天使の足痕

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 空が白みはじめたころ。  静かな雪景色がほんのり青白く光っている。    ──ゆき、きれい。    窓の外を見た唯は、真っ白な地面に足痕(あしあと)をつけたくて、長靴を履いて家を出た。  両親にも兄にも気づかれないよう、そうっと。    まだ仄暗(ほのぐら)い早朝で、道路には誰もいない。車も通らない。  唯が一番乗りだった。  ──きゅっきゅっ。  真っさらな雪を踏むたび、不思議な音が鳴る。  夢中になりながら進んでいくと、道の反対側で大きな音がした。    ──ざざざ。  唯の肩がびくっと跳ねた。丸い大きな瞳が、音のした方向を探してきょろきょろと動く。  淡く光る(かたまり)。  よく見ると、それは白い服に身を包み、金髪の後頭部を空に向けて、うつ伏せに倒れているのだった。    辺りの雪の上には、ひらひらと羽根が舞い降りている。  それは薄明かりの中で(かす)かに輝き、まるで夢から現れたかのような不思議な美しさを(まと)っていた。   「てんし、かも」    唯はサンタクロースを信じていない。けれど天使は、ちょっとだけ信じている。  雲の上には、羽の生えた者たちの住む絵本のような国があるのかもしれない。    唯は憧れの天使に吸い寄せられるように、二三歩近づく。  すると背中から血が出ているのが、薄暗い中でもぼんやりと見えた。じわじわと雪に広がっていく。  天使は動かない。  唯の小さな顔は青ざめた。    ──はね、もげちゃった?  羽を怪我して雲から落っこちてきたのかもしれない。元通りに治れば、きっと帰れるはずだ。  唯は、頭の中で空へと昇っていく天使の姿を思い描いた。   「あのね、まってて」    天使を助けたいが血は恐ろしい。  唯は来た道を急いで戻り、兄を揺り起こした。   「おにいちゃん、はね、なおして」 「はね?」 「きて。たすけて」    兄の類は物怖じしない性格だ。  要領を得ないまま妹に連れて来られたが、冷静に状況を把握した。  朝が訪れ、柔らかな陽射しが差し込む中、それは変わらず動かない。    背中の衣服と皮膚が裂けて出血している。けれど他に(きず)は見当たらない。息も確かだ。     道沿いには三メートル程の壁が続き、その内側には高い木々に囲まれた工場のような建物がある。    ──建物か、木か、(いず)れかから落ちたのだろう。     背丈から考えて十五、六歳か。肩にかかる染めた金髪。男物の白いダウンジャケットが枝に引き裂かれ、中身の羽根が散乱したようだ。  妹の目には天使に見えるかもしれないが、類からすれば単なる不審者だ。こんな早朝に一体何をしていたのか。  ひょっとすると泥棒かもしれない。   「おにいちゃん、てんし、たすけて」    類は苦笑した。  いつもは自分を呼び捨てにする癖に、頼みごとがあると、お兄ちゃん、だ。   「もしもし?」  声を掛けてみたが応えはない。けれど、彼が少し顔を上げたので目が合った。困ったような表情をしている。  類は、その彼の様子から、喋って妹の夢を壊すことを危惧しているのだと悟った。  悪い人ではなさそうだ。   「手当てをするから来て。家、すぐそこだから」  促して三人で雪道を歩く。唯は右手は兄、左手は天使に掴まってご機嫌だ。  離れに作られている子供部屋へ、母屋の両親を起こさないよう、こっそり庭から廻った。    彼が裂けた服を脱ぐと、思ったより深い疵が(あら)わになった。  怯える唯に「内緒でタオルを沢山持ってきて」と頼むと、真剣な顔で頷いた。忍び足で母屋へと向かって行く。    その後ろ姿を見送った類が「もう良いよ」と振り返ると、彼はやっと口を開いた。 「天使ってどうすりゃ良いの」  二人して噴き出す。  寒さと痛みの中、妹の夢を護ってくれるなんて、それこそ天使のような慈愛に溢れた行動なのに、本人に自覚がないのも、また面白い。 「ラテン語で讃美歌とか歌うんじゃない?」  類の軽口に「そりゃ無理だって」と人懐っこくまた笑った。    背中の疵を洗って止血しながら類が訊く。 「あそこは工場だよね? 工場の人?」 「そう。印刷工場。あの壁際の(だけ)ぇ建物は社員寮。そっから木を伝って逃げようとしたら、この(ざま)よ」  彼は消毒薬が滲みるのか、顔を歪めて事情を語った。  工場では、今年に入って既に三人が亡くなっていること。その全員が地下の部署に配置された者だということ。  そして昨日、自分もそこに異動になったこと。  彼はそこで一旦、言葉を切った。脱いでそのままにしていたジャケットを手繰り寄せる。 「そしたら古参の爺ちゃんが、若い(もん)は逃げろって。これ持たされて──」  ポケットを何やら探っている彼に、類が訊く。   「地下は過酷なの? 事故が起こったりするような」 「いや。ただの軽作業。機械の洗浄係だな。でも皆、同じ病気になって段々具合が悪くなる。そんで最期は自宅か病院で──だから事故じゃない」    彼はビニール片を引っ張り出しながら「破れてねぇや。良かった」と呟いた。  それは黄色地に黒で印字されている。『danger』や『risk』という不穏な単語が目を引いた。    「それ、何?」 「インク用洗浄液のラベル。地下で使ってた。爺ちゃんが持っていけってさ──」 「見せて」  類が言うと、彼は「俺、英語めっちゃ苦手」と肩をすくめて、気軽にラベルを差し出した。    携帯で調べても輸入品らしく、日本語で書かれた情報は見当たらない。  英字の製品サイトを翻訳にかけると、かなり躰に悪い成分が含まれていることが読み取れた。  換気が必須で取り扱いには細心の注意を──。  これを地下で毎日のように使っているのなら相当まずい。 「これを持たせてくれた──その、お爺さんは、地下室で作業をしているの」 「そう。もうどこも雇ってくれねぇから自分はここで良いって」    思ったより深刻な話だというのに、本人は知らずにきょとんとしている。  彼が、自分だけ逃げる引け目を感じないよう、その老人はわざと曖昧な説明にしたのかもしれない。  それなら類としては、横から口を出すのは(はばか)られた。   「このラベルどうするの」 「爺ちゃんの元同僚が入院しているから渡してくれって。病院は聞いてっから」    なるほど。  改善なり訴訟なりを考えているのだろう。大人たちは、ちゃんと考えて動いているのだ。  類は少し安心した──と同時に妹が心配になった。   「ちょっと、妹が遅いから見てくる」  彼は掌をひらひらさせて笑顔で見送ってくれた。    ──それが姿を見た最後だった。    前が見えない程のタオルを抱えた妹を連れて戻ってくると、子供部屋はもぬけの殻だった。  雪の上には、彼の足痕もない。   「とんでっちゃった?」 「──そう、かも」    そのまま工場横の倒れていた歩道を見に行くと、血はもとより羽根のひとつすらもない。  ただ、雪だけがそこに静かに広がっている。   「はね、きえた」 「──そう、だね」  不思議なことが立て続けに起こり、唯の瞳はくるくると感情を変えた。  天使に会えたのはうれしい。だけど、すぐに彼が行ってしまったのは寂しい。 「もう、いないね」  類は、彼が逃げてきた理由に思いを巡らせる。病院に向かったのなら良いが、連れ戻されていたら──。  子供部屋には鍵もなく、背後を気にする余裕もなかった。  類は不安を掻き消すように妹に笑いかけた。 「羽が治って、雲の上に帰ったんだろ」  妹は空に手をかざした。  「ばいばい」  朝まで雪が降っていたとは思えない真っ青な快晴だった。  了
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