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心拍数とシャワールーム
「『お前を抱きたい、と御影が俺の耳元で言う。今の自分の顔は、どんな表情をしているのだろう』」
桐生が今書いている原稿の一部を読むと、音無は狼狽えたように息を吸い込んだ。自分の名前で書かれたボーイズラブの小説を読まれたら、誰だってそうなるであろうことは分かっていた。これで彼が自分を嫌ったとしても、それはそれで受け入れるつもりだ。彼自身が読みたいと言っていたのだから、言葉通りに教えてやる。それでも極一部でしかなくて、続きを言葉にするには相当の勇気が必要だった。
「…お前が読みたがっていた原稿の一部だ」
『その続き…、もっと、聴きたいです』
「…え?」
『当然ですよ。でも、その…え…アレなシーンは…あったりします?あと、どんな人物なんですか?』
「……」
一瞬呼吸が止まった。そんなこと、部下に言っていいのだろうか。彼を如何わしい妄想の源にしていたなどと、言える筈がない。それこそコンプライアンス違反になってしまうのではないだろうかと、急に冷静になってしまう。
それでも、彼に嘘をついてしまうのはもっと嫌だった。上司と部下ではなく、ただの同人作家と読み手になれればどれだけ気が楽になれるのだろう。
「…これから、その部分を書こうか悩んでいてな…。正直、迷っている。おまえに軽蔑されるのは分かっているから。メインカップリングは小さいバーでバーテンダーをやっている男、霧島とその店に来た客である御影靖司だ」
今書いているものを破棄して、新たに書き直してもいい。返ってその方が良いとすら思えてくる。このまま書き進めて、職場でギクシャクするよりも…白紙にして無かったことにしてしまった方がいいとさえ、桐生は思っていた。
それでも音無美影と言う男は、サラリーマンと同人作家の二枚の仮面を被っている桐生の心情とは裏腹に普段と変わらない明るい声で受け答えた。
『何言ってるんですか…悩む心配なんてないですよ。俺はむしろ、めちゃくちゃ嬉しいです』
「何がだ」
『そこまで俺が生田キリオの頭の中を独占しているんだって…俺が桐生さんを独り占めしてると思ったら、毎晩興奮で眠れなくなりそうです』
「……」
「おまえ、変態だな」
『んなっ、何言ってんですか…!あなただって…』
ふ、と息を吹き掛けるように笑うと、音無はたった一言言葉を返した。
『…興奮、してるでしょう?』
その一言に何を馬鹿なと手で顔を覆う。今にも心臓が爆発しそうなくらい、ドキドキしているのは確かだが、興奮しているのとは違うと自分に言い聞かせる。
「していない」
『ほんと?』
「ほんとうだ」
『そしたら、確かめていいですか?』
「っ、何を、どう確かめる?」
深く深呼吸するように、息を吸って吐く。部下に見透かされているようで、正直気に食わないと思ってしまう。それなのに、手のひらに湿り気を感じた。しっとりと変な汗をかいている。スマートフォンを反対側の手に持ち替え、手汗をバスローブで拭う。
『簡単な事ですよ…小説に出てくる受けの名前は?』
「……來斗」
『らいと?』
「ああ。霧島來斗」
『…そしたら…俺のキャラは攻めってことですね。それなら、來斗は桐生さんかな』
「あ?」
『俺は今から、桐生さんを口説きます』
「はっ!?何を、馬鹿なことを」
『今、ドキドキしたでしょ』
「っ!そんなことは…!」
『あはは!桐生さん、かわいい』
「う……うるさい……」
桐生の反応が可愛いだの初々しいだの、一頻り笑った音無は楽しそうに好き勝手言っている。奥からニャー、と甘える声が聞こえて、おねこに寂しい思いをさせたかも知れないと小さく溜息をつく。
「…上司をからかうな。そろそろ電話、切るぞ。おねこ様を悲しませるなよ」
『げっ、もうこんな時間…?すいません、長々と…おねこもごめんな?』
喉を鳴らす音が漏れ聞こえ、次いでうにゃうにゃと途切れた声が耳に入る。気持ちよさそうなその音色に、桐生は口元を弛緩させた。
「………ありがとう。少し、安心した」
立ち上げたばかりのパソコンの電源を落としながら、桐生は掛けている眼鏡を外しパソコンデスクの上に置いた。ベッドの上に寝転がり、目を瞑る。
「……おやすみ。美影」
『っ!?な、今の、反則っ……!』
「散々おれを笑った仕返しだ」
笑うのを必死に堪えて通話終了の表示をタップしようとする。しかし通話口の向こうから、名前を呼ぶ声がしてその手を止めた。
『…き、桐生さん』
「ん?」
『おやすみなさい、また明日』
「ああ、また明日」
今度こそ通話終了を押して、桐生はスマートフォンを枕元に手放した。心臓に悪い長電話からようやく解放され、ぐったりと身体から力を抜く。二年位しか彼と同じ職場に居ないのに、不思議ともっと昔から付き合いがあるように感じてしまう。
「……ばかやろう」
身体に残る熱を逃がすように掛け布団をはだけ、そのまま目を瞑る。時刻はとうに日付を跨ぎ、穏やかな眠気が桐生に訪れた。
× × ×
まずい。
心臓が忙しなく動いているのは俺の方だ。桐生さんのことを揶揄って余裕ぶったりはしてたけど、実際は全身から汗が噴き出そうなくらいに緊張していた。寝る前にシャワーを浴びて、すっきりしてからの方が眠れるかも知れない。明日も仕事だから早く寝ないといけないのに、このままじゃ眠れる気がしなかった。書きかけの小説を上書き保存して、ノーパソをスリープ状態にする。いつの間にかソファで丸まり、眠っているおねこの小さな額を撫でた。
「ちょっとシャワー浴びてるくるからなー、おねこ」
眩しいのか、両手でぎゅっと顔を隠すおねこに脱いだばかりのシャツを被せる。俺が使ってた座布団やら服を小さい口に咥えるおねこが、どうしてそうするのか知ってからはなるべく身に着けていたものを布団のように被せていた。飼い主の匂いがするから落ち着くのだと、情報誌で読んで少し納得した。自分が好きな匂いを独り占めしたくなる気持ち、分かる気がする。
おねこの腹に顔を埋めて寝るととてつもなく落ち着いたり、桐生さんの傍にいると仄かに感じるいい匂いを思い出した。おねこのフワフワの腹はひだまりの匂いで、何時までも吸っていられる。桐生さんはちょっと甘めの柔軟剤か、コロンのようなボディーソープのようなやさしい匂い。
あの匂いに全身包まれたら…なんて変な想像をしそうになって、慌てて浴室に向かった。
ぬるめのシャワーを浴びて、全身の汗を流す。髪と身体を洗ってから、髭を剃って洗顔する。いつものように手早く済ませたけれど、ふと鏡に映る自分の剥き出しの身体を見た。ガタイばかり良くて、学生時代は陸上をやっていたから、それなりに筋肉がついた体型に少し色素の濃い肌の色。キリオ先生の書く小説に出ている俺は、一体どんな奴なんだろう。
きっと霧島ってキャラクターにベタ惚れしているんだろう、と思ったけれど…ってことは、俺が桐生さんにベタ惚れしているのが既にバレているんじゃ…。
それにしても…その話、桐生さんはいつから書いているんだ?
あれこれ考えていたら何時の間にか指先の皮膚がふやけていて、慌ててシャワーを止める。素早く浴室から上がってバスタオルで全身を拭き、腰に乾いたタオルを巻いて寝室に向かった。箪笥から下着類を引っ張り出し、着替えて頭を適当に拭く。真夜中にドライヤーを使うとおねこを起こしてしまうから、適当にタオルドライしてベッドに潜り込んだ。
このまま眠れたらいいのに、さっきまでの会話が頭の中でぐるぐる回って寝付けそうにない。本当に…俺はあの人に惚れてしまったのだと、改めて実感した。
好きだなんだと伝えはしたけれど、あの人は実際どう思っているんだろう。俺を主人公のモデルにしてるくらいなんだから、嫌いではないと思いたい。悶々としたまま、泥沼に沈むような眠気に襲われて意識が薄らいでいった。
× × ×
ぼんやりと浮上した意識の何処かで、彼の声と息遣いが聞こえる。自分は仰向けになっていて、目の前の見知った顔が少しずつ耳元に接近した。
「桐生さん、好き…」
「は?…ッ、何、を…」
「こうされたら、あなただってきもちいいでしょう?男なんだから」
「よせ、馬鹿…!あっ…」
下半身に感じる熱が、少しずつ高まるのを感じる。頭では駄目だと分かっているのに、身体がいう事を聞かなかった。自分の弱点を撫でる生温い感触に、上ずった声が漏れてしまい必死に下唇を噛み、堪える。耳朶を舐られ、可笑しくなりそうなくらいに心臓を煽られていた。再度きもちいい?と問われ、答えを返す間もなくそれはやって来る。
「美影…っ!」
まだ薄暗い寝室のベッドの上で身体が跳ねた。自分の叫ぶ声に起こされた桐生は、夢だったのかと冷静になる。びっしょりとかいた汗がこめかみを伝い、枕に落ちていった。酷い夢を見てしまい、更にあろうことか…下着とバスローブの腰の辺りが濡れている。
「……最悪だ…」
げんなりとした様子でベッドから起き上がり、下着とバスローブの濡れた箇所をティッシュで拭って洗濯機に放り込み、洗濯のスイッチを押す。ティッシュをごみ箱に放り込み、洗濯している間に汗を流そうと浴室に向かう。頭がぼんやりと重く、身体がだるい。浴室に入り熱いシャワーを頭から浴びているうち、意識が鮮明になったと同時に羞恥心に襲われる。
部下に襲われる夢を見て、興奮して、おまけに…。今までこんなことなかったのに、昨夜の電話の所為だと自分に言い聞かせる。急に意識しだした訳ではないのに、身体が火照って仕方がない。変態なのは自分の方だと、桐生は己を恥じた。最近は忙しく帰宅してすぐにベッドに倒れ込み、それどころではなかったのは言い訳でしかなく…。中学生の子供か、と深く自己嫌悪に陥る。
全身をくまなくボディーソープで包み、髪と顔を洗う。髭を剃って嫌悪感と共に、綺麗さっぱり排水溝へ流す。男だから仕方ない、は言い訳にならないのは分かっていても、そう思わざるを得なかった。
今日、会社で彼の顔をまともに見られる気がしない。どう声を掛け、仕事を進めていくのかさえも。
(…このことは、早く忘れるべきだ)
身体を洗った後、蛇口の出る向きを水に切り替えて、頭から水シャワーを被る。少しは冷静になれると思ったが、身体の表面は冷たくなってもまだ身体の芯は熱が燻っていた。浴室から出てバスタオルで身体を拭き、敏感な場所を掠めるタオル地に溜息を零す。
「っ…冷静になれ、これから仕事なんだぞ…」
深呼吸して真新しい下着とシャツに着替える。しかし出勤時間まではまだ余裕があって、二度寝しようにも目が覚めてしまった。ひとまず洗濯が終わるまでは起きていなければならず、桐生は昨夜手のつかなかった小説の執筆に取り掛かることにした。
登場人物のモデルにした本人からとりあえずの承諾は得たので、続きを書くことにしている。しかし、今後の展開は変わるかも知れない。いっそのこと、あの夢の内容を忘れないうちに書いてしまおうかとも思ったが…何だか彼に悪い気がしてしまう。
少しだけ原稿を進め、簡単な朝食を摂って身支度を整え、スーツに着替える。
洗面台の鏡に映る顔は、昨日よりも少しだけ顔色が良くなっていた。
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