序幕

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序幕

 東西! お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸に御座りまする。御目見え相済みますれば、早速ながら本芸に取り掛からせまする。最初こて調べとして御覧に入れまするは、露に蝶の狂いを象りまして、花の曙。ありや来た、よいよいよい、さて。  口上のしわがれた声は夏の夜の帳の中を波打って、酒と興奮で湯気を立てる男も女も、ただしんと目の前の白き顔の女を見守るばかり。毎夜喧騒の坩堝と化す浅野川の河原も、このときばかりはせせらぎさへ声を潜める。  朱鷺色の縮緬の単衣に、銀糸で波の刺繍を施した水色の裃を付けた女は、左手に盃を、右手に黄と白に塗られた扇を持ち、大勢の観客を前に悠然と微笑み、紅のひかれた赤い口元をきっと一瞬引き締めて、それらを互いに手から離した。女の目は、観客の頭上高くに一際強く輝く白き星をただ見つめている。    納涼の人気も絶えた浅野川にかかる橋の袂で、女というにはまだ幼い、少女と呼ぶには育ち過ぎた一つの影が、小さくうずくまっている。暑気はまだ去り切らず、生暖かな月夜の晩である。  名は葉子。明治天皇の崩御の年にここ金沢に生まれ、大正という元号とともに年を重ねて、数えで十五になる。夜の闇に溶けいるような紺の麻の浴衣に、ゆるりと紅い帯を結んで、紺の鼻緒の下駄を揺らしている。  腰を下ろした石畳もどこかまだ昼の熱を残し、川風だけがひやりと冷たい。 「こんな時間にどうしたんだい。私みたいな女ならいざしらず、あんたみたいなお嬢さんの出掛ける時間とは思えないねぇ」  凛としてどこか艶めかしい声が降ってきて、葉子は俯けていた顔をあげた。いつのまにか彼女の右隣に女性が立っている。透けるように薄い白い絽の着物の裾が風に揺れ、襦袢の赤い色がちらりと覗いた。 「暑くて、寝むれなくて」  なぜか警戒心や恐怖は起こらず、するりと葉子は言葉を返す。 「まぁ、暑いね。特に今夜はいつまでたっても熱の引かない寝苦しい夜だ。月がまだ寝るなって誘っているのかもしれないよ」  女性は音もなくこぶし二つほどを開けて葉子の隣に腰かけた。彼女の顔は川面に映る月のように白く照り輝いていた。 「怒られないのかい」  頬に化粧っけはないが、唇には紅が引かれている。葉子はそのとき初めて彼女の横顔をまじまじと見た。狐にばかされているかと勘繰るほどの美しい人であった。 「……ばれたら怒られるわね。でもばれたことはないわ」 「威勢のいいお嬢さんだこと。夜の浅野川には人ならぬものも集まってくるんだ。気を付けないと、私みたいな若い女を狙う鬼に食べられてしまうかもしれないよ」  女性は葉子を正面から見据え、ひっかくような手つきをして見せた。 「ふふふ」  葉子が思わず笑うと、女性はわざとらしいため息をついた。 「おかしいねぇ。ぐずる子供にやると効果てきめんなのにさ」 「もう子供じゃないわ」 「いくつだい」 「数えで十五」 「子供じゃないか」  不思議と彼女に子供だと言われたことが葉子にはうれしかった。都合のいいときにはもう子供ではないのだからと言われ、なにか意見を言おうとすればまだ子供だと蔑ろにされる微妙な年齢を、葉子自身も持て余していたのだ。 「学生さんかい?」 「高等女学校に通っているわ」 「そりゃあいい」 「いいかしら」 「あぁ、いいね」  へそ曲がりで気が短くてごうつくばりだと叔父の玉三郎に評される葉子であったが、なぜか彼女の言葉は素直に受け取れた。彼女の女性にしては低いよく響く声音のせいかもしれないし、あけすけな割に品を失わないその話し方のせいかもしれない。いや、ただ彼女が夢のように美しかったからだけなのかもしれない。もしかしたら、夢を見ているのだろうか。 「夢のように美しい夜だ」 「えぇ」  葉子は彼女に倣って月を見上げ、そっと彼女の横顔を盗み見た。彼女は何者だろうか。すこしくずしたようなゆるりとした銀杏返しに、首の後ろを深く抜いた着方からして、どこかの奥様とは思えない。そもそも奥様であったならこんな時間にふらふらと外をうろついてはいないだろう。ここから近い東か主計のお茶屋の女性だろうか。しかし彼女らはまだ仕事で忙しい時間であろう。紅のみのほとんどすっぴんの顔も、ちょっとお座敷から抜け出して来たところとは思えないし、お茶屋の女将ともまた違う気がする。 「そんなに見つめられちゃあ、さすがの天下の滝の白糸も照れてしまうよ」  見ていたことがばれて、葉子は顔を赤くしたが、彼女の言葉に思わず声を出した。 「え?」  滝の白糸は泉鏡花の小説である義血侠血に出てくる水芸を得意とする女性の名だが、もちろん小説の中の話だ。同じような芸を披露する芸人であろうか。 「知らないかい?」 「え、いえ。知ってはいるけれど」  納涼に集まった客相手に見世物をするものは、義血侠血の時代から変わらずまだ浅野川の河原に多く集まる。先日葉子も猿回しの芸を見に来たばかりだ。しかし水芸をするものの話は聞いたことがない。こんなきれいな人が伝説の滝の白糸を名乗って芸を披露していれば、噂になりそうなものなのに。 「ふん、信じていないね」  急に葉子の後ろで足音が止まった。女性に気を取られて背後の気配に気が付いていなかった葉子はぎくりと後ろを振り返った。 「あぁ、やっぱり葉子ちゃんか。ここらは見世物の連中や茶屋帰りの酔っ払いも通るんだ。一人でこんなところにのんびり座っていては危ないといつも言っているだろう。嫁入り前の大事なお嬢さんになにかあったら、ここらを守る私だって首をくくらばならないよ。どうしても涼みたいときは一人じゃなくて玉三郎君にでも連れてきてもらうといい。ほら今日は家に帰りなさい」 「え、えぇ。もう、帰りますから」 「絶対だよ。絶対すぐ帰るんだよ」  顔なじみの老齢の巡査が、かつかつと足音を立てながら、こっちを振り返り振り返りやっと去っていったときには、葉子は困惑で息が苦しいほどだった。 「見え、ないの?」  夜に紛れて、ということはないはずだ。それならば月明りに照らされた白い着物の彼女よりも、紺地の葉子のほうが見えにくいだろう。 「そのようねぇ」 「どうして?」 「どうしてかしら」  葉子はいままで、不思議なものを見たことはない。妖怪も、お化けも、幽霊も。現実主義の玉三郎ですら経験したことがあると言っていた金縛りすら。怪異は見えないものにはないのと同じ。お話の中の、人物と同じ。そう、滝の白糸のように。 「あなたは、だあれ?」 「なんだい、やっぱり信じていなかったね」  女性はどこからか盃と扇を出して、両手に片方ずつ持つと、月明りを集めるようにそれを空に掲げた。 「天下一品の滝の白糸の水芸だよ。殿様が百両出しても見たいと言った芸だ。とくとご覧あれ」  ヤ、と一声あげたと思うと、盃に満たされた水は盃を離れて生き物のように蝶の形をとり、ひらひらと細かなしずくを煌めかせながら、扇の風を受けて空を舞う。葉子の見守るなか、蝶は月めがけて飛び去っていった。 「すごい……」 「これで、信じてくれるかい」  彼女が何者なのか。突然現れ、他の人には見えない。人の技とは思えない素晴らしく美しい芸を見せてくれる彼女が、幽霊なのか、狐か、妖か、はたまたそのどれでもないものか。月に飛んで行く透き通った宝石のような蝶の軌跡を追いながら、葉子はそんなことはどうでもいいことのように思った。 「白糸、さん」 「なんだか嫌だねぇ、久しくその名を呼ぶものも、もういないんだ。そうだ、友って呼んでよ。それがいい」 「友、さん」 「あぁ、いいね。まるで女学校の友達みたいじゃないか。憧れていたんだよ。学校というものにはとんと縁がなかったからねぇ。あんたの名前はなんてんだい?」 「葉子」 「いい名だ。葉ちゃん、って呼ばせてもらうよ」  尋常小学校のときにはそう呼ばれることが多かったが、今では葉子さんと呼ばれるばかりで、久しく聞きなれていないその呼び名が、友の美しい口から聞こえるのを、葉子は不思議な思いで聞いた。 「えぇ」  いつのまにか扇も盃も消え、友は空の手でそっとおくれ毛を撫で上げて小さく笑った。 「うれしいのさ。こうやって誰かと話ができるのは、えらく久しぶりなもんでね」 「ずっと、ここにいたの?」 「そうさね。ずっとっていうわけじゃない。ここにいる理由も本当はないんだ。でもね、私がこの世にこうやって残ったわけが、なにかあると思ってね。不思議なもんでね、恨みつらみなんて、本当に、心のそこから、何もないんだ。見栄をはっているわけじゃないよ。ほんとうにそうなんだよ。だから自分がこうやって残ってしまったことが不思議でね、そのわけをずっと待っているんだよ。きっとそのときがくればおのずとわかるだろうってね。そしてそのわけはここらにあるんじゃないかって、そう思うのさ」  人は不思議なものだね、この世から離れてやっと、分かることが多いんだ。そういって友は口を閉じて、ただ二人の間には川の流れる音だけが響いた。 「まだ、見つからないの?」  葉子の問いに、友は微笑む。もし見つかったら、彼女はここを去るのだろうか。  友は葉子の問いに答えることなく、座った時と同じように、一瞬のうちに立ち上がった。 「さぁ、今夜は店じまいだ。お嬢ちゃんは帰ってゆっくりとお休み。また、おいで。私はいつでもここにいるよ」  慌てて葉子が立ち上がったときには、もうすでに友の姿は見えなくなっていた。ただ彼女の着物に焚きつけた柔らかで甘い香の残り香だけが、月の光のなかに蟠っていた。
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