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ただ家にはいられないという思いだけで飛び出して来たものの、どこにしばらく身を隠そうか八木は悩んでいた。多くの人が寝静まった時間、電灯も軒行灯も少ない通りは、路地から急になにかが出てきそうで、思わず歩を進める。
杏香が生きていればそこへ向かったであろうが、今は家を持たせている女はいない。どこか宿を探すか。
「あの、もし、八木様では?」
急に後ろから来た人力が追い越し、少しして止まると、そこから覗いた影が声を発した。聞いたことのある美しい女の声である。
「あ? あぁ、八木だが」
恐る恐る答える。
「あぁ、やっぱり。わたくしです。マリコです」
顔はいまだはっきりとしないが、柳博文の妻、真理子である。食事会のあと兼六園や卯辰山など金沢市内を案内した以来である。聡明で美しく、そして奔放な女だ。日本生まれだと言っていたから、どうせ芸者の出で、そこで出会った中国人の金持ちを掴んだのだろう。うまいことやったものだ。かしこい女は嫌いじゃない。
「あぁ、真理子さんでしたか。これはこれはこんなところで」
「どこかにお向かいですか? よければご一緒に」
八木は真理子の顔がはっきりと見えるところまで近づいた。
「いえね、お恥ずかしい限りなんですが、家のものと揉めましてね、これから宿を探すところなんですよ」
八木はおどけたように懐手にした手を寒そうに動かして見せた。
「あら、そうなんですの。では、もしよろしければ、私たちの泊まっているホテルはいかがですか? 主人が三部屋分とってあったのですが、ご存じの通り主人の到着が遅れているので、一部屋余っておりますの。部屋の料金は前払いしてありますから、わたくしたちも泊まっていただいたほうがありがたいんですのよ。それに、八木様がお傍にいてくだすったら、わたくしも安心できますわ」
例の妖艶な、体にまとわりつくような視線で、真理子は八木を見た。八木はこわばっていた顔がほどけてくるのを感じた。
「それは、願ってもいないことですが、いいんですか? ご主人が着かれたらお困りになるでしょう」
「いいえ、今日連絡がございまして、またこちらに来るのが伸びそうだということですの」
「そうでしたか。では、お言葉に甘えさせていただいてもよろしいのですかな」
八木は思わずにやけそうになる口元を無理に引き締め、眉を下げて言った。
「えぇ、ぜひ。そうしていただけるとうれしいですわ」
真理子は白い華奢な手を頤の前で合わせ、首をかしげる。
八木は恐縮そうな様子で人力の真理子の隣へ乗り込むと、ほっと息をついた。目隠しを下げた狭い空間にいるのは真理子一人である。甘く、濃厚な香水の匂いに包まれる。
「娘は今一緒に連れてきたばあやが見てくれておりますの。弟はおそらくどこかにでかけているでしょう。真面目な子なのですけれど、異国の地で少し羽目をはずしているようですわ」
ちらちらと漏れる外の電灯の光を受けて、真理子の髪や唇がなまめかしい光を放っている。チャイナドレスのスリットから白く、柔らかそうなふくらはぎが覗いている。
「男はそれくらいが頼もしいですよ。金沢の女性はきれいどころが多いですから。いえ、真理子さんに敵うものはいませんがね」
真理子はふふっと笑う。
「お上手ですこと」
「本心ですよ」
「八木様のようなプレイボーイを夫に持つ奥様は大変ですわね」
八木は、真理子が八木の言った家の揉めごとを夫婦喧嘩ととったのだろうと思ったが、あえて訂正はしなかった。
「いやいや、もう耄碌じじいですよ」
「そんなことありませんわ。十分、魅力的ですわ」
八木の肩に、ふわっとやわらかな真理子の体を感じた。濃密な匂いが強くなる。八木は思わず口元をだらしなく弛緩させた。
初めて会った食事のときから、真理子の並々ならぬ視線を感じていた。自分に好感を持っているのは確かである。一度その柔らかそうでいて、野生動物のようなはりのある体を堪能してみたいとは思っていたが、ここ最近では一番の大仕事の商売相手の妻であることで自制をしていた。しかしこうやって相手から仕掛けられたのでは、話は別である。今日はなんという厄日だと腐っていたが、やはり自分は運のいい男である。決して天は私を見放さないようにこの世はできているのだ。
しばらくして人力は止まった。降りると、上松原町にあるホテル源圓の前である。県外からの大事な客があるときは、部屋をとることの多い老舗である。車から降りると、ホテルの者が待ち構えていたかのように八木と真理子を出迎え、本来であれば今日泊まる予定のない八木にも何かを言うこともなく、二人をそれぞれの部屋へと案内した。八木は一旦真理子と別れ、一人本来であれば彼女の主人柳博文がくつろいでいたであろう広い和室に腰を下ろした。仲居の淹れた茶をすすると、やっと体に血が通い始めたようであった。
仲居が出ていき、一人茶をすすっていると、ふと杏香の葬式が明日の昼からであることを思いだした。しかし、準備は番頭や手代に任せてあるので、今日明日家に戻らなくても問題はないだろう。何かあればここから電話をかければよい。しかし家のものにここにいることを知られるのはあまり気持ちが良くない。今となっては誰もが怪しまれる。
つらつらと考えていると部屋の戸を叩く音がする。仲居かと思い手を打つと、するりと真理子が戸から覗く。
「失礼しました。真理子さんでしたか」
「おくつろぎできそうですか?」
帽子や手袋やショールをはずし、身軽になった真理子を八木は立ち上がって中へと導いた。
「えぇ、お陰様で。シェンファンちゃんは寝ましたかな?」
「えぇ、着いたときにはもうぐっすりでしたわ」
八木は真理子を前にして、期待で額にじわりと汗が浮かぶのがわかった。先日とは違う、光沢のある白のサテン地に、裾に金糸で唐草模様に似た複雑な模様の刺繍を施したチャイナドレスは、彼女の豊満な体にピタリと沿って、ゆっくりと窓辺の椅子に座る真理子はまるで白い一体の蛇のように見えた。もしも蛇であるなら、神の化身の白蛇である。きっと自分に福を運んできたのだろう。
「今日、実はね」
今の今まで、今日あった奇事を誰かに話す気持ちはなかったのだが、彼女を前にすると、ふと話してしまいたような気分になって、口をついた。
「えぇ」
真理子は八木の顔を見て、ゆっくりと頷く。
「昔の女の幽霊にあったんですよ」
「あら」
真理子は眉を寄せて、少し嫌そうな顔をする。
「いやね、年甲斐もなく驚いてしまいましたが、おそらく誰かのいたずらでしょう。お世辞にもお行儀のよい人生ではありませんでしたからね」
真理子はいたずらっ子を咎めるような目で八木を見た。八木はその目に満足して話を続ける。
「それで家に帰ったら布団の中に女の髪の毛があったんですよ。女中の髪が落ちてしまったという話じゃない。こう一つかみもある毛束が、赤い糸にきちんと結わえられてぽんと置かれていたんだ」
「まぁ、気持ち悪い」
「そう気持ちの悪い話でね、腹が立って家を飛び出してきたという話なんです。そこで、女神に拾ってもらったと」
八木の冗談に、真理子は軽く笑ってみせただけだった。
「でも恐ろしい話ですわ。家の中にまで」
「そう、それが嫌な話なんですよ、家のものにそんなことをする奴がいるかと思うと、おちおち寝てもいられない。寝首をかかれたんじゃあ、たまりませんからね」
「そんな」
真理子は口元に手をあてて、心底恐ろしがっている様子だ。
「大丈夫ですよ。私も伊達に何十年、ここ金沢で店を守ってきたわけじゃない。そう簡単にはやられはしません。なんて、こうやって逃げてきた身で偉そうなことは言えませんがね」
八木は話していううちに自分自身で安心してきたようで、どんどんくつろぎ、口も滑らかになってくるようであった。
ふとはたはたと、軽い戸が叩かれる音が聞こえた。八木は今度こそ仲居であろうと手を打つが仲居は入ってこない。聞こえなかったかと思い声を出すが、やはり戸は開かない。
「気のせいですかな」
「いいえ、確かに叩かれた音がしましたわ。見てきます」
真理子は優雅に立ちあがり、戸を開くため八木からは姿が見えなくなった。戸を開く音がし、何かくぐもった声が聞こえる。やはり誰か戸を叩いた人間がいたようだ。それからしばらくなにか話しているような様子がしていたが、ふと静かになり、戸が閉まる音がして、真理子が再び姿を現した。その手には、すけるような和紙でできた一通の封筒があった。
「ご主人からですかな」
「いいえ」
真理子の表情がうかない。
「女性が、立っていました。高島田に結った、若い女性で、黄色い地の振袖を着て、それがぐっしょりと濡れていて、八木様はいるか、と」
八木は顔面蒼白になり、慌てて立ち上がると、部屋の出入り戸へと飛びつきそれを横へと開いた。しかしほのぐらい灯に照らされた廊下には、仲居の姿もない。が、戸を出てすぐの床に、丸く水たまりができていた。
「先ほどのお話を聞いておりましたので、なんとも返事をしかねていると、中にいる八木様へこれを渡してほしいといい、そちらの方へ歩いていきました」
気が付くと八木の後ろに来ていた真理子が、廊下に出て左の方向を指さす。よく見ると、暗い廊下に点々と水滴が続いている。八木はその水滴を追うように廊下を進んだが、突き当りでその水滴は途切れており、どこにも女の姿はなかった。八木は息を整えながら、部屋へと戻った。
八木は不安そうな表情で待っていた真理子に大丈夫だというふうにうなずくと、その手に握られた封筒を見る。真理子はそっとそれを八木に差し出し、八木は躊躇しながらもそれを受けとった。
八木は封筒の中を見ようとして、自分の手が大きく震えていることに気が付いた。それを真理子に見られまいと、大げさな仕草で、乱暴に畳まれた紙を取り出した。封筒と同じ素材の透けるような薄い和紙に、細い筆で文字が書かれている。それは懐かしい文字であった。
つゆ草
透けるような色の白い、首の細い女で、最後はまだ十九だったか。おおきな千輪菊をあしらった黄色い振袖は俺が作ってやったものだ。それを着てあいつはここに来ていたというのか。
“なげきわび 空に乱るるわが魂を 結びとどめよ したがひのつま”
宛名も差出人の名もなく、その一首だけが流麗な筆でかかれたその紙の手元には、うっすらと青い露草が描かれている。それはつゆ草が生前、自分の源氏名にちなんで好んで使っていた便箋であった。
なげきわび……源氏物語で、葵上に取りついた六条御息所の生霊が詠んだ和歌である。それに気がつくと、八木の手はさらに大きくがたがたと震え始めた。
実の父親の顔も知らないつゆ草は、八木のことを時に父親のように慕っていた。そしてそのためか、子供の様な激しい嫉妬を見せることがあり、常時はそれもかわいげのうちであったが、情緒の不安な時は、発狂とも呼べるような嫉妬を見せることがあった。八木にはそれがすえ恐ろしかった。女の嫉妬ほど醜く、男の生活の邪魔になるものはない。きっとこの女の嫉妬はいつか八木に災いを及ぼすだろう。そして八木は泣く泣く、つゆ草を始末した。
そして今、嫉妬で生霊と化した六条御息所の歌を伴って、つゆ草は再び八木の前に現れた。そんなことがあるだろうか。これもまた、俺を怖がらせようとする何者かのいたずらだろうか。しかし、この便箋をつゆ草が使っていたことは、ごく一部の親しい人間しか知らないはずだ。例えば、つゆ草の置屋の女将……。あぁ、そうか、あいつか。杏香のいた雪舟の女将だ。あいつはつゆ草が生きていたころまだ同じ置屋で芸者をしていた。あいつが、うちの店に難癖をつけに来てしばらくしてこうやっていろいろ起こり始めたんじゃないか。あいつは自分の身に火の粉が降りかかるのを恐れて、俺を陥れようとたくらんでいるのだ。あの因業婆が。
「大丈夫ですか?」
真理子の声に八木は我に返った。
「あ、えぇ。勿論大丈夫ですよ。こんなものはいたずらに決まっています。質の悪いいたずらだ。それに大方誰の仕業かも検討が付きましたよ。ちょっと出かけてきます」
「こんな時間にですか?」
真理子は心配そうに窓の外を見る。濃い夜はまだまだ開けそうにはない。
「えぇ、麗しい女人でもなし、大丈夫ですよ。ちょっと話をつけて、すぐにお戻りいたします。あぁ、真理子さん。ここにいれば安心でしょうが、さっきみたいに怪しいやつが入り込んでくることもありますから、お部屋に鍵をかけて、十分注意しておいでなさい。わかりましたね」
「え、はい。そういたしますわ。八木様もどうかお気をつけて、すぐにお戻りになさってね」
真理子は八木にしなだれかかるようにして、耳元でそう囁いた。八木は真理子のそばにこのままいたい気持ちを押し込めるようにして、ホテルのフロントへと急いだ。
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