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湯上りのいつもよりつるりとした顔に黛と紅を引き直した悦子と由美子とともに、光子らは火照った体を冷ますように、海岸と砂丘を望む屋外のテーブルを囲んでいる。給仕の男性が運んでくれた熱いお茶と、頬を冷ますひんやりとした風が心地よい。まだ陽は残っているが、陽は大分赤みを帯び、あたりをやわらかな色で満たしている。
光子らは今日の話に盛り上がり、その様子を由美子はほほえみながら見つめ、悦子が黒いアカシア並木を眺めている。ふと小さな鼻歌が聞こえ光子がそっと目だけを由美子へ移すと、由美子はほとんど唇を動かすことなく遠くに目をやりながら小さな歌をうたっていた。
ねんねのお守りはどこいった 山々越えて里いった 里の土産に何もろた でんでん太鼓に笙のふえ 起き上がり小法師に犬張子
誰かが光子らのテーブルに近づいてきた気配がした。給仕がお茶のお替りを注ぎに来たのかと思い光子が振り返ると、そこにはレースのないブラウスに薄いこげ茶色のウールのスカートをはき、それと対のジャケットを羽織ったみきが立っていた。髪は簡単に後ろでくるりと束ねられ、なんの飾りもなく、口紅もおとなしい色であるため、一瞬光子はそれがみきだと分からなかった。
驚く光子とすずに軽く目配せをすると、みきはするりとテーブルの一つ開いていたイスに腰かけた。悦子は特に驚く様子もない。みきが来ることを知っていたのだろう。
「こんにちは由美子さん。はじめまして。小島みきと申します。突然お邪魔して申し訳ありません」
由美子は困惑した目をちらりと光子に向けた。
「大丈夫。私も知っている人よ」
「きれいですね。砂丘に夕日が映えて、一番きれいな時間帯です。なにもかもが染められて、輪郭が曖昧になっていく。昼でも夜でもないこの時間帯が私は一番好きです」
みきは遠く海岸のその向こうを見ている。悦子が隣に座る由美子の顔をそっと覗き込むようにしてその肩にそっと手を置いた。
「私の母はとても厳しい人で、幼いころから家事の仕方や挨拶の仕方、手紙の書き方なんかもそれはそれは事細かくしつけられて、何度家を出てやろうかと思ったくらいだったけれど、不思議ね。気が付いたら娘に同じことをして、あんなに出ていきたかった家に戻ってきて、娘だけじゃ飽き足らずあなたにも同じことをしている。本当にうるさいでしょう。ごめんなさいね」
冗談めかして言う悦子に、由美子は小さく首を振る。
「でもね、あのときいやいや教えられた様々が、今私を作っている。ちょっとしたときに思い出して、役に立ったり、立たなかったり、何かを考える礎になっている。私が教えたことは、ほんのごくごくわずかだけれど、由美子さんの一部になって、いつかどこかであなたをきっと助けることができるって、私は思ってる。そして由美子さんが光子に教えてくれたことは、この先彼女の一部になってこの子を助けるでしょう。それって血の繋がりと勝るとも劣らない強いつながりだと思うのよ。ふふ。前置きが長くなってしまったわ。ただ一つ言いたいことは、もう由美子さんは、由美子さんがどう思おうとも、私たち親子と強い繋がりで繋がっている、っていうことよ。もう家族なのよ。遠慮はいらないわ。私たちはあなたの幸せだけを願っている」
途中から首をもたげて静かに悦子の言葉を聞いていた由美子は、こらえきれず溢れた涙を袂から出したハンカチで押えている。
「母として謝るわ。ごめんなさいね。この子たち、あなたのことが心配で、いろいろ調べていたみたいなの。本当に誰に似たのかおせっかいで」
光子が顔を上げると、悦子は暖かな目で光子を見ていた。
「そしてそちらのみきさんが、相談に乗ってくれていたの。探偵をされている方で、それに法律のお仕事もされていて、とても詳しいのよ。私の父も、きっと彼女なら由美子さんの力になってくれるだろうって、言っていたわ」
初めて聞く話に、光子はぎょっとしたがじっと黙っていた。祖父が考えたことなのか、母が考えたことか。もしかしたらみきさんが母に探偵だと名乗ったのだろうか。
「だから」
ひときわ冷たい風が、悦子のおくれ毛を散らし、悦子はそっとそれを撫でつけた。
「だから、話してほしいの。あの日何があったのか。そして、由美子さん、あなたはどうしたいのか。私たちはあなたの力になれる。お願い。頼って」
しばらく由美子はじっと涙を抑えるばかりであったが、スンと鼻をならし、顔をあげた。その顔には強い光が宿っていた。
「ほんとうに、ほんとうにありがとうございます。いつか、話さなければと思って、でもご迷惑をおかけしたくなくて、何度ももう一度川に飛び込んで死んでしまおうと思いながら、それでも光子さんや悦子さんとの生活がうれしくて、楽しくて、ずるずると生きながらえてしまいました。
探偵のかたのお調べで、どこまでご存じかわかりませんが、私は絹物問屋の主人の八木という男のやっかいになっていた身でした。子供も一人、男の子で礼太郎という名で、数えで三つになります。元々廓にいた人間ですので、妾として三味線などを教えながら暮らしていたのですが、最近他に新しい女性を見つけたようで、月々のお金をしぶるようになりまして、息子のこともありますから、お金のことでもめることが多くなっておりましたところ、息子を金で買い取るようなことを言いだしました。もちろんあの男が言い出せば私などにどうすることもできないことはわかっていたのですが、私は礼太郎を手元に置いておきたいと訴えると、あの日、川岸に呼び出されまして、突然首の後ろのあたりを強く打たれて、気がつきましたら川に落ちていました。落ちてすぐは意識がはっきりとしていましたので、なんとか川岸の木の根にしがみついて、水から上がることができましたが、そのあと意識が朦朧としてきまして、どこかに身を隠さなければとなんとなく思いながら、おそらく無意識で倒れていた場所まで歩き、そこで力尽きたのです。はっきりと私を川に突き飛ばした男を見たわけではないのですが、八木本人ではなかったように思います。もう少し小柄でがっしりとした体型であったと思います。
せっかく助けていただいた命なのですが、私は胃の病気で、おそらくそう長いことは生きられません。八木は礼太郎を自分の店の跡継ぎにするつもりでしたので、妾の子としてこの先、残りの短い私といるよりも、大店の跡継ぎになるほうがいいに決まっています。ですから、このままそっと身を隠しているつもりでいました」
みな苦しい顔で、じっと由美子の話を聞いている。陽が沈み、当たりに夜が忍び込んでくる。
「でも」
ハンカチを握りしめた、その白い手にも夜がそっと手をかける。
「でも、憎い。本当はあいつが憎い。あの男に黒い噂があるのは知っていました。きっと私の他にもあいつのせいで不幸になったり死んでしまった人がたくさんいます。許せない。本当は、そんな男に礼太郎を任せたくはなかった。礼太郎に、礼太郎に会いたい……」
声をあげて由美子は泣き出した。しばらく静かな空間に由美子の鳴き声だけが響き、それが徐々に小さくなると、みきが由美子の握りしめた手に、手を置いた。
「由美子さん。大丈夫です。礼太郎君は元気でいます。八木に罪を償わせ、そして礼太郎君を取り戻しましょう」
由美子は顔を上げて、みきを見た。赤くなった目が大きく開いている。
「噂の通り、八木はあなただけでなく、多くの女性を手にかけています。昔、八木がまだ問屋を取り仕切っていたころ、一人の妾の女性を捨てようとしたことがありました。その女性は八木のひどい言葉に心を病んで、半狂乱の状態で店を訪れ、店のものを壊したりなどして騒ぎを起こしたことがあったそうです。それ以来、八木は縁を切りたい女性がいると、その女性を手にかけるようになりました。数は私がはっきりと確認できただけでも、四人。もともと身寄りのない女性ばかりで、周囲を金や力で抱き込んでいたために、そのどれも事故死で片付けられています」
「そんなに多くの人が……そんなにも、八木は女が怖かったのでしょうか。あいつなら妾なんて捨ててしまえば済むでしょうに。なんで」
えぇ、とみきはうなずく。
「それが私にも疑問でした。そんな金や労力を使ってまで、なぜ幾人もの女性に手をかけたのか」
話の先を気にかけるように、悦子は光子の顔を見たが、ただ黙って視線をみきに戻した。ろうそくを吹き消すように、最後の一滴の残陽が、すっと消えた。
「あいつは、八木は言っていたようです。たとえ捨てたものでも、自分のものを他人に使われるのは癪じゃないか、と」
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