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昼休みとチョコレート
『尊敬しています』の一言が全くもって言えない。
それもそうだ。学生じゃあるまいし、いい歳した社会人なのだから。それに相手は同性で、面と向かって言うには気恥しさの方が勝ってしまう。この感情を何と言うのかも分からない。けれど。
「音無さん、これを営業課に届けてください」
「はっ、はい…!」
上司の一言が耳に心地いい。いくらでも何でも言いつけて貰いたい。そんな邪な感情に蓋をして、今日も彼は書類の紙束を両腕に抱えた。
とある企業の人事部で働く彼は、三年ほど前に入社した若手社員である。学生時代に参加したインターンシップで、当時新人教育担当者だった職員に一目惚れしてしまって以来、死に物狂いで大学を卒業し晴れて新入社員となったのだが。
まさか志望動機の欄に書いた、そのままの感情を表した文で採用されるとは思わなかった。二度の面接を踏破し採用決定通知が届いた時、自分の目を疑ったものだ。
入社式にも件の憧れの人がいて、妙に緊張してしまったのを今でも憶えている。しかし彼にとっての春はそこまでであった。密かに一目惚れしていた上司は、その年の秋に結婚し退職してしまったのだ。
そんな気はしていたが、彼女の最後の笑顔がとても綺麗だった。幸せになって欲しいと拍手で送り出しながら、心の中で号泣した。
そして代わりに転属して来た今の上司兼先輩は、いかにもサラリーマンといった見た目の男だった。
桐生光、三十六歳独身。きっちりとスーツを着こなし、銀縁の眼鏡と短く切り揃えた黒髪は、いつ見ても変わり映えがない。休みの日でも仕事をしているのではと思えるような生真面目さと、プライベートを微塵も匂わせないガードの硬さが女性社員からは少し苦手だとされていた。見た目はそれなりに良いけれどと言うが、次いで出てくる言葉は「無愛想」「無口」「無表情」と見事に無のスリーカードを引いている。
そんな桐生に密かな憧れを抱いている彼は、桐生よりも十歳も年下だ。音無美影と書かれた社員証を胸ポケットにぶら提げて、いつもにこにこと笑っている。はきはきと喋り部署内のムードメーカー的存在だが、今まで浮いた話はひとつもない。
自宅で猫を飼い始めてから、休日は自宅に入り浸ってひたすら猫と一緒にいるため、そもそもの出会いがない。部署内には既婚者か、年上の女性ばかりで恋愛対象と言うよりも弟のように親しまれていた。音無自身、今は恋愛よりも仕事と猫に愛を注ぎたいと思っている。先代の上司に負けず劣らず、今の上司も仕事を片付けるのが素早く、頼んだ仕事がいつの間にか終わっていたことも何度となくあった。
「…桐生係長、なんでそんなに仕事片付けるの早いんですか…なんか秘訣でも?」
「特に」
「そんなぁ」
「無駄口叩く前に役割をこなしなさい」
「…はい」
言われる言葉はごもっともだ。ならば彼に少しでも近づけ、あわよくば勝てそうなものは何か。考えた挙句、ルックスでも知識でも身長でも勝てないと悟った音無は、誰にも言えない趣味で認めて貰えるだろうかと思案した。その結果、ひとつの答えに終着する。
自分が周りに自慢できることと言えば、履歴書に書いた志望動機や大学の論文、所謂「文字を書くこと」だった。
× × ×
昔から、何かを書くことは好きだった。
俳句、詩、物語、作詞と節操なしに書いてきたけれど、何かの公募やコンクールに応募したことは無い。それに素人作品だし、誰かの目に触れるのが怖いと思っていた。つい、昨日までは。
昼休みの休憩室、たまたまその日はソファの上で、桐生係長がうたた寝をしていた。いつも隙がないのに、珍しく頬杖をついて綺麗な顔が俯いている。ソファの前に置かれたテーブルには外された眼鏡が置かれていて、膝の上には折り畳まれた白い何か……それはよく見ると、原稿用紙だった。
「桐生さん…?」
声を掛けても目覚める様子がなくて、膝上の原稿用紙が気になり思わず視線が移動する。書き途中の綺麗な文字を追っていたら、原稿用紙の上に置かれた腕の所為で読めなくなった。
「もしかして…」
見てはいけないものを見てしまったのかも知れない、と慌てて離れた瞬間、彼の顔が急に起き上がり目と目が合った。裸眼の先輩の顔を初めて見て、暫く身動きができなくなる。
一瞬見ただけで見蕩れてしまうような、とても綺麗な眼をしていた。
「っ…な、読んだ、のか」
「あっ!いや、その…珍しいなって思って!」
「……読んだのか」
先輩の声が何時もより荒くなっていて、膝の上に置かれた手と原稿用紙が震えていた。嘘をつく訳にもいかず、ただ首を縦に動かすことしかできない。先輩はそうか、と言ってから、その原稿用紙を折り畳んで胸ポケットへ乱暴に捻じ込んだ。
「……このことは直ぐに忘れてください」
「えっ…」
「分かりましたか?」
「その代わり、ひとつ聞いてもいいですかっ…!」
思わず口走った言葉の後、我に返ってしまった、と思った。係長の表情が、今まで見たことがないくらい不機嫌そうになる。それでも続いた言葉は、俺にとって意外な返事だった。
「ひとつだけ、でしたら」
仕方ないと思ったのか、深く溜息をついて俺を見上げる。座ってる係長のワイシャツボタンが幾つか緩められていることに気づいて、何故か焦って思わず視線を逸らした。
「……桐生係長も小説、書くんですか」
「…私”も”?」
「あっ…そうなんです、俺も…実は小説書いてて…昔から書くのは好きで……」
そう、と興味なさげに係長が頷いて、何か小声で呟いた。その声は午後の始業のチャイムに掻き消されてしまって、今でも何と言ったのか碌に憶えていない。でもその瞬間、俺たちは一瞬だけ上司と部下でなくなった気がする。小説書きが趣味、そんな漠然とした上司の秘密を、俺だけが知っているのは実に背徳的だった。
「…このことは、内緒にするんで…もっと、お話していいですか…?」
「ひとつだけ、と言った筈ですが。午後の始業が始まりますので、私はこれで」
「まっ、待って…待ってください!生田さん!」
思わず口走ってしまったその名前に、係長の表情が凍り付く。
原稿用紙に書かれた、彼のペンネームらしきものだった。続く名前はよく見えなかったけれど。
「……」
「…二度と、その名で呼ばないでください」
「何でですか…俺はとても、好きですよ。憧れている作家と同じ苗字なんです」
一瞬、先輩の表情が揺らいだ気がする。それでもすぐに真顔に変わり、机の上に置いたままの眼鏡を乱暴に手にしてソファから立ち上がった。
「……定時後、ここで待っていてください」
「えっ!」
「人前で呼ばれたら、困りますので」
眼鏡を掛けた先輩は、何時もの無表情に戻る。俺の返事を待つこともなく居室へと戻る背中を見送って、何だか彼と秘密を共有したような気持ちになっていた。
× × ×
午後の業務はいつも通りに始まり、そして瞬く間に過ぎてゆく。デスクトップモニターのデジタル時計の表示は十五時。いつの間にか昼休みに起きたあの出来事が頭から離れなくなり、鼻歌まで口ずさむようになった音無を桐生が窘めた。
「…機嫌がいいのは結構ですが、まだ業務時間中ですので」
「分かってますって、ミスは気の緩みから…でしょう?」
「…分かっているなら結構です」
桐生と音無は座席が向かい合わせで、間にはパソコンのモニターが隔たり互いの顔は見えない。しかし業務用プリンターが桐生の座席と真隣で、音無がパソコンから印刷をかければ嫌でも席を立たねばならず、互いの顔を見ることになる。印刷された紙の吐き出し口に手を添えながら、音無はパソコン画面に釘付けになる桐生の横顔を、無意識に目で追っていた。微塵も疲れを感じさせない表情だが、それは眼鏡のフレームが隠してしまっているような気がしてしまう。
プリンターから印刷終了のアラームが聞こえると、ふと我に返り目の前の印刷紙を見る。トナー剥がれも、印刷カスレも見当たらない。
「…よし、完璧」
「最近、調子が良いみたいですね」
「そうですか?だってそれは…」
あなたのおかげです、とは言えなかった。
「最近、よく眠れてるからでしょうか」
上機嫌に笑う音無の表情に、やや怪訝な表情を浮かべ桐生が首を傾げる。
「…プリンター、のことですが」
「……あ、で、ですよね!」
そう言われてみればそうだった。紙詰まりや印刷掠れを頻繁に起こす、この愛しき古びたプリンターは、時々ご褒美でも貰ったのかとでも思うように機嫌よく仕事をこなす。今がちょうどその時だったのか、訝しげに鼻を鳴らす桐生に、音無は慌てて印刷された紙を片手に自分の座席に戻る。昼休みが終わってから自分の何かがおかしいと感じながらも、その違和感の正体を探る前に現実へと引き戻されてしまった。
「音無くん、あの資料できてる?」
「あっ…はい!ただいま、提出します!」
同じ部署の別の先輩から掛けられた声に勢いよく返事して、パソコンの業務フォルダを開いた。
×
定時を告げるチャイムが鳴る前に、身の回りの整理整頓を済ませパソコンの電源を切る。日毎に行っている帰宅準備はいつもより弾み、今すぐにマウスホイールを手放してスキップでもしてしまいそうだった。何よりも、憧れている人と共通の趣味を持っていることが嬉しい。書き途中の原稿を読ませて貰えたら嬉しいけれど、流石に踏み込むのが早すぎるだろうかと思案する。
「…あ、そうだ…あとアレも…」
退社時間を告げるチャイムが鳴り、オフィスフロアはざわめきが強くなる。名前を呼ばれる声が聞こえ、音無は我に返った。
「音無くん、ちょっと」
「あぁ、ハイっ…何でしょう?」
同じ部内の違うセクションに所属する役席から呼び止められ、条件反射で返事する。今が定時後だと言うことは忘れてはいない、否忘れるはずがない。
「作って貰って悪いけど、この部分修正してくれる?」
「き、今日ですか…?」
「明日で大丈夫だけど、10時には完成版が欲しいんだよね…昼前の打ち合わせで使うから」
「はい」
お疲れ様でした、と挨拶をして、退勤する上司の背中を見送る。早朝からの仕事にはならなそうで、ひとまず安心はした。しかし油断できないと感じた音無は、その書類を一瞥する。修正箇所には鉛筆で丸がついていて、指摘してくれた上司の親切さに思わず小声で唸った。
「…うーん、明日の朝イチか…間に合うかなぁ」
「どうしました?」
「それが、資料の一部に…って、桐生さん!」
「…休憩室に居なかったので、既に帰宅したのかと」
そんな訳がない、と音無は抗議しかけたが、思いとどまり小さい声で謝罪する。約束に間に合わなかったのは事実であり、彼を待たせていた申し訳なさで心が苦しくなった。
「すいません、今日作った資料に修正が必要な箇所が出てきまして…」
「…見せてください」
今しがた音無が渡された、資料の紙束をひったくるように手にして桐生が見つめる。表情が僅かに強ばったように見え、音無はやや緊張した面持ちで資料が返されるのを待った。
「この資料、元データが古いままですね…新しく作り直します」
「えっ、でも…」
「…精査できなかった私のミスですから」
「そんな、」
「明日の昼前までに必要なら、今から修正した方が安心できますので…音無さんは帰って」
「まっ、待ってください!」
何時になく強い口調で音無が言うと、フロアに居残っている他部署の社員たちの動きが止まった。辺りがシンと静まり返り、一斉に二人へと視線が集中する。音無はしまった、と焦りを表情に出しながら、声のトーンを落として懇願するように言葉を続けた。
「…す、すいません……俺も残ります。手分けして修正すれば早いですよね?元データ引用部分以外の修正なら、」
「……」
「…係長?」
「……いえ。ならば私はデータの収集をしますので、文言訂正は頼みます」
「はい!」
桐生が手にした資料をコピー機にかけて複製している間、音無は一度切ったパソコンの電源を再び入れ直す。
桐生の表情はモニターに再び隠れて分からなくなったが、少しでも彼の足を引っ張らないようにしたい。音無はパソコンの立ち上げと共に、ログイン画面のIDとパスワードのキーを叩き込んだ。
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