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デスク1つと向かい合うようにイスが2つある小さな部屋で、新人が絶望的な顔で私が渡したプリントを眺めていた。虚ろな目をした彼女に対し、私はにこやかな笑顔を保ったまま言った。
「念のためもう一度言おうか。自信を持って話せるようになるには練習が一番。淀みなく話せるようになるまで反復すればいいんだ。なに、簡単なことさ。そこに書いてあるのはいつものフレーズだろう?その営業トークを1万回繰り返すだけだよ。ここにカウンターがあるから1回終わるごとに押そう。先輩たちはみんなやってきたことだから大丈夫。私もここでしっかり見ててあげるから。さあ、始めようか。立派な営業になるためにガンバロウ!」
彼女は諦めたようにプリントを握りしめてセリフを読み上げ始めた。私はノートパソコンを持ち込んで自分の仕事を行いつつ、定期的に彼女に目線を向けて延々と同じフレーズを繰り返す姿を見守る。カウンターは通行量を調べる時に使われているようなアナログ式のもので、一通り話し終わるたびにカチ、カチ、と無機質な音が響いた。
これは成長に必要なステップなのだ。耐えきれず逃げた者たちも数多くいたが、生き残った者は今まさにチームで活躍してる。おかげで私のチームは全国のセンターの中でもトップクラスの成績を誇っており、この教育方法が正しい証拠でもある。会社もそんな私のやり方を支持してくれており、人を育てることに長けたセンターとして賞をもらったこともあるくらいだ。
「わたくしが今からごあな、ごあ、シニアの・・」
「ああごめん。言ってなかったけど、間違えたらゼロからやり直しなんだ。」
私は彼女が握っていたカウンターを奪って数字をリセットした。
彼女の手元に戻してやるとゼロになったカウンターを茫然と見つめて動かないでいたが、私がデスク越しに身を乗り出して「さあやろう」と促すと、再びカウンターを握って話し始めた。
「わたくしが・・・いまなら、今から・・」
「間違えたね。ゼロだ。大丈夫、何回だってやり直せるから根気よくやろう。」
「わたくしが今からご案内するのは、シニアにおすすめのコマース、eコマース株・・」
「惜しい!もう少しで3ケタいくとこだったのにね。でも繰り返すほど良くなってきてるよ。やり直しだ。」
彼女がどもったり言い間違えるたびに私はスカウターの数字をリセットした。
何度かリセットしたせいでその日は100回に至ることも無く、深夜になってビルの警備員が「そろそろビルを締めるので」と声をかけてきたところで区切りをつけることになった。
「明日は朝の5時から始めよう。ん?電車がない?それなら会社の近くのビジネスホテルを紹介しよう。大丈夫、経費は会社が出すから。私も愛用してるんだ。うん、もちろん私もその時間に出社する。1万回終わるまでとことん付き合うよ!そうだ、先輩たちもカウンターをホテルに持ち込んで寝る間も惜しんでやってたね。君もほら、持っていって続きをやりなよ。」
彼女は取り憑かれたようにブツブツと営業トークを繰り返しながら、カウンターを握ってオフィスを出ていった。
あの様子ならベッドの中でも、夢の中でもやり続けるだろう。
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