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原稿用紙とスマートフォン
ようやく帰宅して、桐生光は重い足を引きずるように自宅の玄関扉を押し開けた。
滑り込むように入ると壁に背中を預け、先程起きた出来事を頭の中で繰り返す。先程部下から言われた言葉は、聞き間違いではなかった。
「…好き、だとか……冗談だろう」
職場の上司として、好いていると言う意味のはずだ。そう自分に言い聞かせる。
あの後すぐ到着した電車に飛び乗り、自宅に戻るまでの記憶が朧気だった。それだけ衝撃的すぎて、桐生はよろけながら玄関から廊下に上がる。
まっすぐリビングの奥にある寝室に向かい、スーツとシャツ、スラックスを脱いでハンガーに掛ける。シャツのポケットから落ちてきた包みを拾いベッドの上に放り投げ、下着の上からクローゼットに掛けていたバスローブだけ身に纏い、そのままベッドへ倒れ込んだ。
もしかしたら、拾われた原稿を読まれたかも知れない。そんな恐怖心が沸いてきてしまって、桐生は横向きになりベッドの上で膝を丸める。無意識のうちに取る体勢で、こうしていると自然と心が落ち着くのだ。
もしそうだとしたら、明日からどんな顔をして会えばいいのだろう。自分のような男が、…男性同士のラブストーリーを書いているなんて知られてしまったら。
それもモデルにしている張本人に。
「……」
はぁ、と溜息をついて瞼を無理やり閉じる。シーツの上をまさぐって、掴んだまだ中身のある包み紙を開いて頬張った。口の中に苦くて甘いチョコレートの味が広がっていく。
ただの後輩、部下でしかない、音無美影。それなのに、桐生は彼に対して淡い恋心のようなものを抱いていた。
×
「ただいま」
玄関照明のスイッチを押し、うにゃーんと鳴きながら出迎えてきた愛猫の頭を撫でる。音無美影は頭の中が真白になりつつもどうにか帰宅し、玄関の内鍵を掛けた。なんであのタイミングで言ってしまったのか、自分で自分の言った言葉が信じられない。穴があったら隠れてしまいたい。
リビングに戻ってソファに座り、尚頭を抱えていた。
「はぁ…またやっちまった……」
自分の気持ちは嘘ではない。嘘ではないが、あの表情を見るからに拒絶されてしまうだろう。明日からどんな顔で仕事をすればいいのか、わからない。
以前惚れた上司への失恋は、比較的直ぐに立ち直れた。相手が結婚し、職場から居なくなったので吹っ切れたと言ってもいい。しかし、今回ばかりは立ち直れそうにもない。上司への憧れが、好意に変わる瞬間を実感した。
無防備ともとれる桐生光の素顔。眼鏡を外したその眼に、凪いだ海のように穏やかな表情に、一目惚れしてしまったから。
「おねこ…どうしよう」
首を傾げて飼い主(と書いて下僕と読む男)を見つめた小さいトラ猫が、片方の前足を上げて音無の腕に触れた。慰めているようにも見えるが、おねこは全く意に返さず遊んで欲しいだけである。しかしこの猫好きな男は、自分の飼い猫に対してだけは都合のいいように汲み取る術に長けていた。
分かってくれるか、と胸元に抱き寄せ頬ずりされ、その温かさが居心地よく目を細めるおねこ。
一方通行な思いは噛み合わないが、それでもお互いに居心地がいい。おねこはゴロゴロと喉を鳴らすと、小さい体を丸めて音無の胡座をかいた隙間にすっぽり収まる。その寝姿に癒されている間も、目標としていた小説公募の締切は刻一刻と迫っていた。
今は九月の半ば過ぎで、締切は十月末だ。あと1ヶ月もないのに、果たして完成するのか自分でも疑問だった。
「……困った時のおねこ頼みだな」
音無が何かに行き詰まった時、指針にしているのはおねこの尻尾だった。横に振ってYES、縦に2回打ち付ければNOを示すそのサインは、あらゆる時に音無へ勇気を与えてくれる。今日、桐生に話し掛けるきっかけだっておねこが作ってくれたようなものだ。まさか彼が猫好きだとは思わなかったが。
「なぁ、おねこ…もう諦めた方がいいか…?どっちも…」
自分は桐生光の部下である以前に、生田キリオのファンだ。ならばどちらの彼を尊重するべきなのか。ファンである以上、生田キリオに迷惑を掛ける訳にはいかない。しかし桐生光のことを好きになってしまったのは紛れもない事実だった。
おねこが尻尾を縦に二度振ったら、明日、彼に謝ろう。そして全部忘れて欲しいと頭を下げる。もしかしたら、既に忘れているかもしれない。それなら都合がいいのにと、ちくちく痛む心のままリビングの座卓に置いたノートパソコンを立ち上げた。桐生に対する想いが玉砕しても、小説は完結させたいと思っている。しかしモチベーションが続くかは分からない。そんな不安を抱えていた音無にはお構いなしに、おねこが突然起き上がった。
にゃ、と一声鳴いて振られた尻尾は、横に揺れている。
「……『いいえ』ってか…まだ、諦めるなってこと?」
「んにゃっ」
「そうは言ってもなぁ…うぅん…」
畳んでいたモニターを起こし、画面に映る文章入力アプリの文字列を見遣る。書きかけの小説は、まだ誰にも見せられるものでは無い。起承転結で言えば、まだ承に入り掛けた場面だからだ。小鳥遊瑛太という名の主人公が、今の音無と同様に自分の選択に迷っているシーンだった。
「…俺はどうしたらいいのかな……」
音無は空腹も忘れ、キーボードをひたすら打ち込む。しかし、頭の中には違う言葉がぐるぐると回っていた。「生田キリオ」と「桐生光」、ふたつの名前が。
「にゃーっ!」
「…んぁ?うわぁぁっ!おねこ!!」
『頭を抱えている小鳥遊の背後かうぇrちゅいおpあsdf』
気づけば、画面には意味不明な文字が並んでいる。我に返って削除しようとして、深く溜息をついた。
猫飼いにはよくあることだ。キーボードの上に乗られて、良く分からない文字を打たれる。考え事に耽っていると大体こうなってしまう。急いで復元して、今日は夜食を摂って寝ることにした。そして無意識に書いていた名前、桐生光の名前を慌てて削除する。明日のことは…明日、考えればいい。
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