昼休みとチョコレート

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 キーボードを叩く音が広いフロアに鳴り響く。  最後の修正を終えた音無は画面を食い入るように見つめ、保存を掛けて大きく息をつく。共有編集にしたファイルの誤字修正を終えて、真向いの座席に声を掛けた。 「桐生さん、こっちの修正完了しました」 「ありがとうございます。こちらの編集も完了しました」  最終チェックを終え、桐生が残業時間の記録をしている横で音無が何かを卓上に置いた。 「…あ、あの。これ、良かったら…疲れに良く効く、って言いますし」  卓上に置かれたのは、小さく可愛らしい包装フィルムに包まれていた。桐生はそれを一瞥すると、少し嬉しそうに手に取り包み紙を開く。独特な楕円形をしている、アーモンド入りのチョコレートだ。ふたつあるうちひとつはシャツの胸ポケットに仕舞い、包みを開いた方は口に入れる。 「ありがとう」 「…なっ…!今、笑いました…?」  チョコレートを頬張っていた桐生は噴き出しそうになりながら、何を今更とでも言うように音無を見上げる。 「君は私をロボットか何かだとでも…?」 「いや、なんと言うか…笑った顔が、素敵で」 「……そんな訳がないでしょう」  呆れたように言葉を返して退勤処理を済ませ、パソコンの電源を切る。音無は既に帰宅準備を済ませており、ボディバッグを身につけた。席から立ち上がる桐生に声を掛ける。 「あの、もし良かったら夕飯」 「…音無さん」 「はっ、はい…!」 「……お疲れ様でした」 「お、お疲れ様でした」  デスク横に掛けてあるビジネスバッグを手に取り、歩き出す桐生の後を追うように音無も動き出す。職員フロアの出口に社員証を翳し、すぐにバッグの中にしまい込んだ。けして遅くはなく、速くもない桐生の歩幅と合わせるように廊下へ出て、階段を降りる。終始無言のまま、靴音だけが響き渡った。 「きっ、桐生さん…!」 「今度は…何ですか」  勢いで呼びかけたはいいものの、何を話そうか焦る音無を訝しげに桐生が見遣る。 「甘いもの、好きなんですか…?」  問われた言葉に桐生が目を丸くし、口元が微かに歪む。ふふ、と明らかに笑っている声がして、音無は思わず恥ずかしくなり頬を赤らめた。彼の笑顔を見たことなど、彼が転属してきて今までろくに無かったからだ。 「…ええ。まぁ、それなりに好きですよ」 「そっ、そしたら駅前のスイーツバイキング行きませんか…チケット、二枚あって…ひ、独りだとなんか気まずくて…」 「……私は別に、構いませんが……他に行く人がいるのでは?」 「いないです!」  元気に言うことではないだろうに、何故かはきはきとした答えを返す部下の表情から、桐生光は視線を逸らしていた。無下に断るのは悪い気がしたのか、小さく頷く。どうにも彼のペースに乗せられているような気がしてしまう。気がつけば職場入口の自動扉が開き、同じ方向に歩いている。 「そしたら、…今から行きませんか?」 「急すぎますよ」 「う…まぁ、確かに…こんな時間ならもうやっていませんよね。それにおねこが待ってるし…」 「……猫?」 「そうなんですよ、こんなちっこいんですけど」  スマートフォンの待ち受け画面を見せると、桐生の表情があからさまに変わった。まだ仔猫に近い体型のトラ柄猫を食い入るように見つめ、名前は、と問いかける。 「名前は『おねこ』です。オスなんですけど、懐っこい可愛いやつで……」 「そうですか」 「桐生さん、猫も好き…?」 「はい」  畳み掛けるように即答すると、音無が驚いたように足を止めた。桐生も同じく足を止め、どうしたのだと首を傾げる。 「あ、あの、良かったら…今書いてる小説で気になるところがあって」 「おねこ様に会えますか」 「えっ?」 「あ、いや、…その、なんでも……ないです…」  慌てたように取り繕う桐生の足が再び動き、音無もつられて歩き出す。音無がちらちらと桐生の顔色を伺いながら、撫でたいですか、と問い掛けた。小さく頷く桐生の仕草に、今度は「かわいい」とすぐに声を漏らしながら。 「いいですよ」 「……何か、条件があるのでしょう」 「桐生さんの書いてる小説が読みたい」 「………」 「あとは、おねこが懐いてくれたら、の話ですけど」  先程まで(普段よりも)にこやかだった桐生の表情から急に色が無くなって、いつもと変わらない感情の読めない顔色になる。何か良くないことを聞いてしまったのかと不安になり、音無は桐生の隣に並んで歩き続ける。 「ダメ…?」 「………それは…駄目です」 「そっか…残念だなぁ」 「そうですね。…私も残念です」  駅へと向かう別れ道に差し掛かり、桐生は左へ曲がる。一方音無は右に曲がらなければならず、少し寂しそうに桐生の背中を見つめ、気を取り直して声を掛けた。 「また明日、…生田さん!」  もうひとつの名を呼ばれ、振り返った桐生は凄まじい速さで元来た道を戻り音無に詰め寄る。 「その名前では呼ぶなと言っただろうが…!」 「交換条件ですよ。明日もまた、お話しましょうよ」 「……まったく…物好きな奴だな」  苦々しく吐き捨てるように言ってから、桐生は再び歩き始める。その背中に大きく手を振って、見えなくなるまで見送った。少しばかりくたびれたように見えるその背中が、誰よりも頼もしいことを音無は知っている。  帰ったら小説の続きを書いて、桐生に認めて貰えるように仕上げたい。しかし何かが物足りない。 「うーん…あとひと押しなんだよな…」  もっと桐生のことを知って、深い仲になれば読ませて貰えるのだろうか。そもそも恋人や伴侶が居るのかすら分からない。分かったことと言えば、チョコレートと猫が好きなこと、彼のペンネームが「生田何某」であること、今のところ音無しかその名前を知らないこと。   秘密を共有している事実に、音無は嬉しさを噛み締めた。この感情に名前を付けるとしたら、それは単なる「憧れ」ではないのかも知れない。  ふと足元に白い何かが見えて、近づき屈んで手を伸ばす。カサ、と乾いた紙の質感が指先に触れた。 「あれ、これって…?」 ×   ×   ×  何かがおかしい。  桐生光は小さく溜息をつきながら、部下に見送られ帰路へつく。小さな駅に入り、改札を抜けて電車を待った。辺りには誰もおらず、ビジネスバッグがやけに重たく感じる。「自分の書いた小説が読みたい」と言われた瞬間、桐生はただひたすら焦った。あの原稿用紙を読まれただけならともかく、内容は決して自分の素性を知るものに読まれてはならない。上手くもない恋愛小説、それも…題材が題材だから。 『…間もなく電車が参ります』  無機質なアナウンスが聞こえて、気を取り直し前を向く。進行方向とは逆の向きから、眩いライトの灯りが見える。  彼の存在はただの部下であって、それ以上でもそれ以下でもない筈だった。それなのにペースを乱されても、無理矢理話しかけられても嫌な気持ちがしないのは何故なのだろう。生れてこの方まともな恋愛経験がなく、不器用な片想いで終わっている。それなのに再び恋愛小説を書こうと思ったのは…決して口に出せない想いをあの頃のようにカタチに残しておきたかったから。ただ、その想いで久方ぶりに筆を取った。  けたたましいブレーキ音と共に車両がホームへ滑り込み、目の前に止まった車両のドアが開かれる。  足を一歩踏み出そうとして、微かに背後から聞こえる声に動きが止まった。 「桐生さん!まっ、待って…!」  呼び止める声を無視して電車に乗っても良かった。それなのに、そうしなかったのが何故なのか自分でもよく分からなかった。 「……音無…」 「あの…えっと…これ…落とし物です」  音無が差し出したのは、音無に握られたのかくしゃくしゃになった原稿用紙だった。昼休み開けにポケットに捻じ込んでいた筈だが、いつの間にか落としていたらしい。 「わざわざ…これを届けにここまで…?」 「だって、あまり知られたくないんでしょう?小説書いていること」 「……」 「会社で渡すよりも、うちからここまでは下り坂なんで…走って来れば渡せるかと…」 「…間に合わなかったら、どうするつもりだった…?」 「こう見えても俺、元陸上部なんで!体力と足には少し自信あるんです。そりゃ、間に合わなければ明日の昼休みか…定時後にでも」  へらへらと笑う音無を一瞥し、原稿用紙をビジネスバッグの中に仕舞い、桐生が深く溜息をつく。腕時計の文字盤は既に二十時を示している。 「…それにしても、何で今時原稿用紙で書いているんですか…?クラウドとかにデータ保存できれば、スマホでもパソコンでも書けるのに」 「…かたちに残しておきたいから」 「え?」 「…そんなどうでもいい事を聞きたいのか…?」 「どうでもよくないです。桐生さんのことなら、何でも知りたい」 「無駄な時間を使うな。他にやることがあるだろう」 「…っ!」  桐生は心がひび割れそうで、早くこの場から消えてしまいたかった。この純真な部下に、無駄な時間を費やして欲しくない、と言うのは本心だ。自分なんぞに構う暇があるなら、自宅の猫と遊んで居た方が遥かに楽しい筈なのだ。桐生は次の電車が来る時間を確認するため、天井から吊り下がる電光掲示板を見上げようとした。  しかし視界の先にはそれが見えず、目の前にあるのは今にも泣き出してしまいそうな音無の顔だった。 「…な…」 「…無駄とか、どうでもいいとか、自分のことを二度とそんなふうに言わないでください」 「音無…?」  一拍置いて、音無がきつく拳を握っているのが見えた。 「俺はあなたのことを尊敬してるし、…好きだから」  俯いたままそれだけを告げると、音無はその場から走り出して改札を摺り抜けた。よくよく考えてみれば、ここまで来るのに入場券まで買わねばならない筈の場所まで、追い掛けてきた理由は何なのだろう。 「……」  もしかして、今のは告白されたのだろうか…?  呆然と立ち尽くす桐生の背後で、次の電車がホームに滑り込んで来る音が聞こえた。
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