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目を開ける。いくらか寝ていたようだ。小さな常夜灯の光だけが部屋の中をうっすらと照らしている。雨はもう止んだのだろうか。
……たすけて
八木ははっとして真理子が座っていた場所を見るが、すでにそこには彼女の姿はない。しかし確かに女の声がした。掛け布団をかき抱くようにしてじっとしていると、なにか雨の音とは違う音がずっとしていることに気がついた。おそらくこの音で目が覚めたのだろう。それは風呂場で手遊びに水面をバシャバシャと叩くような、そんな音であった。かすかなかすかなその音は、徐々に大きくなっていく。音はもう聞き違えることのできないものに変わっていた。それは人が水の中で暴れている音だ。おぼれた人間が必死に水を叩く音であった。それに気がついた八木は両手で耳をふさぎ、掛け布団の中で丸くなってしきりに音を遠ざけようとしたが、不思議と布団も手も通り抜けて、音は八木の耳に届く。
たすけて、苦しい、助けて、いやあああ
女の断末魔の叫びが、水をかく必死な音が、無常にごぼごぼと肺に水が入っていく音が、ひっきりなしに聞こえてくる。
ずるり
何か重たく湿ったものが畳を引きずる音が、近くで聞こえた。八木の体が更にこわばる。
「なんまいだぶつなんまいだぶつなんまいだぶつ……」
ずるずるとした音は念仏を唱える八木の布団の周りを回っているようだ。ぺたぺたとはだしの足が、歩いている。それも、ひとりじゃない。何人も、何人も。
ずるり、ぺたぺた、バシャバシャ、ゴボゴボ、ずるり……
八木の周りで、溺れた何人もの女が濡れた着物を引きずりながら八木を囲んで歩き続け、そして彼女らは何回でも溺れ、死んでいく。
「すまない、ゆるしてくれ、お願いだ。俺が悪かった……」
八木は泣きながら許しをこい、耳をふさぎ、必死に念仏を唱えた。ただただ狭い闇の中で、何度も唱え続けた。
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