11.亀先生の孫、復讐する

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11.亀先生の孫、復讐する

 かつて滝の白糸が、生き人形に電気手品、天狗の骸骨、刃渡りのひしめく河原でその優美な水芸を披露していた浅野川の河原は、今も昼間は露店でにぎわい、そして夜にはその柔らかな水の流れに乗せて、この世ならぬものまでが運ばれてくるという。  いかに銀座通りが電気ランプで煌々と照らされようと、金沢の夜にはまだ濃く深く凝り固まった夜が、そこにもここにも、うずくまって、じっと訪れる人を飲み込もうと待っている。  八木憲三は最近の贔屓の芸者と別れ、暗がり坂を上る。その足元は、酔いでおぼつかないものの、普段より慣れた道に、迷いもなく歩は進む。そして今しがた別れたばかりの女を思う。  触れば跳ね返るような皮膚をした白く丸いあどけない頬に、小さなえくぼの浮かぶ、それでいて目元はいい年増のような妖艶さを持つ、なかなかお目にかかれない器量を持った女である。人気のためか芸はおぼつかないが、そんなものはどうでもよい。最近の芸者は妙に芸を誇りに思うような節があるが、そんなものは庭の隅の南天の木のように、あれば時々目を楽しませる、所詮それだけのものである。 杏香を失って時にそれを悔いるような惜しい気持ちがしていたが、あの女を手に入れることができれば、その気持ちも晴れるであろう。ただ最近の女に特有の気の強さだけが気に障る。都会では新しい女だのなんだのうるさいが、それは金に余裕のあるとうの立った女のなぐさみに過ぎない。自分が自分がと表立つような業の深い女になにができるものか。 昔の女はよかった。どんなに家が貧しかろうが、夫の酒代のために自分が食わずにやりくりしたものだ。もちろん夫の女遊びに口を出すなんてことは言語道断だ。その点うちのはうるさいことの言わないさすが江戸生まれの女である。 その点あの女ときたら、まだしょんべん臭いような若さで、時に男を見下すような目をする。また女の起こす面倒を思うとため息がでるが、まぁ、その時はまた始末するだけだ。今はあの針でつつけば破裂しそうな全身にみなぎる若さを手に入れたい。 坂もあと数段で上りきるというその時、ふと感じる気配に顔を上げると、だらりと帯を結ったお召着物の女が目に入った。立ち止まり息を整えつつ目を凝らすと、つぶし島田に結った頭をぐっと前に突き出すように、うなだれている。 一瞬突然のことにぎくりとしたものの、こんな時間に一人で外にいる女などろくなものでもないだろうと思い、その横をさっと通り過ぎようと歩を進めようとしたところ、その女の真っ黒な着物が、水に濡れているためにわずかな光をも吸収して真っ黒に見えていることに気がついた。 よく見ると着物から垂れたしずくで、女の足元だけ雨の日のように黒くじっとりと濡れている。 今日は珍しく朝からの晴天である。折檻でも受けて水を浴びせられたか、頭のおかしい女か。どちらにしろ関わらないほうが身のためである。もう一度足を進めようとすると、急に、 「お忘れですか」  女の声が、響いた。不思議なことにその声はか細く震えていたが、しっかりと八木の耳に届いた。目の前の女が発したことは確かである。やはり頭がおかしいのか。もう一歩足を進める。 「八木様。また私を置いていきなさる」  今度こそぎくりと足を止めた。鼓動が急に早くなる。酒で霞のかかっていた頭が徐々にしっかりと回り始める。どこの置屋の女だ。最近足が遠のいたことをなじるためにこんないたずらをしているのだろうか。 「誰だ。こんなことをして。警官を呼ぶぞ」 「警官なんてもの、何のお役に立つでしょう。私のことも見つけてくださらないで。海で魚につつかれて、あの時は寒うございました。漁師が見つけてくれたのでございますよ。醜く膨れ上がってしまった私を」  ぞっと血の気の降りる音が耳の奥で聞こえた。蓮乃。かつて囲っていた芸者の、その白い首筋を思い出す。首の長い、柳のような体の線を持った女であった。聞き分けのいいおとなしい女だと思っていたのに、裏切られ恥をかかされた。番頭に言いつけて始末させ、確かにあいつは死んだ。この目でその青く膨らんだ顔を見たのだ。人前では涙を流し、りっぱな墓まで立ててやった。いたずらだ。いたずらに決まっている。 「こんな質の悪いことをして、ただで済むと思っているのか。お前は誰だ」  怒鳴るように言うと、女は泣いているような、笑っているような不思議な声を出したが、やはりうなだれたままこちらを向こうとはしない。 「あぁ、嘆かわしい。あんなにかわいがってくれましたのに、名前もお忘れですか」  女はゆっくりとした動作で頭を上げ、その長く白い首をまっすぐに伸ばした。髪から滴った水滴が、そこをゆっくりと落ちていく。八木がその雫から目が離せないまま固まっていると、女はゆっくりと振り返った。 「蓮乃でございますよ」  振り向いた女の顔は半分が大きく膨れ上がり、目玉が今にも落ちそうに飛び出している。 「うわぁっ」  八木は思わず尻もちをつき、じりじりと後ずさる。女はずりっ、ずりっとすり足で八木に近づく。八木はやっとのことで立ち上がると、転げ落ちるように上ってきた坂を下りて行った。
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