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1.亀先生の孫、交渉する
「えぇ、でもおじい様。私は看護婦さんになると決めたのよ。じゃあここでお仕事をお手伝いしながら教わったほうがずっと早いと思うわ。それにいつもみな忙しい忙しいって言うでしょう。そりゃあ最初は私がいたら邪魔でしょうけど、これでもお母様に手先だけは器用ねって褒められるのよ。すぐに猫よりはずっと役に立つと思うわ。それにさらしを洗ったり、干したりするのなら今だってりっぱにやって見せるわよ。ぞうきんを絞るのがうまいってお父様にもいつも言われていたんだから」
光子はそこまですらすらと述べて、うっかり父のことを口に出してしまったことに気づきはっとして黙り込んだ。幼いながら前の家を出てからは母の前で父の話題を出さないように気をつけていたつもりだった。しかし目の前の祖父は光子の父のことに関しては気にしている様子はなかった。
「だがお前、そういうわけにもいかんだろう。子供は学校に行くのが仕事なんだ。義務なんだよ。それにここにはお前のような小さな子はいないし、近所の子はみな学校に行っているじゃないか。それじゃあいかにも寂しいだろう? 学校に行けばいくらでも友達ができる。親の都合で学校を移らなければならなかったのは気の毒に思うが、お前は思ったよりは社交的なようだし、きっと大丈夫だろう」
仕事が終わり、浴衣姿でくつろいだ様子の祖父は肘置きに体を預け、眉を下げて孫娘を見ている。そしてその正面に小さなおかっぱ頭の光子が挑むような眼をして祖父の前に座っている。
「そういう話じゃないの。お友達なんて特にほしいと思わないわ。だってみんな幼稚なんだもの。お歌をみんなで歌うなんてもうこりごりよ。かなりやーなんて」
光子が覚えている歌詞の端っこを吟ずると、祖父は思わずふき出した。光子は祖父を笑わせたことに気をよくして首をぐっと伸ばした。
「おもしろいやつだ。でも学校は友達を作るためだけに行くんじゃないし、まして歌を歌うのが本業のわけもない。人間はな、いろんなことを勉強せねばならんのだ。そりゃあ看護婦になるのは看護婦の仕事を覚えなければならない。わしのように医者になるには医者の仕事を覚えなければならない。奧君みたいに薬剤師になるには薬のことを覚えなければならないし、産婆さんになるには出産のことを学ばなければならない。でもそれだけじゃあだめだ」
「あら、どうしていけないの」
「そりゃあ腹痛のときにはこう、頭痛の時にはこうする、と全部覚えれば明日からでも医者はできるだろう。でもそれだけじゃありっぱな医者とは言えない」
「どうすればりっぱなお医者様になれるの?」
「それを学校で勉強するんだ」
光子は口を突き出した。
「なんだか騙されたような気分よ」
祖父は傾けた体を揺らして笑った。
「だましてなんかないよ。実はな、わしもまだわからないんだ。お光が学校に行ってわかったら、おじい様に教えておくれ」
光子は子供ながらに言い負かされたと判断して、ぺこりと頭を下げて祖父の部屋をそそくさと出ていった。
学校。また学校に行かなければならないのか。もしかしたら金沢に来たことで逃れることができるかもしれないという光子の希望は打ち砕かれた。
東京で父と向こうの祖父母と暮らしていたときは、家からほど近い尋常小学校に通っていたが、学校に通っていて良かったと思うことはさほどなかった。損ばかりだったと言ってもよい。
隣に住んでいた同い年の咲ちゃんは一つ上のお姉さんと通っていたが、一人っ子の光子は学校までの半里ほどの道をいつも一人で行かなければならなかった。陽の照り付ける日も雨でぬかるんだ道に下駄がとられる日も、一人同じ場所へともくもくと通わなければいけないというのはなんと旧時代的なのだろうといつも考えていた。
そうして着いた先での、詩の朗読だの漢詩の暗記だの唱歌の合唱などというものにも全く興味は持たれなかった。本を読むのなら一人静かな部屋で行う方がよほどいい。もちろんそうした光子の考えを父や母に言ってみたことはあるが、母はため息をついてにらむばかり、父は笑って取り合ってはくれなかった。
だから、言い負かされたとはいえ、忙しい祖父が遮ることなく光子の話を聞いてくれたことは、うれしいことだった。
祖父は名を亀戸大二郎といい、もとは比較的大きな酒問屋の次男坊であったらしい。勉学のほうはぱっとしないが、優し気な顔立ちと如才なさを持つ兄が酒問屋を継ぎ、顔の形も口ぶりも四角張った次男は、勉学が立ったために医者となった。そうやって世の中うまくいくときはうまくいくし、うまくいかないときは端っからうまくいかない、私の結婚はそもそも最初からみそがついて……といつか母が自らの愚痴をついでにこぼしながら教えてくれた。
話はそれるが、光子はそうやって娘相手に愚痴をこぼす母悦子が好きだった。常の母は自分が娘をきちんと厳しく育てねばならぬと肩を怒らせているところがあったが、そうやって夜の帳の中、灯の近くで針仕事をしながら愚痴をこぼす母は、かわいく見えた。そしてその相手となれていることが、母と対等になれたようで、うれしかった。
祖父は東京の公立の病院で働いたあと、妻と子を伴って三十代も終盤にさしかかったころに、実家のあるここ金沢で診療所を開いた。そして三十年近く、近隣の住民に亀先生と慕われながら働いている。
祖父の部屋を逃げるように出てきた光子は続きの間にちょうど入ってきた考三郎に見つかった。普段は遊び相手となってくれる母の年の離れた弟も、このときはあまり顔を見られたくない相手であった。
「またおじい様に喧嘩をふっかけたのか? ほんとうに亀戸家の女はおそろしいや」
いつも通りのからかうような調子にむっとする。
「嫌な言い方するのね。そんな野蛮なことはしません。こうしょう、してたのよ」
「ははっ、そりゃあいいや。どんどん交渉してくれ。次いでに僕の駄賃の値上げも交渉してくれ。それで何を〝こうしょう〟してたんだ?」
むっとした顔のまま、孝三郎のにやけた顔を見つめる。外から帰ったばかりなのか、まだ学生服を着たままだ。
「孝さんにそんなこと関係ないでしょう。それに、孝さんこそおじい様に怒られに来たんじゃないの? そんなに急いでやってきて」
孝三郎は再びふき出す様に笑った。
「光坊にはかなわないな。でも君こそ人聞きの悪い言い方をしないでくれたまえよ。怒られにきたんじゃなくて、ご機嫌を伺いにきたのさ。ご機嫌麗しゅう閣下殿、ってね」
乾いた笑い声を残しながら孝三郎は祖父の部屋へと入っていった。老いた父のことなど軽んじている様子を見せながら、部屋に入る前にはきちんと襟と髪を直している孝三郎がおかしかった。
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