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八木が着いたときには寺ではすでに店のものと葬儀屋の手によって葬儀の準備は整えられ、寺の炊事場では女たちが忙しく食事の準備で動き回っていた。その中には場を取り仕切るように八木の妻のさともおり、その足元にははりつくようにまだ幼い男の子ががやがやと騒がしい周囲を不安そうに眺めている。
「こら、礼太郎、そうまとわりついていては、お仕事ができませんよ。さぁ、向こうでお清とあそんでいらっしゃい」
「いや」
名を呼ばれた女中のお清が、手をぬぐいながら礼太郎と呼ばれた男の子に笑顔で手を伸ばすが、礼太郎は顔をさとの着物に擦り付けるようにして、いやいやと頭を振る。
「ほんとうに、礼ちゃんは大奥様のことが好きでございますね」
さとはなぜか自分にばかりなつく礼太郎を、思案気な顔で見つめた。八木は手代に体を支えられるようにして歩きながら、ふと立ち止まってその様子をじっと見ていた。
さとにとって、夫の妾の葬儀を手伝わせられるのは何度目だろうか。文句の一つも言わず、愛想よく立ち回る妻を、何度褒められたことだろう。今思えば、褒めた人間もどこか俺のことを馬鹿にしていたのだろう。もしかしたら、夫の言うままに生きるさとのことも馬鹿にしていたのかもしれない。さとは何を思って今あぁやって働いているのか。俺のことを憎んで、馬鹿にして、そんなものだと諦念の思いでいるのだろうか。しかし死ねばあの女も
「おじいちゃま」
廊下に呆けたように立つ八木を見つけて、さとの足元にいる礼太郎が声を出した。杏香に生き写しのようなその幼子が、さとにしがみついたまま、こちらを見ている。自分の血など一滴たりとも混じっていないような、その青いほどに透明な目が、八木を見ている。八木はその目を見ると、妙な汗が額からにじみ、体が震えてくるのがわかった。
「あら、旦那様。どうなさいましたの。そのご様子は……」
八木の姿に言葉を失ったさとの顔を、八木もまたじっと言葉もなく見つめ返した。
「……いや、大丈夫だ。少し、寝不足なだけだ。昨日は、悪かった」
夫婦喧嘩、と言っても常に一方的に八木が怒るだけのことであるが、そうであってもいつの時も八木は妻のさとに詫びをすることなど今までなかったため、さとは驚きの表情で夫を見た。
「え、いいえ。わたくしも、大変な粗相を……」
さとが頭を下げ、上げるともうすでに八木はさとから視線をはずし、再び手代に付き添われながら廊下の先へと歩いていくところだった。
手代のいう通り、まだ住職の姿はないようであった。式が始まる時間までにはまだ一刻ほどある。手代に連れてこられた控え室に腰を下ろすと、すぐに店の女中が湯呑をもって入ってきた。見慣れた女中であるにもかかわらず、その黒々した若い髪や白い額を一目見ると、少し収まっていたはずの体の震えが、再び現れた。八木は自分の二の腕を抑えるようにしてなんとかこらえていたが、女中が八木の異変に気付き傍に寄って八木の肩に触れると、八木は我慢できずに小さな叫び声をあげて女中と反対の方向へのけぞった。
「旦那様、どうされました? 誰か人を……」
「よ、よい。すまない。何でもないんだ。何でもない。そっとしておいてくれ」
八木の血相に圧倒されて、女中は首を傾げながらそそくさと部屋を出て行った。誰もいなくなった部屋で、外に人の気配を感じながら、八木はふと訪れた安心感とともに眠気を覚え、座ったまま腕を組んで目を閉じた。一体何をそこまで怯えているのだ。こんなお天道様の下、それも寺の中じゃないか。何も起こるわけがない。人が忙しく歩き回っている足音が聞こえる。もうすぐ住職がくるだろう。葬儀の前に相談する時間はあるだろうか。金ならいくらでも払う。きっと何とかしてくれるだろう。一晩、悪い夢をずっと見ていただけだ。もう終わりだ。もう……。
「旦那様」
八木ははっと目を覚ました。ほんの短い時間ではあったが、深く眠っていたのだろう。頭がすっきりとしているのがわかった。そしてそれとともに、抜け殻のようになっていた体にわずかに生気が戻ってきている。
「ご住職が来られました」
「あぁ、そうか」
八木が本堂に赴くと、すでに葬儀の参列者が幾人か座っている。その中には警察署の署長の姿もあった。遅れて顔を出すと言っていた市長の姿はまだない。
「今日はありがとうございます。わざわざご足労いただいて」
八木に声をかけられた署長は一瞬ぎょっとした顔をしたが、まだ比較的年若い署長は八木の容姿に言及をすることはなかった。八木はしばし談笑した後、他の客にも簡単に挨拶をして回り、足早に住職の元へ向かった。
豪奢な袈裟に身を包んだ住職は、経文の並ぶ経机の前に厳かに鎮座していたが、八木が近づくと声をかける前に、ふっと振り向いてその精悍な顔を八木に向けた。
歳は八木とそれほど変わらないのかもしれないが、鍛えているのか袈裟の上からでもわかるがっしりとした体つきと、太い黒々した眉、その下の目も大きくて見つめられたものを委縮させるような力があった。
「本日は」
「ご主人あなた、死相が出ておりますな」
八木の挨拶を遮るようにして住職は言った。八木は殴られたようにゆらりと揺れた。
「そんな……わ、わたしはどうすれば、どうすれば助かりますか」
すがるような八木に、住職は冷たい目を向ける。
「四人、いや五人ですか。それだけじゃない、生霊も何人も憑いております」
「生霊……」
八木はきょろきょろと自分の後ろを振り返る。
「一番強い恨みを持ったものが、そばに来ておりますな」
住職はそういうと、空の棺桶の置かれた方に目をやった。
「そのものの恨みが一番強い。そして深い。子を奪われたものの恨みは、生きているものを殺すほどの力を時にもつものです。わたしもこの命をかけて経をあげましょう。ただ、わたしの力を持ってしても、五分五分。もしかすると、わたしとて引きずりこまれてしまうやもしれません」
「そんな……」
がたがたと震える八木を、住職は一喝する。
「そなたが撒いた種じゃ。しっかりなさい。私もこの身をかけましょう。あなたも死にたくなければ誠心誠意、彼女の往生を祈りなさい。そしてもし、彼女が現れたら、謝りなさい。ただ頭を下げて謝るのです」
こくこくと子供の様にうなずく八木を、番頭と葬儀屋がそこから引きずるようにして喪主の席へと導く。葬儀の時刻が訪れ、不安げに番頭らが見守るなか、八木は葬儀屋にうながされるまま、挨拶をするため立ち上がった。
参列者は八木の普段とは違うやつれた様に驚いたが、場はしんと静まり返っていた。八木は恐怖に押しつぶされそうではあったが、葬儀をきちんと執り行うことだけが自分の命綱であると信じ、なんとか声を振り絞った。
「本日は、ご足労いただきありがとうございます。不慮の事故で若くしてなくなった杏香も、浮かばれることと存じます」
杏香の名を口にするとき、八木の体は一層ふるえた。そしてその時、
「おかあさん」
子供特有の鈴のような声が、しんとした堂内に響き渡った。その子が杏香の子だということを知るものはごくわずかではあったが、どこかで起こった動揺がざわざわと堂内を伝わっていく。そして八木もまた、礼太郎のその言葉に、叫びだしそうになるほどに驚き、さとの隣に座る礼太郎と、堂内を交互に見たが、杏香と思われる姿はない。さとが何やら礼太郎に問いかけ、礼太郎は首をふった。そして八木や他の客に目で謝りながら、礼太郎を連れてさとはお堂を出ていった。八木ははっと気がついたように、幼子の失態を詫び、簡単に挨拶を締めくくった。その間も、八木の目は杏香の姿が現れないか、忙し気に動いている。
しばらくして住職の太く響く声で経が始まると、八木は目をつぶって手を合わせ、必死に祈った。杏香わしが悪かった。どうか許してくれ。お願いだ。殺さないでくれ。頼む、頼む、頼む。礼太郎はわしが責任を持って大店の主人にしてやる。何不自由なく生活させる。なぁ、お願いだ。
その時閉まっていた堂の正面の引き戸が大きな音を立てて開き、外からの冷たい風が堂内に吹きわたった。音に驚いた客は戸の方を振り返るが、入ってきたものはいない。堂内に焚かれていた暖房の火は消え、一気に室温が下がる。それとともに、蝋燭の火が一斉に消え、ただでさえ暗い堂内が、更に薄暗くなる。ただならぬ堂内の様子の中、住職の経だけが更に大きく続いているため、参列者もただ息をのんで座っている。そんな中、女性の悲鳴が上がった。急に視線を集めた女性は、正座のままじりじりと後ろに後ずさるようにして、片方の手を口元に、そしてもう片方の手の人差し指をまっすぐどこかへ向けている。皆の目がその指さす方に自然と集まる。
堂の正面に向かって左手の、手洗いへつながる廊下への出入り口の前あたりに女が立っている。暗い中女だけぼうとにぶく光を帯びて見える。足元に大柄の将棋の駒の浮かぶ紺の着物をひきずりに来て、腰に赤い帯を巻いた女がじっと立っている。豊かな髪はほどけ、長い髪が柳の様に垂れている。
「ひっ」
八木は座ったままの姿で、逃げ出そうと腰を浮かしたが、住職の声が堂内にこだました。
「逃げたらおしまいですぞ」
その声にまじないでもかけられたように八木は固まり、腰を抜かしてへたりと座り込んだ。女はしとしとと水滴をしたたらせながら、じりじりと歩を進める。八木に向かって出された住職の言葉は、場のものみなに効果をなして、恐怖の相をなしながらも逃げ出すものはなく、みな突然現れた女をじっと魅入られたように見守っている。
「きょう、か……」
女は一歩一歩八木へと近づいてくる。青い蹴出しがちらちらと目を射る。あの着物は、あの日、杏香が死んだときに着ていたものだ。粋好みの杏香によく似合っていた。
あと八木まで数歩のところまで来ると女は八木に向かって両手を上げた。そしてうつむき気味であった顔をまっすぐ八木に向けた。八木は女の目をはっきりと見た。その顔は、白くやつれているが、杏香に違いなかった。いたずらのわけがない。どう考えてもそれは杏香であった。その目を見たとたん、八木の中で何かが壊れた。
「う、うわああああああ、許してくれ、許してくれ、すまない。俺が悪かった。命だけは、命だけは助けてくれ。もうしない。罪は償う。そうだ、俺が殺したんだ。俺が杏香を殺した」
八木は狂ったように頭を抱えて謝りだしたかと思えば、跳ね起きるように立ち上がって呆然とする客に向かって杏香を殺したのは自分だと訴え始めた。
「杏香だけじゃない。何人も殺した。蓮乃もつゆ草も菊葉もだ。俺だ、俺がやった。お願いだ。俺を捕まえてくれ……」
八木はそこまで言うと、気が抜けたようにその場でうずくまり、しくしくと子供のように泣き出した。もはや周囲の喧騒も、冷たい視線も何も届かない場所へ行ってしまったようであった。
その様子をじっと表情の読めない目で見ていた杏香は、急に足に抱き着いたぬくもりにはっと視線を下に向けた。いつのまにか堂の中に入ってきていた礼太郎が、懐かしい母の足に抱きついていた。
「礼公……あぁ、礼太郎」
由美子は礼太郎を強く抱きしめると、ただ暖かなその頬にそっと額を押し付けた。
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