エピローグ

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エピローグ

 十二月二十五日、早朝に号外にて知らされた天皇陛下の崩御に大人たちはざわめき立っていたが、子供の光子にとっては年末を控えた冬休みのただの一日であることに変わりなく、一向に進まない宿題を前に、思い出にととっておいた粟ヶ崎遊園の入園券の半券をただぼうと眺めているばかりである。  あとで聞いたことであるが、隆吉と由美子は幼いころ家が近くよく遊ぶ仲であったようだが、由美子はしばらくして茶屋の養女となり二人はそれ以降会っていなかったようで、庭師の家に奉公に行った隆吉がある日茶屋街を訪れて由美子と再会したのだそうだ。きっといつか由美子が教えてくれた初恋の人が、隆吉だったのだろう。再会した二人になにがあったのかは、子供である光子には教えてくれなかった。つくづく子供というのは損なものである。 そして隆吉の思いに答えた由美子ではあったが、亀戸家を離れたのは隆吉が初めて亀戸家を訪れた日から一か月ほどあとのことであった。あの日ののちすぐに由美子は本田医師の紹介で金沢医科大学付属医院へと入院し、しばらくののち胃切除術で有名な医師によって手術が行われることとなった。その入院期間中、亀戸家が礼太郎を預かることとなったのだが、光子はその間のことを思い返して、ふっとため息をついた。  おそらく、由美子が近くにいる間は遠慮していたのだろう、光子の母の礼太郎へのかまいっぷりは、思い出してもぞっとするものであった。久しぶりの幼子の育児で、しかも預かりものである。万が一にも何かあってはいけないと気をはっていたのは分かるのだが、それにしてもあれは異常であった。礼太郎が口に入れてしまうようなものは落ちてはいまいか、常より徹底した掃除は更に執念深くなり、食事をのどに詰まらせないか瞬きもせずに監視し、しもやけはできていないか、なにか湿疹でもできてはいまいか、耳の中はきれいか、爪は伸びていないか、目は、歯は、頭皮は、とまるで猿が毛づくろいでもするように、風呂上りには全身をくまなくチェックしていた。光子はいつか自分に子供ができたときのことを想像して、もう一度深くため息をついた。  しかし光子の母の怨念じみた思いもあってか、無事由美子は手術を終え、術後の回復もよく、少しやせたものの、明るい表情で亀戸家へと戻ってきた。そしてそれからしばらくして隆吉が二人を迎えにきて、三人は蛤坂新町のほうに借りた新しい家へと移ったのだ。  由美子と礼太郎がいなくなった亀戸家は、何かがらんとしてしまったように光子には感じられた。きっと光子親子が来る前はもっとがらんとしていたのだろう。最後に見た由美子の晴れ晴れとした表情を思い出すと、胸のあたりがぐっとなるほどにこれで良かったのだと思うのだが、それでもやはり寂しい気持ちはぬぐえなかった。  障子がからりと開いて、女中のおしおが入ってきた。手にはおやつの盛られた皿を持っている。 「お待ちかねのおやつでございますよ。先生のところに来た福井みやげの大野の芋羊羹でございます。喉につまならないようによーく噛んでお召し上がりくださいね。あれぇ、孝三郎さんが来ませんね。芋羊羹のにおいにつられてこないなんて、よっぽど落ちこんでいらっしゃるんですよ。光子さんが呼んできてあげてくださいな。私がまたごたごたというとへそをお曲げになるから。ほら」  羊羹に伸ばしていた手をそっと押されて、光子は膨れる。 「私が行ったってどうせへそを曲げるんだから。わかったわかった、わかりました。呼んできてあげますよ」  おしおににらまれて光子は仕方なく腰をあげ、孝三郎を探しに廊下へと出た。今日は出かけてはいないはずであるから、いつもの縁側に座っているのだろう、と目星をつけて歩いていくと、案の定縁側から外に足を投げ出して孝三郎は座っていた。庭には溶けかけた雪が残ってはいるものの、風のない比較的暖かな冬晴れの日である。いつもよりぼさっとした髪の毛で、紺の綿ズボンの上には光子の母の編んだセーターを着ている。光子とお揃いの毛糸で作られたそれを孝三郎は嫌がってあまり着ないのだが、今日はどうでもいいらしい。 「孝さん、おやつよ」 「僕はいいよ、光坊が食べ給え」  光子は顔をしかめて隣に座った。 「もう忘れたらどう? 男らしくないわ」  孝三郎は口をへの字に曲げて隣の光子を見た。 「何を言っているんだ」 「由美子さんの結婚式楽しみね。きっときれいだろうな。うちでするのかしら。それともどこかお座敷でも借りるのかしら。お母さんったらまった鬼の首でもとったようにはりきっているのよ。お式のときはきっと一番に泣き出すんじゃないかしら。もちろんすずちゃんとすずちゃんのお母さんも呼びましょう」  いつものように茶々を入れることもなく孝三郎はおとなしく光子の言葉を聞いている。光子は孝三郎の肩を強く叩いた。 「元気だしなさいよ。好きな人が幸せになったのを喜ばないなんて、男らしくないわ。ほら孝さんの好きな漱石の三四郎も美禰子さんにふられて、こう言っていたじゃない。えっと、なんだっけ、ストレイシープ! そうストレイシープよ」  孝三郎はストレイシープは美禰子が言い出したんだ、などと光子にもほとんど聞こえない様な小さな声でしばらくつぶやいていたが、咳払いをするといつもの声音に戻って、ふんと鼻を鳴らした。 「幸せ、幸せっていうけれどな、別に否定するつもりじゃないがね、あれは、一種みきの自己満足だぜ。幸せの押し売りさ。あれは自分の悦にはいっているんだ。まぁ、話しを聞く限りだがね。そうそう、いつだって大事なときには俺はのけ者だ。悔しくて言ってるんじゃないぜ。俺だって曲がりなりにも手伝わされたっていうのにさ、いざってときには声もかけないんじゃあ、あまりにも失礼じゃないか。その金だってマダムマリコが八木からどうせ騙しとったものだろう。税金だのなんだのって、わからないと思ってめちゃくちゃを言うよ。まぁあれも三割ほどは僕の手柄といってもいいや」  ぐちぐちと文句を垂れる孝三郎はいつもの調子を取り戻してきたようで、光子は少し安心したような気持ちになった。 「何よ。幸せの押し売りって。みきさんだって言ってたわ。これは自分の満足のためにしたことだから、感謝されるようなことじゃない、って。でもそれってはちゃめちゃに恰好いいじゃない」  孝三郎の目が光子の腕にとまる。 「おい、お光、なんだそれは。腕にゴミがついてるぞ」  慌てて隠そうとする光子の手を、孝三郎がすばやくつかんだ。 「ん? なんだこれは。時計、か?」  光子の腕には厚紙で作った銀色の腕時計が輪ゴムで巻かれていた。光子は口をとがらせて胸を張った。 「何よ。みきさんが着けていて恰好よかったのよ」  それを聞いた孝三郎がのけぞって笑い出した。光子は馬鹿にされたと思い赤くなった。 「あはははは、そりゃあいいや、久しぶりに大笑いをしたら、すっきりしたよ。光坊のおかげだ。よしよし、仕方ない。めでたく俺が医者になったら、最初の給金でお前に腕時計を買ってやろう。みきが着けているような安もんじゃないぜ。東京銀座の服部時計店で一番高いやつを買ってやるよ」  そういうと立ち上がって自室へと向かおうとする孝三郎に光子は声をかけた。 「今日は大野の芋羊羹よ」 「……やっぱり食おうか。おしおに申し訳ないからな」  踵を返す孝三郎を笑いながら、光子は、孝さんだって自己満足で動いているんじゃない、と独り言ちた。
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