その男子、初心者天使

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その男子、初心者天使

 朝家から出てすぐ、駅へと向かう細い通りで「うわ〜ん」という子供の泣き声を聞いた。  仕事に向かう途中なので少し急ぎ足にヒールを鳴らしていたのだが、通学と重なるこの時間帯、子供とすれ違うことはよくある。  最近の子供は「おはようございます」なんて挨拶をするわけでもなく目も合わせない。けれどそれが『知らない人とは関わらない』という防犯意識からきているものだということは理解しているつもりだから不快に思うこともない。ただ、そんな子供が泣いている、という状況に少し異常を感じて辺りを見回した。子供の声が幼い女の子だったのも理由ではある。まさか性犯罪に、などと考えてしまう程度には、日本の治安も完璧ではない。 (ただの子供同士の喧嘩ならいいんだけど)  そんなことを考えながら道の角を曲がった。  ワイシャツの制服の、男子高校生が小学校低学年くらいの女の子の前に膝をついて屈んでいる。あ、先に見つけて対応してくれてるのか、と思ったが、彼はあろうことか少女のスカートの裾に手を伸ばし、ぴら、とめくろうとして――― 「こらーー!!」  咄嗟に、自分でも驚くような怒号が出た。  声に驚いたふたりがビクッ! としてこちらを見る。男子高校生は逃げなかった。 「ちょっと! なにしてるのよ!」  私は慌てて駆け寄り高校生の手をスカートから払い除けた。勢いがあったせいか彼はどすんと尻もちをつく。ふたりの間に入るように少女を覗き込むとびっくりして涙は引っ込んでいるようだった。 「どうしたの? 大丈夫? 変なことされてない?」 「だ、大丈夫……。でも、転んで膝が痛い」 「え?」  私は視線を下ろし少女の膝を見る。スカートの裾がかかって見えにくいから、ぴら、と軽くめくるとアスファルトで擦りむいたのか出血していた。 「わっ、痛いね。ちょっと待ってティッシュと絆創膏あるから……」  と、鞄を探ろうとして、ふと、後ろにいる高校生の存在を思い出した。  彼はスカートをめくろうとしていた。  もしかして、それって。  恐る恐る振り返ると、彼は尻もちをついたまま少女の膝の傷を見て「うわぁ……」と眉を寄せていた。その表情に邪なものはなく、ひどく心配しているのが伝わってくる。 「あの、ごめん。君もしかして傷の様子見ようとしてた?」 「え? あ、はい。転んだって言ってたから」 「本当にごめんなさい。痴漢かと思っちゃった」 「ですよね。僕もよく考えたら無神経だったなって。女の人に頼むべきでした。気にしないでください」  彼はよいしょと立ち上がり制服についた砂を叩く。怒っている雰囲気もなく、けろりとしている。 (どうしよう。この子すごくいい子だわ)  悪いことをしたな……と思いながら鞄の中からティッシュを取り出し少女の傷口に当てる。深く抉ってしまったのか、ティッシュはみるみる赤くなる。 「止血しないとね……。おうちはこの近く? あ、学校に連絡した方がいいかな」  スマートフォンを取り出して連絡先を聞こうとする。と、高校生が隣に座って「あのぉ」と話しかけてくる。 「僕、その傷治せるんで治しましょうか?」 「……ん?」 「あ、僕、天使なんです。初心者なんですけど」  色白でさっぱりとした素朴な男子。偏見だろうが運動部よりは文化部なイメージだ。その視線はとても真剣。 「天使」 「はい。でもほんとは人前でこの力使っちゃいけなくて、だから内緒にしておいて欲しいんですけど、これくらいの傷なら治せると思うんです」 「……」 (どうしよう。この子すごく変わった子だわ) 「え〜っと、天使というと、あの羽根が生えてて頭に輪っかがあって、神様の御使い……的な?」 「はい。あ、羽根は今収納してます。見せてもいいんですけどその……服脱ぐのはちょっと恥ずかしいかな」  ははっ、と照れくさそうに笑う。 「じゃあ輪っか」 「リングは僕らが持ってるものじゃなくて、神様が僕らを宙に浮かす時に出てくる……磁石みたいな? 感じなんです」 「……」  私は、どうリアクションすればいいのだろう。  笑うところ?  ふざけるなと怒るところ?  困ってしまう。 「傷、見せてもらっていいですか?」  言われて、戸惑い、不安げな少女と彼を見比べながら、そぉっとティッシュを外した。  危害を加えるようには見えない。でも何かあったらすぐ対応できるように身構える。通報も意識してスマートフォンを握りしめた。  すると彼は少女の膝にゆっくりと手をかざし、目を閉じる。ぐっ、と微かに眉間に皺を寄せたかと思うと……  ほわっ  温かな風が吹いた。ほんの一瞬だったが、確かに外気と違う何かが肌を撫でていくような風が吹いたのだ。  心地良い、と感じる温度だった。 「これでよし」  彼が手を引くと、現れた少女の膝に傷はなくなっていた。  きれいさっぱり、少しかさついた子供の膝があるだけで、傷も、血液も、跡形もない。 「お兄ちゃん、ほんとに天使なの?」  少女が驚いたように声を出した。 「うん。でも人間に混ざって暮らす練習中なんだ。バレたら怒られるから秘密にしててくれる?」  ふんわりと笑った彼の印象に、少女は不思議そうにしながらもこくんと頷く。人間、信じられないことが起こったとき、もっと慌てふためいて拒否反応をしめすものだと思っていたが、目の前の事実をわりと冷静に認識し、害がなければ「うわ〜、すごい」くらいにしか感じない。そんなことを初めて知った。これも正常性バイアスというやつなのだろうか。少女も同じらしかった。 「じゃあ僕、学校に行かなくちゃ。今日日直なんだ」 「あの、ありがとうお兄ちゃん」 「うん。もう怪我しないようにね」  そう言って、彼は道端に放置していた鞄を手に走っていった。 「……えっと、大丈夫?」 「うん」 「学校行けそう? 膝、もし変なことになったらすぐ親に話して病院行くんだよ?」 「はい。でも、秘密って言ってたね」 「まぁ……そうだね」 「パパとママに言っていいのかな」 「身体がおかしくなったら絶対言って。言って信じてもらえるかは……わからないけど……」  天使に怪我を治してもらいました。  なんて、子供の戯言としか受け取って貰えないだろう。むしろ親を不安にさせる気がする。 「うーーん。ああそうだ。私の連絡先渡しておくね。何か困ったら相談……」 「あ」  手帳を破いて電話番号を書こうとしていたら、少女が呟いて空を指さした。 「?」  指先を追って空を見上げると、彼が去っていった方角で、何かがスーッと空に昇っていく。  男子高校生だった。  頭の上に輪っかがある。  彼は項垂れ、しょんぼりと、されるがままに空に吸い込まれていく。  神様が引っ張る磁石。  あれがそうかぁ、なんて感心してしまった。 「日直なのに」  少女が言った。 「いいことしただけなのにねぇ……」  待っているのはお説教か。  そうして初心者天使は、あっという間に見えなくなった。  
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