五 夜着の咎

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五 夜着の咎

暑い。パラソルを差しても地面から熱気があがってくるのか、暑さを防ぐことはできない。しかしその暑さが、葉子の冷えきってしまった体の芯を溶かすような気がして、心地よかった。  前日、巳之次の話では、蝋燭屋の一家惨殺事件ののち、しばらくしてある伝手でその質屋にあの夜着が回ってきたらしい。質屋では事件のおおまかな内容しか知らず、どうしてそんな大それた事件が起こったのかまでは分からないようであった。当時まだ二歳や三歳であった玉三郎ももちろん覚えてはいない。悌吉と巳之次はなんとなく新聞で騒がれていたのを覚えている程度だという。  そこで困ったときのなんとやら、ということで葉子と玉三郎は再度図書館の先生のところに向かっているのである。 「あまりにも大きなことになって、わたし、どうすればいいかわからないわ」  愚痴るようにそういう葉子に、玉三郎は一瞥を返すこともなく答える。 「まぁ、お前がどうしようとも何が変わるわけもない。今は細く光る糸をたどるばかりだ」  糸、か。目に見えないが見える糸。それを断ち切るのが仕事だと巳之次は言っていた。その巳之次も切ることのできなかった糸をたどって、私はどこに向かっているのだろう。 「暑いねぇ」  思わずそうね、と普通に返しそうになったが、慌てて振り向いた。思ったよりも近くにパラソルがあった。顔は見えないが、薄紫の浴衣の足元から、赤い鼻緒の下駄をはいた足が覗く。 「友さん……」  立ち止まる葉子と玉三郎と並ぶように、ひらりと友は葉子の隣に来た。 「ご一緒にいいかしら?」  からかうような調子で言う友の顔を見る。汗一つかいてはいない涼し気な肌にさらりとおくれ毛がそよぐ。 「一緒にって……」 「いいじゃないか。あんたら二人以外には見えないんだ」  急にいつもの蓮っ葉な感じに戻って、友はふてくされたような顔をして見せる。 「別に構いはしないが、僕にも見えるということは、他の誰に見えたとしてもおかしくはあるまいよ」 「そんときはそんときさ」  友は何がおかしいのかころころと笑う。特に断る理由もたいため、三人は自然と並んで県立図書館の敷地へと入った。 「あぁ、あれは十四年前の九月でしたね」  そういうと先生はいつもの席から立ち書庫へと消えていった。しばらく待っていると大きな冊子のようなものを持っている。開くとそれは新聞を綴じたもののようだった。 「大正二年の九月十五日の地方紙です」  本日の大隈伯などの字の並ぶ新聞のページをめくりながら、先生はふと手を止めて、紙面に顔を近づけた。 「これだこれだ。ふむふむ」  見えないと思って友は大胆に先生のそばに行って新聞を覗き込む。葉子はなんだかはらはらとした気分になった。 「深更の狂気。一家惨殺。犀川の清流が血に染まる。とありますね」  葉子は新聞特有の煽るような書き方に腹が立つ思いであったが、じっと先生の言葉を待った。 「九月十四日の未明に犀川に飛び込むものあり。河原にいた者が目撃するも、行方分からず。一方叫び声や騒音を聞いた小幡蝋燭店の隣家から派出所に通報あり、当派出所の警官立ち合いのもと店内を確かめるに、中は血みどろの惨状であった、と」  先生が読み上げる内容は、昨日巳之次から聞いたものと同じであった。葉子はその内容の恐ろしさに鳥肌が立つ。 「家の中で倒れたる者はこの店の家人である小幡重義六十九歳、その息子春信四十一歳、その妻光江三十九歳、その子、春子十五歳、清美十三歳、茂樹九才、吾郎三歳、女中大木しず六十二歳、桑本玉子二十二歳、田中瑞枝十九歳であり、皆刃物にて切られた傷あり、出血多量のため発見されたときには意識なく、大木しずのみ一命をとりとめたり」 「え」  葉子は思わず声を漏らした。 「生きているんだわ。一人。生き残った人がいる」  糸はまだ切れてはいなかった。その人に聞けばきっとその夜なにがあったかわかるだろう。この悲惨な事件に夜着が関与しているのかどうかも。 「次の日の記事は、これですね。ふむ。犀川に身を投げたと思われる長男理光(おさみつ)十八歳が河口の金石港付近にて発見された、とありますね。凶事に用いられたであろう小刀は現場に残されており、長男理光の指紋が確認された。当日隣人は理光のものと思われる叫び声ののち、どたばたと室内を走り回るような音が聞こえ、そののち家人のものと思われる声も漏れ聞こえたよし。長男理光が単独にて家人を惨殺したことは疑うべくもないか、と」 「理由は? 何か書いてありますか?」  思わず体を乗り出した葉子を気にすることもなく、先生は淡々と記事を追っている。 「理光は四高に通っていたとありますね。学業優秀、特段問題を起こすような生徒ではなかったが、沈黙がちで、友人少なく、何を考えているのかわからないところとはあった」  小幡理光という人物はそう活発な人間ではなかったのだろう。だがそんな人間などやまほどいる。普段思っていることをあまり口に出せず、時に怒りや苛立ちが沸点に達してなにかとんでもないことをしでかしてしまう、ということはそう珍しいことではないだろう。しかし度が過ぎている。十人の家人を次々と小刀で傷つけていくのにどれだけの時間がかかるだろう。その間ずっと、人間は達してしまった沸点を保ち続けることができるだろうか。 「理光は詩や小説を書くことを趣味にしており、そのことで何度も父親と揉めていた、と親戚のものは語るが、理光の凶行に走った明確な理由は調査中である」  そこまで読み終わって、先生はしきりにページを繰っているが、一つ大きなため息を漏らした。 「そののちも小幡家についてあることないこといろいろ書かれていますが、これといった理由はやはり書かれていませんね。当の理光が死んでしまっては、警察も調べようがありませんからな。あとは周囲の人間が理由を詮索しても、栓もないことです」  葉子ははっとして、立ち上がった。 「あの、一人生き残ったっていう人は、その人の話は出ていないんですか?」 「そこなんですよ」  先生はやはり新聞記事から目を離さない。友はそんな先生の近くの椅子に座って、ゆうゆうと机に置かれた他の冊子の新聞記事を眺めている。 「犯人と思しき人間が死んだとなってはその生き残った人間が唯一の証言者ですからな。しかし……載っていない」  なぜだろう。一命をとりとめたとはあったが、話せるような状態ではなかったのだろうか。 「小幡蝋燭……大木しず……野町……しず……」  考え込む葉子の前で、先生はなにやら顎髭に触りながらぶつぶつとつぶやいている。しばらくそうしていたかと思うと、急に先生は声をあげ、葉子は思わずびくりと体を浮かせた。 「あぁ、それだ」  先生はさきほどと同様書庫に姿を消し、しばらくして足早に戻ってきた。その手には薄くサイズも小さな冊子が乗せられている。わら半紙に刷られた簡単な冊子である。 「これだこれだ。最近どこかで見たと思ったのです。これです。ここ」  先生は冊子の後ろから一、二枚をめくって、そこを指さした。小さな不鮮明な文字に、葉子、玉三郎、そして友は顔を近づける。そこにはいくつかの名前が並び、先生の短い爪の先には大木シズの名前があった。 「あ!」  葉子の驚きの声に、先生は満足げにうなずき、冊子の表紙を見せた。俳句の会〝さいかわ〟冬号とある。発行年を見ると、去年の日付である。先生はこのような地元の同人雑誌のようなものも全て目を通して、しかも覚えているのだろうか。恐ろしくなるような話である。 「住所は寺町とある。電話番号は書かれていませんが」  存命であれば七十を超えた年齢である。しかしこうやって俳句雑誌に俳句を投稿しているのであれば、それなりにお元気なのだろう。 「先生」  そこで急に今まで黙して先生の様子を眺めていた玉三郎が声を出した。葉子は玉三郎の横顔を見つめる。 「白山権現の本地仏は十一面観音ですよね」  いつものごとくの唐突さであったが、先生は顔色一つ変えずにそうだとうなずく。先生が広げたままの新聞を眺めていた友も顔をあげた。 「夜着を使った女性が十一面観音の夢を見たというのです」  先生の目が丸く見開く。 「ほう」  顎鬚に伸びた手が忙しなく動く。何かを考えているときの癖であろうか。 「白山之記には、霊亀元年に白山比咩の神の示顕あって託宣をこうむるり、嘉祥元年神殿仏閣四十五宇が勅命で創建せられ、且つ鎮護国家の壇上と定められた、とありますし、それよりさかのぼって崇神天皇七年には白山を仰ぎ見る遥拝所ができたと、白山比咩神社には伝えられています。しかしこれよりはるか以前から人々が白山を畏怖し信仰していたのは確かでしょう。その後泰澄和尚伝によると、仰ぎ見るのみの存在であった白山に泰澄が養老元年に登頂し、十一面観音を祀り、白山修験道ができあがっていくわけです。その泰澄和尚伝では、何度も夢を見るのです」 「夢を」  葉子のつぶやきに、先生はうなずく。まるで講義を受けているようだ、と葉子は思った。 「十四歳の時に夢に出てきた高僧に、汝が座するところの蓮華は、すなわち、聖観世音所持の花なり、汝比丘の形を以て、十一面の利生大光普照の徳を施すべし、菩提心を退くることなかれ、と言われ、まぁ、僧になって修行しろ、とこういうわけですな。そこで越前の越智山での修行に入る。その後三十五の歳に再び夢にて貴女が現れて曰く、早く来るべし、とお告げを受けて、白山に赴き、その貴女に導かれて登頂をなす。夢で白山に呼ばれるのです」  白山が、呼んでいる。十一面観音が呼んでいる、そう巳之次の妻は言っていたのではなかったか。山の女神が呼んでいたというのか。 「ですから、白山権現の本地物が十一面観音であるのは、泰澄がそれを見たからなのですよ。なぜ、泰澄は十一面観音の夢を見たのか」  隣で玉三郎がすっと息を吸い込む音が聞こえた。先生はそれに気が付いたのかいないのか、そのまま言葉を続ける。 「泰澄和尚伝によれば、泰澄は越前国の麻生津に三神安角の次男として生まれます。母は伊野氏とある。幼少のころより泥で仏像を作るなど仏性を示した泰澄は、さきほども言った十四歳のときの霊夢にて修行に入る。その後泰澄二十一歳のときには鎮護国家法師の名を賜り、養老元年に白山に登頂。その際に池の中より九頭竜王が出現したものの、それが本来の姿ではないことを見破り、九頭竜王は十一面観音の姿となる。それは白山に坐す神、白山妙理大菩薩であった、ということですが、両親のはっきりとした出自は不明であり、泰澄自身の実在すら危ぶまれるような存在です。それは、日本書紀などの正史に全くと言っていいほど泰澄という名が出てこないせいです。泰澄は実際私度僧ではあるが、しかし流行り病を収め、時の天皇から大和尚の号を賜るほどの僧侶であったにも関わらず、です。それは一体なぜか。泰澄和尚伝は実際作者の意図を大きく汲むものではあるとは思いますが、泰澄と名乗る僧自体がいなかったと判断するのはあまりにも突飛であると、私には思える。それならば」  先生は狭い事務室の中をうろうろと歩き回り、ほんの数秒、言葉を止めた。 「意図して正史からは抹消された、と考えるのが妥当かと」 「意図して?」  思わず葉子はそう言って、隣の玉三郎を見た。玉三郎は、先生をちらりと見てから口を開いた。 「正史は政権を持ったものの意図を大きく汲むものだ。全てが正しく、そして漏らさずに書かれているものではない。時の権力者が白だと言えば、カラスも白だ」  そう、なのか。そうなのかもしれない、が、だったらなぜ泰澄は抹消されなければならなかったのだろうか。玉三郎の言葉を受けて、先生は再び口を開いた。 「この国に、泰澄創建とうたう寺社は多い。多すぎるくらいです。正確な数ではないかもしれませんが、ものによると六百を超えるとか」 「そんなに」  葉子は白山を開いた、ということしか知らなかった。 「それだけではない、道路や橋などの公共事業も多くしている。もちろん名もなき僧にできることではない。実際天皇から依頼されるような僧侶であったし、民衆からも慕われていたのでしょう。多く正史から抹消されたり、貶められたりする人間は権力を握った側と対立して、負けた側です。しかし泰澄伝記にその記載は見つけられない。それならばなぜ、抹消されなければならなかったか」  なぜ。 「なぜ十一面観音であったのか」  先生は最初の疑問を再び口にした。 「おそらく、この二つの疑問は関係していると思うのです。どちらかがわかれば、もう片方の疑問もきっと糸口がみつかるだろう、と」  素人の勝手な推測ですが、と先生は付け加えた。  十一面観音。十一の面を持つ美しい、仏像。国宝である奈良の聖林寺の十一面観音立像の写真を見たことがある。流れるような衣の線と、優美な手の造作。あれは奈良時代に作られたのだったか。あの像を泰澄も見ただろうか。 「十一面観音は密教の尊格であり、密教と山岳信仰は密接ですから、のちの伝記の作者のそういった常識がそう書かせたのだと言われれば、それまでなのですが、なぜか私にはそれだけには思えないのですよ」  そういうと、やっと先生は元の席に腰を下ろした。玉三郎はじっと組んだ自分の足先を見つめている。友は何を考えているのかわからない表情で、事務室の小さな窓から外を眺めている。夏の日はまだまだ高い。 「で、この粋な女性は誰ですかな?」  先生の言葉に、三人ははっと先生の顔を見た。 「何か不適切なことでもいいましたか?」  先生は顔色一つ変えないが、葉子はなんと答えてよいか分からず、きょろきょろと玉三郎と友の顔を交互に見つめ、玉三郎は何かぶつぶつ言いながら首をかしげている。そして友は、何を思ったかけらけらと笑い出した。 「もしかして私の姿はみんなに見えるようになったのかもしれないねぇ」  不思議そうに首をかしげる先生の、見たことのない表情がおかしくて、葉子も思わず笑ってしまい、ますます先生は首をかしげる。 「先生、この女性が見えるのですね」  玉三郎の言葉に、先生は胡乱な顔をする。 「えぇ、見えますが。見てはいけませんでしたかな」 「いえ、そんなわけでは。ただ」  玉三郎は言葉を選んでいるのか、妙な唸り声をあげたが、常識に即した説明を諦めたのか、再び口を開いた。 「この女性は、滝の白糸、だそうです」 「おみしりおきを」  友はいたずらっぽくそう付け加える。 「今のところ、葉子と、僕と、そして先生にしか見えていないようなのです。ここに来る途中も、やはり通行人には見えていないようでした。信じられない話かと思いますが」 「滝の白糸……」  そう先生はつぶやくと、友をちらりと見た。 「あの、鏡花の。水芸の」 「えぇ」 「ほう」  腕を組んで、少し怖いような顔になって、何かを考えている様子であったが、すぐに先生はもう一度友のほうに向いた。 「わかりました」 「へ?」  玉三郎が聞いたこともない声を出した。 「信じてくださるんですか?」 「私は一度、泉鏡花にお会いしたことがあります。あれほど言葉に執着し、言葉の魔力に憑りつかれているような人はみたことがない。私も書物に対してはおそらく、異様な執着と、そして信頼を持っている点は認めましょう。しかし、あれほどまでに、言葉の力を信じることはできない。それは一種鬼気迫るものでした。あの泉鏡花の書いたものであれば、そういうこともあるかもしれません」  先生の言葉に、なぜか友はとてもうれしそうな表情を見せて、ゆっくりと頭を下げた。 「ありがとうございます。〝せんせい〟」 「顔色がよくないような気がするけれど、大丈夫? 最近忙しいみたいだけれど、あの夜着のことでしょう? おばあ様に言われたことなら仕方ないけれど、でも根詰めることはないのよ。なにか危ないことになったら大変だもの。私もそれが最初から心配なのよ。私からもおばあ様に言いますから、もうおやめになってもいいのよ」 「そんなことはないわ。少し暑くて寝不足なだけよ」  家に戻ると待ち構えたように令子は葉子に駆け寄った。令子としては夜着を寺に預けて終わりだと思っていたのだろう。こうやって幾日も葉子が夜着のことにかかりきりになっているのが、不安なのだ。 「それでも、今は何もないけれど、もし葉子さんに何かあったらと思うと」  二人の横を素知らぬ顔で通り抜けようとする玉三郎の腕を、はしっと令子が掴んだ。 「玉三郎も。葉子につきあってくれているみたいで、ありがたいけれど、危ないことはないの?」  あからさまにめんどうくさそうな顔を一瞬したが、玉三郎は姉令子に向き合った。 「危ないことはないよ。ただ、話しを聞きに行っているだけだから」 「そう?」  玉三郎は小さくため息をつきながら、頬をかいた。 「ここで終わったら、きっと葉子も不如意だろう。やり始めたことは最後までやったほうがいい」 「そうかしら。でも、」 「僕も着いているから」  令子は玉三郎と葉子の顔を見て、ため息をついた。 「葉子をお願いね。でも勉強の方は大丈夫なの?」 「葉子のことがなくても、勉強する時間が増えるわけじゃない」 「また、そんなことばかり言って」  少しばかりは安心したのか、しばらく玉三郎と葉子に小言を付け加えたあと、部屋へ戻っていった。 「僕は姉さんの手前、あぁ行ったが、お前がやめたくなったら、いつでもやめたらいい。聞きたくない話を聞くかもしれない」  葉子自身、それが少し怖かった。まだ年端も行かぬ自分が、抱えきれぬ何かを知ってしまったら。でも、それでもやはりまだ切れぬうちは、糸をたどって行きたいと思った。 「ありがとう。そうするわ」  部屋へと戻る途中、ふと勝手口のほうを覗くと、戸が少し開いていて、外におこうが立っているのが見えた。もうすぐ陽が落ちる、淡い色の空の下で、背中を縮こませて立つおこうは、目をつむって手を合わせていた。そこに夕刊を入れたずた袋を下げた男が走ってきて、おこうに新聞を渡したが、その瞬間男はおこうに顔を近づけて何かを囁いた。おこうはうなずいているようにみえたが、何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、おこうに見つからないよう、足早に葉子はその場を離れた。  どきどきと鼓動の早いまま、葉子は自室へと戻って、へたりと座った。さっきのは、どういうことだろう。ただかわいい女中さんをからかうような言葉を投げただけかもしれない。それとも、二人は知らぬうちに相思相愛の仲なのかもしれない。どちらであっても、葉子が心を悩ますようなことではないはずなのだが、なぜか男の言葉を聞いたときのおこうの横顔が、葉子を不安にさせた。それは、怒っているような、笑っているような、なんとも形容のできぬ、表情であった。  先の氾濫で流され、掛けなおされてまだ日の浅い鉄橋の犀川大橋を渡ったところ、犀川の南側に横長に広がる寺町は、その名の通り多くの寺を擁する町である。犀川のこちら側は、普段はあまり来ることもないが、寺社仏閣の好きな玉三郎は、時々一人で訪れているらしく、大木しずという女性の家を訪ねる前に、玉三郎の知り合いの住職がいるという寺にまず寄ることとなった。  前日の夜から朝にかけての比較的強い雨のせいか、いつもよりは気温の低い日である。朝顔の鉢がいくつも並ぶ境内を抜けて、鬱蒼と茂る松に隠れるように佇む庫裏へと向かう。  田舎の民家のようなこざっぱりとした庫裏の戸を開けると、土間の向こうから簡素な僧衣をまとった住職がこちらに近づいてくるところであった。 「なんだかんだと、久しぶりでございますねぇ。もう一年ほどご無沙汰だったのではございませんか」 「それほど経ちませんよ。確かあれは正月の開けぬ前、師走のことでしたから、せいぜい八か月ほどです」 「歳をとると時間の感覚が鈍っていけない」  笑いながら住職はそういったが、葉子の思っていたよりもずっと、ここ曹洞宗慈当寺の住職は若かった。剃髪により実際より老けてみえるのであろうが、五十を超えているようには見えなかった。案の定玉三郎は、そのような歳ではないでしょう、と笑っている。 「こちらは葉子さんですか? いつの間にか大人の女性になられて」  ごく幼いころに葉子もここを訪れているらしいが、その記憶はあいにくなかったものの、葉子は丁寧に挨拶の言葉を述べた。 「野町で、蝋燭屋の息子が家族を殺傷した事件がありましたでしょう」  しばし家族の近況などを尋ねあったあと、玉三郎は住職にそう切り出した。 「あぁ、若いころにそのようなことがありましたね。まだ先代の生きているころだ。なんて言いましたか、小幡蝋燭、だったか」 「えぇ、そうです。十三年ほど前の事件です。ここも蝋燭をお買いになっていたのでは?」  何か喉に詰まったものを飲みこむようにして、住職はうなずいた。 「えぇ。そうですね。その事件でもちろん取引はなくなりましたから、私がここを引き継いだときにはもう違うところから買っていましたので、私はあまり小幡蝋燭さんとは関わりがなかったのですがね。何度かお使いに行ったことがありましたよ。感じのよい店だったと思いますがね。こんな場所の近くですから、店も流行っていたと思いますし」  玉三郎は天気の話でもしているような表情を崩すことはない。 「あの時助かった大木しずという女性を御存じですか? 小幡蝋燭の店で働いていたようなのですが」 「大木、しず。あぁ、えぇ、存じていますよ。あぁ、あの人が。そうか」  何か記憶と今の情報を照合しているのか、しばし住職は格子の入った天井を見上げた。 「大木しずという人は知っていますが、あの人があの事件に関わっていたことは知りませんでしたよ。あぁ、だからか」 「だから?」  思わず聞いた葉子に、住職はうなずく。 「いやね。毎日のようにここに来て、ご本尊に向かって長いこと祈っておられますから、なにか過去につらいことがあったのだろうと、勝手に思っていたのですよ。あちらからお話されない限り、そうこちらから聞くこともしませんから」  ここに、来るのか。あの事件の唯一の生存者である女性が。 「やはり」 「やはり?」  玉三郎のつぶやきに、住職が不思議そうな顔をした。葉子も玉三郎はもしかしたら、ここに大木しずが訪れていることを予想していたのではないかと、思っていたところであった。 「ここのご本尊は、十一面観音でしょう」  昼から訪れるであろう大木しずを待つことになり、住職の言葉に甘え、二人はそこで昼を御馳走になることになった。最初庫裏には住職しかいないような静けさであったのだが、昼食時になるとどこからか若い僧衣の男性や、手伝いと思われる女性などがわらわらと現れ、縁側に面した部屋に二人は通された。 「急に来たのに、申し訳ありません」 「今は預かっている人間も多くて、一人二人増えてもそう変わらないのですよ」  住職はそう笑うが、葉子も用意されたりっぱな膳を見て、申し訳ないような気持ちになった。ぱっと見なにか分からない料理もあるが、基本は野菜や豆腐や干した山菜や茸を用いた料理が、小鉢にきれいに何品も盛られている。 「ここはお料理がおいしいから、ありがたい」  普段食の細い玉三郎の箸も進んでおり、葉子も遠慮がちに箸をつけてみると、薄味だが丁寧に作られたことが分かる、いい味であった。 「僕は、得度したわけでもないですが、どうしても肉や魚に抵抗があるんです。ここのお食事は本来の人間の食べるべきものという味がする。こんなことを言うと、母や姉に怒られますがね」  玉三郎は笑ってごまかしたが、住職は一瞬同情ともとれるような真剣な目を玉三郎に向けたが、話しをさきほどの話題に戻した。 「それでどうして、大木さんに?」  玉三郎は簡潔に今回ここに至ったわけを話した。夜着が話したというくだりも、十一面観音の夢を見たという話しも、住職は真剣な表情で聞いていた。 「なかなかやっかいそうな話だ。しかしその夜着は、今どこに?」 「家にあります。母の手元に」 「あぁ、勝様が」  祖母勝のことを知っているのか、住職は大きくうなずいた。 「それならば、めったなことはありませんでしょうが、いわくのあるものというものは、必ずあります。時代は変わりましたが、人に影響するものというものは必ずある。それがなにか怪奇のせいなのか、本来は科学的に証明しうるようなものなのか、私にはわかりませんが、手元に置いておいてはいけないものというのが必ずあるのです。もし必要であればこちらでお預かりすることもできましょう」 「ありがとうございます。母と相談いたします」  玉三郎は箸を置き、頭を下げた。 「それとやはり気になりますね。十一面観音が」  玉三郎と同様、やはり住職もそこに引っかかっているようだ。 「この寺の観音菩薩像は前田家から下賜されたものと聞いています。元は十一面観音は山岳信仰と関わりの深い密教の尊格ですが、奈良時代以降は泰澄の影響が大きく、白山信仰との結びつきが強くなった。実際、ここ白山に隣接した石川の寺院には十一面観音が多く残っています。現世ご利益の多い仏様ですから人気はありますが、なぜ十一面なのか、ヒンドゥー教の影響とは言われていますが、実際はあまりわかっていない、謎の多い仏様です」  そこで住職は葉子に優し気な目を向けた。 「十一面観音の頭の上の顔が、どんな顔か、じっくり見たことはありますか?」 「え、いいえ」  葉子はもじもじと首を振った。仏像をじろじろと見るのは罰当たりな気がして、十一面観音どころか、他の仏像もじっくりとなど見たことはないだろう。 「普通そうです。簡単に言うと、頭頂に悟りを開いた者の表情である仏頂面、正面に慈悲深い菩薩面、左に怒りの瞋怒面、右に牙を見せた狗牙上出面、そして後ろに暴悪大笑面」  ぼうあくだいしょうめん。葉子は心のうちでその恐ろしいような名を繰り返した。 「歯を見せ、怒っているような笑っているような不思議な表情です。これは真後ろなので、なかなか見る機会はないでしょうが」  怒っているような、笑っているような。葉子の胸がぎしっと痛んだ。 「人はいろいろな面を持つ。それは仏様も人も、同じなのでしょう」  食事後、お茶をいただき、しばらく縁側に座り待っていると、葉子より幼い少年が二人を呼びに来た。本堂で住職と、そして大木しずが待っているようだ。葉子の胸は急にどきどきとし始めた。  大木しずにとって、きっと過去の事件は忘れたいようなことだろう。それを十何年も経ってのち、掘り返されるのは嫌に決まっている。しかし彼女が話してくれるかはわからないが、それでも今は聞かなければならないという使命感のようなものが、葉子の中にあった。そしておそらくしずが信頼しているのであろう住職が同じ場にいてくれることは、心強いことであった。  庫裏から本堂までの短い間でも、じりじりとした日差しで汗ばみ、本堂のひんやりとした空気がここちよかった。正面の奧の陽のあたらないところに、本尊の十一面観音が見える。思ったよりも小さな仏像である。そしてそのちょうど正面に住職が座り、その横に小さなおばあさんが座っていた。  大木しずは、予想していたよりもずっと老け込んだ見た目をしていた。歳は祖父とそう変わらないはずなのだが、祖父よりもずっと年上に見えた。  玉三郎と葉子が挨拶をすると、しずは小さな体を更に縮めるようにして頭をさげた。おそらく背中が曲がってしまっているのだろう、頭をあげても、彼女の腰は曲がったままであった。 「しずさん」  住職はさきほどより声を大きくしてしずに語りかけた。耳も遠いのだろうか。 「こちらのお二人がしずさんにお話を聞きたいそうです」 「へぇ」  皺と同化したような目を瞬かせる。 「しずさんが小幡蝋燭さんにいた時の話を聞きたいそうです」  一見しずの表情に変化は無かったが、細い肩に力が入ったように見えた。静かな境内の中、しゃべるものがないと、とたんにセミの声が目立つ。さきほどかいた汗が背中を伝う。 「あのときのことですか」  初めて言葉らしい言葉を発したしずの声は、思ったよりも力強く、発声もしっかりとしていた。ふと見た手の甲だけが妙に白く、若々しかった。 「えぇ。しずさんがケガをされたとき、何があったのか、それに」  牛首紬の夜着が、ありはしませんでしたか?  住職の問いに、驚いたのかしずは体を起こして住職を見た。 「あぁ」  ため息のような、病の床の喘ぎのような苦しげな息をもらす。 「あの着物のせいでした」  玉三郎が言葉を聞き逃しまいと、一膝にじり寄った。 「あの着物をお嬢さんが勝手に夜着にしたと言って、怒ったんですよ」 「誰が怒ったんです?」  住職の声は変わらず優しい。 「ぼっちゃまです」 「理光さんですね」  小幡家の長男。そしてあの事件の犯人と思われている人物。はいはい、としずはうなずく。 「奥様が古着屋で買ってきなさった着物を春子お嬢様が気に入って。紬でしたから、奥様はご自分の普段着にでもと思っていらっしゃったんでしょうが、春子お嬢様がえらく気に入ったもんで。ほんにえらく気にいっておられました」  どこを見ているのかわからない表情で、しずは語る。 「奥様も着るもんにはこだわりなさる人でしたから、古着を買うなんてことはめったになかったんです。それをいたく気に入った様子で……きれいな紬でございました」  どこかうっとりとした声でしずは言う。 「それを何を思ったのか春子お嬢様が憑かれたように夜なべで、夜着に仕立ててしまわれた。着物を買ってきてからそう日数は立っておりませんです。それをなぜか奥様でなく、ぼっちゃまがえらいお怒りになって、すごい形相で春子お嬢様にくってかかって」  十一面観音がお怒りになっている、と。 「お、理光さんがそうおっしゃったんですね」  住職の声に驚きが見えた。 「ぼっちゃまがお気づきになったのが、もうだいぶ夜も更けたころでした。私はぼっちゃまの怒鳴り声でお二人のところに飛んでいって、春子お嬢様たちが寝間に使っている部屋でございます。そこで目をひん剥いたぼっちゃまが、春子お嬢様を見下ろしておりまして」  ふっとしずは黙った。蝉の声だけが響く。 「春子お嬢様は赤子を抱くようにきちんと畳んだ夜着を胸に抱えて、それを守るように背中を丸めておりました。おとなしい、気の弱い春子お嬢様に似合わず、ぼっちゃまにどんなことを言われても、ただじっとそうしておりました。そして私のようにぼっちゃまの声で家のものがみんなその部屋に集まってまいりました。旦那様がぼっちゃましかりつけて止めようとしたのですが、ぼっちゃまにはもう何も見えず、聞こえてもいないようで、ただ十一面観音様に申し訳が立たないと、怒鳴りちらすばかりで、」  そして。 「懐に刀を隠しもっていたようで、それを振り回して、まず春子お嬢様の背中を切りつけました。そして止めに入った旦那様と奥様を、逃げ出そうとするお嬢様と下のぼっちゃまと、女中らを。そして私の顔を切りつけようとしました」  しずの顔に切り傷の跡はない。しずは二の腕のあたりをしきりにこすっている。そこを切られたのだろうか。 「もうあとは何も覚えておりません。気が付いたら病院におりました。助かったのはわたくしだけでございました。何の役にも立たぬおいぼれだけが、生き残ってしまいました。先生は、歳寄りゆえ、血の流れが遅かったのだろうと言っておりましたが、残酷なものです」  しばらく重い沈黙が流れた。 「理光さんは、その、普段から頭に血が上りやすい質だったのですか」  住職が沈黙を破ってしずに聞いた。しずは手を顔の前で振る。 「そんなそんな。ほんに優しい人でございました。虫も殺せぬような、とはよく言いますが、ほんにそんなお人だったんでございます。それが」  どうして。しずもずっとそれを考えてきたのだろう。さきほど住職から、現在大木しずは、小幡家の親戚と自身の甥の援助と、ほそぼそとした裁縫の内職で生計を立てていると聞いた。一間と台所しかないようなところで一人で暮らしているらしい。孤独の中で、ずっと彼女は生き残ってしまった罪悪感を抱えながら、過去を思い続けていたのだろうか。 「あれはきっと、十一面観音菩薩様の障りでございます。それゆえお許しを得るため、ここでずっと祈り続けているのでございます」  どうして春子は気に入っている紬を夜着にしてしまったのか。  どうして理光はそれほどまでに怒ったのか。  十一面観音の障りとは、一体何であるのか。  わからないことばかりだ。玉三郎も住職も、言葉をなくして、何かを考え込んでいる。しばらくして、やっと住職が言葉を発した。 「その紬は、どこで手に入れたのかわかりますか? その古着屋はどこの古着屋ですか?」  しずは頭を振った。 「わたくしもあの事件ののち、古着屋に聞きに行ったのです。寺町近辺ですが、だいぶ野田山に近いほうのところにありましたが、そこの主人は、女性が売りに来たと言っていました。身なりの良くない女性で、背中に子供をしょっていたと。思いつめた様子で、あの紬だけを売りに来たと言っていました。可哀そうに思ったようで、少し色を付けた値段で買い取ってやると、何度も礼をいって去っていったと。主人はおそらく山の者だろうと」  山の? 葉子は首をかしげるが、玉三郎はただじっとしずの言葉を聞いている。 「その古着屋はまだ?」  言葉の途切れたしずに玉三郎が聞くが、再度しずは頭を振った。 「あの事件ののち、しばらくしてそこの主人が亡くなりました。店で倒れているのを客に来たものが見つけたと、そのような話だったと思います。せがれがおりましたが、店は継がず、今はどこにいるのか……」  糸が切れてしまった。葉子はそう思った。名前も知らぬようなその女性を探し出すことなど、不可能だろう。 「こうやってあの時の話をするのは、もしかしたら初めてかもしれません。事件のすぐあとはずっと黙っておりました。何も話すことはできませんでした。新聞やら雑誌やらの人が入れ替わり立ち替わり来ましたが、ずっと黙っておりました。そのうちに誰も聞かなくなりました。事件のこともみな忘れてゆきました」 「お辛いことを思いださせてしまって申し訳ありません」  玉三郎が謝ると、今やっと目の前の若い男に気が付いたというように、しずはしげしげと玉三郎の顔を見た。 「ぼっちゃまに似ておりますなぁ」 「僕がですか」 「あの子も仏さんみたいな優しい顔をしていました」 あぁ、と急ににしずは声をあげた。 「今思い出しました。ぼっちゃまが私に刃物を振り上げたとき、すまない、ゆるしてくれ、と」 「理光さんが、そう言ったんですね」  玉三郎がその意外な言葉に目を瞠った。 「どうして、こんなことを、忘れていたんでしょう」  しばし呆然としていたしずは、両手で顔を覆って、なにかをしぼりだすようにして嗚咽を漏らし始めた。住職がその小さな背中を優しくさする。  葉子は夏の言葉を思い返していた。許せ、夏が夢の中で聞いた言葉だ。一体だれが、何の許しを請うているのだろう。 「十一面観音はあなたに何か言いましたか」  嗚咽も落ち着き、再び呆けたように床を見つめるしずに玉三郎は問いかけた。 「戻ってこい、と」  家に戻る道すがら、玉三郎は白峰に行くと言い出した。聞き直す葉子に向かい、たんたんと言葉を繋げる。 「尻からたどっていった糸が切れた以上、頭に返るしかないだろう。着物のことはよくわからないが、あれが牛首だというなら、白峰村で作られたのだろう。そこにさかのぼってみるしかあるまい」 「白峰村……。ここからどれくらいかかるのかしら」 「鶴来駅までは電車が通っているが、そこから牛首までは車だろう。道くらい通っているだろうさ。最悪歩けばいい」  そんなことを言って、半里の道も歩きたくないとだだをこねるのはいつも玉三郎のほうである。葉子は足腰には自信がある。 「そんなこと言って、どれくらいあるの?」 「所詮十里ほどだろう」 「十里って……」  さすがの葉子にもつらい道のりである。この陽にあたったこともないような叔父に歩けるとは思わない。車が通っていることを祈るばかりである。 「それに無理にお前も着いてくることはない。僕は昔からあのあたりの風習に興味があったんだ。雪のない今は行くのにも都合がいい。僕だけで行って来るさ」  そんな、と言いかけて、葉子は少しほっとしている自分にも気が付いた。最初おずおずと辿っていった糸は、いつの間にか葉子には手のつけられないような場所で、ぷつりと切れた。幾人もの人が亡くなっている。もしこれがあの夜着の障りのせいであったなら、とんでもない話だ。もちろん、不幸が重なっただけなのかもしれない。しかし今までの話を思い返せば返すほど、夜着が無関係であるとは思えなかった。  しかも、元をたどればたどるほど、障りは大きくなっている。もし大本にたどりついてしまったなら、これほどの障りを作り出した元凶を知ってしまったなら、自分はどうなってしまうのか、葉子は恐ろしかった。しかし恐ろしければ恐ろしいほど、巻き込んでしまった玉三郎を一人で行かせるわけには行かなかった。 「私も行く」 「無理をしているだろう」 「そんなことはないわ」 「ばあさんにはうまく言っといてやるよ」 「おばあ様は関係ないわ。行くったら行く」 「いつもの強情が出たな」  ふん、と葉子はそっぽを向いた。玉三郎になめられたくないと思いながら、ついこの叔父の前では子供っぽい所作をしてしまう自分が歯がゆかった。 「まぁ、いい。その前にばあさんや姉さんの許可が下りなければどうしようもないからな」  家に戻り、夕食のあと祖母勝の部屋へと呼ばれた。祖母とはもちろん毎日顔を合わせているが、こうやって改めて部屋に呼ばれるのは久しぶりである。 「宿題は済みましたか」  そういえば前ここに来たときもそのようなことを聞かれたな、と思いながら、葉子はうなずいた。 「はい、終わりました」 「よろしい」  勝の部屋はいつも通り塵一つなく整頓されていて、夜着も見当たらなかった。葉子の心が読めるかのように、勝はふっと笑った。 「夜着は秘密の場所に隠してあります。しかしさきほど玉三郎が貸してくれと言いに来ました。牛首に行くとか」  そうか、玉三郎が勝にその話をしたために、自分が呼ばれたのかと、葉子は納得した。 「あなたはどうしたいですか」  きっと令子は行くなと言うだろう。 「私は一緒に行きたいと思っています」  うそだ。本当は行きたくない。でも、 「なぜか、行かなければならない様な気がするのです。お兄様ではなく、私が」  実際、これまでいろいろな人に話を聞くことができたのは、ほとんど玉三郎のおかげである。しかし、私も、いや私が、最後まで見届けなければならない、なぜか強くそう思うのだ。勝に頼まれたからだろうか。いやそれだけではないだろう。 「わかりました。行って来なさい。お母様には私からよく説明しておきます。心配はするでしょうが、仕方ありません。子育てとは心配するということですから」  勝は見たこともないような柔和な笑みを見せた。
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