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episode.1
そう、あたしが殺したのだ。
美優ちゃんが好きだった、神谷和也という男を。
校舎裏で。刃物を突き立てて。息絶えるまで。
どうして殺したの? 警察は壊れたテープのように何度も繰り返す。
その度に、あたしは目を閉じて犯行の時を思い返す。
「美優ちゃんを――あたしの大事な天使を守るため」
そう言いながら、頭に浮かんだ光景に自然と微笑みが零れた。
◇ ◇
美優ちゃんと初めて出会ったのは、小学六年生の時だった。
あたしが育ったのは貧乏なシングルマザーの家庭で、あたしはいつもボロみたいなおさがりを着て、櫛も通らないボサボサの頭をして、汚いお古のランドセルを背負っていた。頭の出来も悪く、背も足りない。鶏ガラのような身体からは、いつも生乾きの臭いがしていた。
当然、あたしは同級生から嫌われていたし、いじめられていた。その上先生からも見放されていた。
始業式の朝、あたしが教室に足を踏み入れると、そこかしこで弾んでいた会話が止まった。周囲の視線を感じながら自分の席に着くと、隣の席の男子が露骨に嫌そうな顔をして机を離してきた。見慣れた光景だった。
隣の男子が距離を調整し終わる前に、あたしはふと前の席を見た。
前の席には、高級そうな素材のワンピースを着た女の子が座っていた。艶のある漆黒の髪が肩甲骨あたりまで流れている。背筋はこれでもかというほどピンと伸びていて、椅子の背もたれがその用途を失っていた。
背を向けていても分かる、その子の纏う凛とした空気に、あたしは息を呑んだ。賑わいを取り戻した室内の喧騒も耳に届かないほどの衝撃だった。
たった数十センチ。手を伸ばせばすぐに触れられそうな距離にある背中。けれど、あたしにとってはその距離がとてつもなく遠く感じた。まるでガラス一枚隔てた世界のように。
あたしの気配に気付いたのか、その子がくるりと振り向いた。
その顔を見て、あたしは更に圧倒された。
長い睫毛に縁どられた大きな目、きめの細かい白い肌、スッと通った鼻筋、血色の良い唇。
まるでお伽話のお姫様のような、あるいは金持ちの子が持っている陶製の人形のような完璧な可憐さがそこにあった。
「おはよう。同じクラスになるのは初めてだね」
目の前に雷が落ちたかと思った。その子はあたしを見て嫌な顔をするどころか、気軽に話し掛けて来たのだ。
「私は姉川美優。あなたの名前はなんていうの?」
その子は――美優ちゃんは、小鳥のさえずりのような澄んだ声であたしに問い掛けた。頭の動きに合わせて肩から滑り落ちた黒髪に、蛍光灯の光がキラキラと反射して眩しい。あたしは思わず目を細めた。
「名前、教えてくれる?」
まるで酸素を求める金魚のようにパクパクと口を動かすだけのあたしを、美優ちゃんはその大きな目でじっと見た。あたしはどもりながら不細工な声でどうにか名乗った。あまりにも時間が掛かったので、途中で興味を失われないか恐れたが、美優ちゃんは最後まで待ってくれていた。
「今日からよろしくね」
美優ちゃんはあたしの自己紹介を聞き届けると、そう言って微笑んだ。
その日は一日中、つるりとした生地が皺一つなく張った背中をうっとりと眺めた。その背中に、美優ちゃんと交わしたほんの僅かな会話を何度も反芻する。
あたしのことを、汚いとも臭いとも言わずに話してくれた子は初めだった。あたしはそのことが舞い上がるほど嬉しかった。視界の端、隣の男子が必死にあたしを嫌う素振りを見せて他の子たちの同情を誘おうとしていることすら、どうでも良くなるほどに。
あたしは美優ちゃんの背中に、幻覚を見た。
それは純白の、天使の羽。
柔らかくて真っ白い羽が生えている美優ちゃんは、お姫様でもなく、お人形でもなく、天使だったのだと、心から納得した。
ようやくあたしの祈りが聞き届けられ、天使があたしを助けに来てくれたのだと。
その頃あたしは、天使というものの存在を信じていた。紙が擦り切れるほど繰り返し読んだ物語によく出てきたからだ。
教科書以外読んだことがないあたしが唯一持っていたのが、ペラペラの紙でできた小冊子。それは、通学路の途中で時々配布されている、怪しげな新興宗教のフリーペーパーだった。
宗教というものが何なのか、その当時はそれすら理解していなかった。だけど、その小冊子を持って公園に行くと、そこでいつも勧誘活動をしているおばさんが、とても喜んでくれたのだ。
おばさんは毎週土曜日の決まった時間に、公園のベンチで冊子と同じ内容の紙芝居を読み聞かせてくれた。話を最後まで聞くと、ご褒美にお菓子をたくさんもらえた。学校のない日は、昼ご飯にありつけない。駄菓子を買う小銭もなかったあたしは、簡単に腹を満たす方法としてそのおばさんを利用していた。
紙芝居には神の使いとして天使が登場した。
厚紙に描かれた西洋画風の天使たちは、白い服を着て、白い大きな翼を持ち、空を自由に飛んでいた。
天使たちは神の教えを人々に広めるために、天から舞い降りて来たのだという。そして、神の教えを説くことで、迷い苦しむ人々を救済する手伝いをするのだと、おばさんは教えてくれた。
あたしはいつか自分の元にも天使が舞い降りて来るのだと信じるようになった。
おばさんは、苦しくて辛い思いをしている人こそ、神に救われるべきであり、そういう人のところには必ず天使がやって来るのだと言っていた。だからあたしは毎日、夜寝る前に空に向かって祈った。
いつかあたしの元にも、あたしだけの天使が来ますように。
学校でいじめられている時も、家で母親に怒鳴られている時も、祈って、祈って、祈った。
その祈りがついに神に届いて、純白の天使があたしの元に舞い降りた。
それが、美優ちゃんだったのだ。
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