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八木は待たせてあった車に乗り込むと、ホテルに戻るように運転手にいいつけた。乱れた息を整えながら、少しずつ今の女将の様子を思い出す。醜態をさらしてしまったのは悔しいが、この際仕方ない。あの女将がやっていたのなら、こうやって脅せば、気丈に見えても所詮女のすることだ、もう何かをしてくることはないだろう。
しかし、あの女将がやったことでなかったら……。それならば店のものか、商売仇か。何にしろ、人間の仕業に決まっている。幽霊なんてものはいるわけがない。
車が急に止まった。窓の外を見るが、まだホテルに着いたわけではなさそうだ。猫でも道を横切ったか。
「あれ、おかしいな……」
運転手のつぶやきが耳に入る。
「おい、どうした。早く出さないか」
「あ、いえね。燃料が切れるはずがないんですが、急にエンジンが止まりまして。おかしいな。この車でこんなことは初めてです」
くどくどと言い訳をする運転手に八木は怒鳴る。
「いいから早くなんとかしろ」
いまだぶつぶつと言いながら運転手は車を降り、車のタイヤやバンパーの中を確認しているようだ。
「ったく」
なにもかもうまくいかない。外を覗いていた窓に水滴がつく。それはあっというまに増えて、すぐに雨は大振りとなった。窓は全てホースで水でもかけているように水が流れ周りの様子がわからない。運転手はいつまでたっても戻ってこない。一体何をしているのだろう。もう人力でもなんでもそこらにいるのを捕まえようか。そう八木が考えていると、後部座席の右扉、八木の座っているところと反対の側の扉が開かれた。急に雨の音が大きくなる。
「おい、もう動くのか?」
運転手に向かって、開いたドアの外へ呼びかけるが、返事はない。
「おい」
「はい」
八木の声に細い女性の声が返事をした。少ししわがれたような、その声の主が、するりと車の中へと入ってきて、ドアはパタリと閉まった。再び雨の音が遠ざかる。
入ってきたのは黒羅紗の吾妻コートを羽織った女であった。八木は体をこわばらせ、背にあたるドアを押し開こうとするが、なぜかドアは開かない。
「雨は暖こうございますね。あちらはほんに寒うございました」
のどの奧に何かできものでもひっかかっているような、妙なひびわれた声であったが、間違いなく、昔八木が番頭に殺させた菊葉の声であった。いつも髪結いで、顔がひっぱられるほどにきつく結い上げられていた豊かな黒髪は乱れて、ほつれ毛がうつむけた頭から幾筋も垂れ下がっている。そこからぽたり、ぽたりとしずくが落ちてゆく。
「いつ来て下さるかと心待ちにしておりましたのに、いつまでたっても来て下さらない。憎まれっ子世にはばかるとは、本当なんでございますね」
ほほほ、とこの世に生きるものには到底出せないような、妙に金属質な声で菊葉は笑う。
「殺された人間は極楽浄土に行けないようで、地獄とも極楽ともつかない妙なところにひっかかって、そこからじっと地獄を見ていたんでございますよ。いつ八木様が来られるか、来られるかと、それだけを楽しみに」
八木は激しく震える体ごとドアにぶつけるようにして外に逃げようともがいたが、ドアはびくともしない。外にいるはずの運転手に聞こえるように、どんどんと窓ガラスをたたく。
「地獄はもう、私の口からは到底言えぬような、それはそれは恐ろしいところでございました。ご自分の目で確かめるのが一番でございましょう。さぁ、ご一緒に参りましょうか。もう待つのは飽き飽きでございますから」
濡れてぬめりと光る白い手が、すーっと八木の着物の膝元に伸びてきて触れた。着物越しでもその冷たさは全身を貫くようであった。
「うわあああ。やめろ。触るな。出ていけ」
うろたえる八木を女はあざ笑う。
「あらあら、何もお変わりない。湯で煮られながら、針でさされながら、業火に焼かれながら、じっくりと自分のしてきたことをお考えなさい。時間はゆっくりとございますからねぇ」
長い爪がぐっと八木の太ももに食い込むように、すごい力で女の手は八木を掴む。
「や、やめてくれ……」
歎願するように、かすれた声を八木は絞り出す。今までじっとうつむいていた顔が、ぎりりと回って八木の顔に近づく。白く、青ざめて、皮膚がところどころ裂けている。
「あ、あぁぁぁ」
もう言葉にならない悲鳴のような声が、八木の口から洩れる。逃げようともがくが、女の手はさらに力を増す。女の息が八木の顔にかかるほど近づいた。白い唇が、にっと横に広がって、少し開いた口の隙間から、どろりと藻の混じった川底の水があふれて八木の着物を濡らした。
「つーかまえた」
八木がずっと握っていたドアの取っ手が急につっかえが取れたように動き、ドアが外へ大きく開いた。八木は、雨の降りしきる往来へ後ろ向きに倒れ出て、後頭部と背中を激しく打ったが、構うことなく必死に立ち上がると後ろを振りむくことなくそこから逃げ出した。
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