ろしいのだ。  そして、夏の夢が夜着の仕業であったなら、それは明らかに夜着の障りだ。 「どうも失恋の心苦しさだけが原因とは思えないよ。そんな悪夢を毎晩なんて」  おしまの言葉に葉子はうなずく。 「そうですねぇ。すっかりもう忘れてしまっていましたが、今思えば、あんな風な夢を見たのはあのときだけですし、あんな山の中を歩き回ったことなんてないですからね。山なんて蓮如さんのときに向山に登るくらいですからね。もっと暗くて、じっとりと鬱蒼とした。うーん、やっぱり何を見たのかは、思い出せないんですがね」  夏は組んだ腕をほどいて、ほりほりと頬のあたりをかいた。  何か思いだしたら連絡すると約束してくれた夏に礼を言って、それからしばらくして二人は夏の店を出た。帰るときには噂の夏の主人も店先まで出てきて見送ってくれた。黒々とした立派な眉毛が印象的な優しそうな人であった。夏夫婦は、歩き出した二人を長いこと見送ってくれていた。  あの夜着にはやはり何かあるということはわかったが、夏のところではその原因は掴めなかった。さぁ、次はどうしたらいいだろう。やはり夜着を仕入れたおかやに話を聞きにいかなければならないだろう。明日、良子と映画を見に行く約束であるから、その時に相談しようか。 「明日、良子に相談しようと思うわ」  帰りは人力に揺られながら、葉子が言うと、おしまはうなずいた。 「あの時は番頭の悌吉さんというかたが手配をしてくれましたから、その方に聞くのがよろしいかと思いますよ。まだいらっしゃいますからね。髪が薄くて老けてお見えになりますけれど、まだそうお年ではなかったはずですからね、おそらく覚えていらっしゃるでしょう」  おしまは時々真顔でしらっと失礼なことを言う。冗談なのか、失礼だと思っていないのか、葉子には気を許している証拠なのか、葉子にはまだ分からない。  家に戻り、出かけた疲れも見せずに立ち働くおしまに感心しながら、葉子はしばし縁側に腰を掛けて息を吐いた。それほど疲れるようなことではなかったはずなのだが、なぜかずんと疲れたような気分だった。  まだ高い陽が少し夕方の気配を帯びて、優しくなった日差しが中庭の青い葉に当たっている。 「若いものがため息かい?」  葉子は家では聞くはずがないと思っていた声を近くで聞いて、びくりと体をこわばらせた。 「そんなに驚くことはないじゃないか」 「だって」  今まで誰もいなかった中庭の小さな池とその隣の石灯籠のその横に、友が紺の浴衣を着て、淡い色の日傘を差して立っていた。金魚の柄の少し子供っぽいような浴衣であったが、友が着ると、高級なもののように見えた。 「言ったろう。別に河原にずっといなければならないわけじゃないんだ」 「でも、まだ明るいわ」 「いいだろう。別に昼にいたって。幽霊じゃないんだから」  幽霊、じゃないのか。葉子は友のことを幽霊だとはっきりと思っていたわけではないが、何かそれに近しいもののように思っていた。だって、小説の中では最後亡くなってしまうし。でも、小説の話だし。なんだろう、考えれば考えるほど、わからなくなる。 「そう難しく考えなさんな。ほら、あの石の上に陽炎が見える。普段見えないが、何かの拍子にふっと見える。私だってそれと同じだ。それでいいじゃないか」  いい、のだろうか。 「夢は見たことがあるかい?」  夢という言葉にどきりとしたものの、葉子はうなずいた。 「夢の中では普通は夢とは気が付かない。それくらいなにもかも、まるで本当にあるみたいに見えるだろう? でもない。本当のことじゃない。人はそれくらい自分の頭ん中で景色を作ることができるんだ。眠っていてもだよ。なら起きて頭がはっきりしているときはどうだろうと、と思わないかい? どんな景色だって、どんなものだって頭ん中で作り出して、自分で見ることができるんじゃないかって、そう思わないかい? 夢ん中じゃあ、いろんなことが辻褄が合わないことが多いだろう? それは眠っているからだ。もし、起きていたらと考えたら」  そこで言葉を切って、友は妖艶な笑みを作って葉子を見た。 「今葉ちゃんの見ているものは夢じゃない。だって起きているからね。でも、それが自分の頭ン中で作り出したものじゃないって、そう言い切れるかい?」 「友さんは、私が作りだしている、ってこと?」  友はけらけらと笑った。 「さぁ、どうかね」  いつのまにか手に持っていたはずの日傘は消えて、友は滑るように近づいて来て葉子の隣に座った。 「誰と話しているんだ?」  急に後ろから玉三郎の声がして、葉子は慌てて振り向いた。おそらく友の姿は見えないだろうから、なにか独り言を言っていた言い訳を言わなくては。 「うん? お客かい? これは失礼」  頭を下げた玉三郎を、葉子は信じられない気持ちで見つめた。そしてその目を隣の友に向けると、いつも飄々とした友も、少なからず驚いている様子であった。  頭を上げた玉三郎は、二人の表情を見て不信そうな顔をした。 「お兄様には、見えるの?」  叫ぶような声で言った葉子の顔をじっと見て、玉三郎は言う。 「なんだ? 何かの謎かけか?」  葉子と友は顔を見合わせた。  縁側に並ぶ二人から少し距離を取って、二人の後ろにあぐらをかいて玉三郎は座り、葉子の口から彼女は滝の白糸で、本来であれば葉子以外の人には見えないことをつっかえつっかえ語った。自分で言いながら、荒唐無稽な話で、信じろというほうが無理である。その様子を友は面白そうに眺めていたが、一言も口を挟むことはなかった。 「そうかい」 「信じてくれるの?」  玉三郎はいつもの表情でため息をついた。 「疑ってもしょうがないだろう。今はお前の話の通りだと仮定していても、支障はなかろう」 「さすが葉ちゃんのお兄様だ。器が大きいねぇ」  友はからかうような調子で言った。 「あの、お兄様って呼んでるけど、兄じゃないの。叔父なのよ。母の、弟なの」 「へぇ、お名前は?」 「玉三郎です」  玉三郎の返事に、友はすっと目を細めた。 「いい名だ。じゃあ、玉さん、って呼ばせてもらうよ」  玉三郎は面食らったようだったが、まぁ、だの、あぁ、だの曖昧な返事を返した。  そこでふと気まずいような沈黙が降りたが、二人が揃っているいい機会だと思って、葉子は二人に今日おしまや夏から聞いたことを語って聞かせた。 「その夢が夜着の仕業かどうかははっきりとしないが、もっとさかのぼってみないといけないのは確かだな。おしまの言う通り、その番頭に聞くのが一番だろうし、そうするといい。子供のお前が聞きに行くより、おしまに聞いてもらうのが一番かもしれんが。そのときもおしまがその番頭とやりとりをしたのであろうし」 「それは、良子に相談してみるわ」 「どこの山だろうね」  ぽつりと友が言った。二人の視線に気が付いて、ふっと微笑む。 「いえね、その夏さんという方が見た山はどこの山だろうって気になってね」  夏はその山を見たことのない場所であったと言ったが、もしかしたらその夜着の見た山の光景なのだろうか。 「その夜着は、紬だって言ってたかい? どこの紬だい?」  あぁ、たしか勝が。 「うしくび、だったかしら」 「牛首……」 「白峰か」  玉三郎はそうつぶやいたが、なんとなく聞いたことがあるというだけで、葉子は詳しくは知らない。友は何かを考え込んでいる様子だ。 「案外、紬が生まれ故郷の白山の夢を見たのかもしれないね」  友の言葉を考えているうちに、気がつくと赤みを帯びた光を受けながら、葉子と玉三郎はいつのまにか二人になっていた。いつ友が消えてしまったのか気が付かなかった。さすがの玉三郎も驚いた様子で中庭や廊下のさきなどをきょろきょろと探している。 「一体あの人は何者なんだ……」 「さぁ」  遠くからおしまが二人を呼ぶ声が聞こえてきた。
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