小鳥の溜め息

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小鳥の溜め息

 横断歩道の青色信号が点滅していた。黒いスニーカーを履いた背中が亜麻色(あまいろ)の長い髪を振り返る。昼下がりの車道は白く陽炎(かげろう)が揺らめいていた。ジュエリーショップから「婚約指輪が仕上がった」と連絡があった。 「小鳥(ことり)!信号が赤になっちゃうよ!」  つないでいた手を振り(ほど)いた拓真(たくま)は笑顔で駆け出した。  一瞬の出来事だった。  跳ね飛ばされ、黒いワンボックスカーが目の前で急停車した。助手席から男性が携帯電話を手に飛び降りて来た。運転席にはハンドルを握ったまま微動だにせずフロントガラスを見据えた女性の姿があった。 「拓真?」  そこに拓真の姿はなく、白い横断歩道に黒いスニーカーが転がっていた。 「拓真」  夏の日差しの中、小鳥は茫然(ぼうぜん)と立ち尽くした。  雲ひとつない真っ青な空に細長い筒が伸びていた。白い煙が南風にたなびき、それはやがて(はかな)く消えた。喪服姿の両親が祭壇の前で深々と頭を下げている。白いハンカチ、コーラルピンクの珊瑚の数珠、小鳥は溜め息を()らした。 高梨 拓真(たかなしたくま)、享年28歳。  須賀 小鳥(すがことり)(28歳)には将来を誓い合った恋人がいた。その男性(ひと)の名前は高梨拓真。 不慮の事故だった。  小鳥は、なぜ拓真の手を離してしまったのだろうと自分を責めた。手を強く握り横断歩道に飛び出した背中を引き留める事も出来たはずだと、その瞬間を悔いた。  拓真を見送った葬儀の後、仕事で失敗が続き、同僚は「私に任せて」と微笑み、上司は「有給休暇があるから気にせず休め」と言ってくれた。 (拓真)  (うつろ)な目でソファで横になっていると拓真の指先が髪に触れた様な気がした。拓真はこの亜麻色(あまいろ)の髪を綺麗だと褒めてくれた。 リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン リンゴーン チーン チーン チーン チーン チーン チン チン チン チン チン   その時だ。ひとりの部屋に(ささや)くような鐘の音が響いた。これは小鳥の祖母が(のこ)した世界3大ブランドと称されるパティックの腕時計だ。この腕時計に内蔵されたミニッツリピーターは「音で時刻を告げる」ロマンティックな機能で拓真はこの美しい音色を好んだ。  現実が受け入れられない小鳥は毎朝、目が覚めなければ良いと思った。それでも容赦無くカーテンの隙間から明るい日差しがベッドに届く。腕時計は7:00、また1日が始まる。そして今日は特別な日だ。拓真の四十九日の法要がある。ハンガーに掛けた喪服の黒が痛い。 (あ、充電忘れてた)  ふとその時、昨夜、携帯電話の充電をし忘れた事に気が付いた。バッテリーの残量を確認しようと携帯電話を持ち上げた小鳥は自分の目を疑った。 「7月、7月6日・・・?」  まさか、本来ならば今日は8月24日だ。小鳥は慌ててメールボックスを確認した。ニュースレターの朝刊の見出しは76と記載されていた。 (て、天気予報・・・!)  ウェザーニュースは7は晴れ、午後は曇りでゲリラ豪雨に注意と報じていた。 (え、ちょっと待って、これはどういう事!?)  携帯電話のバッテリーはあと(わず)かしかない。画面をタップし拓真にLIMEメッセージを送った。 おはよう        うん        既読 起きてる?        うん        既読  拓真のトーク画面に既読が付いた。 (・・・・嘘だ)  拓真の携帯電話は黒いワンボックスカーの前輪に押し潰された。 ポコッ  携帯電話を握った手が震えた。画面を凝視していると枕を抱いたクマのスタンプが”まだ眠い”と返って来た。 (眠い?誰が眠いの?) 拓真?    なに、どうしたの?           既読 拓真なの?     誰かと間違えたの?           既読  メッセージから伝わって来る温かな雰囲気、それは拓真で間違いはなかった。 「あっ!」  その時、携帯電話の画面が真っ黒になった。小鳥は充電切れを起こしたそれをベッドに放り投げると慌てて部屋着を脱ぎ、青い小花のワンピースを頭から被った。コンタクトレンズを入れている余裕などなかった。黒縁眼鏡を手掴みにすると軽自動車の鍵を握ってアパートのドアを閉めた。 (拓真が、拓真が生きてる!?)  コンクリートの階段を駆け下り、駐車場へと走った。エントランスの段差を踏み外し、車止めに足を取られ転びそうになった。 (まさか、まさかそんな!)  小鳥はペールブルーの軽自動車に慌てて乗り込んだ。こめかみがジンジンと疼き喉が渇くのが分かった。シートベルトを握る指先が震え、なかなか留める事が出来なかった。エンジンをかけようとしたがブレーキペダルを踏み間違え、車体はうんともすんとも言わなかった。 (7月6日、拓真が事故に遭う前の日・・・!)  心臓が跳ねる、拓真が生きているという信じられない気持ちと信じたい気持ちが交差して動悸が止まらなかった。(かえで)並木をひたすらに走る軽自動車は赤信号で足止めを喰らい、(いら)ついた。 (早く!早く!)  これが夢であるならば、()めないで欲しいと切実に願った。そして拓真に一目でも会いたいと強く願った。通い慣れた景色が背後(うしろ)へと流れて消えた。 (この角、この角を曲がれば!)  カーブミラーに右点滅するウィンカーが映った。小鳥が運転する軽自動車は一時停止をする事なく大通りに飛び出し対向車にクラクションを鳴らされた。無我夢中だった。 (拓真のアパート)  タイル壁の2階建てアパートの手前でタイヤは動きを止めた。小鳥は路肩に軽自動車を停め、エンジンを切った。シートベルトのタングプレートを外す指が震え、手のひらには汗をかいていた。 (まさか、本当に、本当に今日は7月6日なの?)  そして引き払ったはずの205号室の郵便ポストに”高梨(たかなし)”の名前があった。 (拓真の部屋だ)  コンクリートの階段を上ると静まり返った壁に小鳥のサンダルの音が響いた。ゴクリと喉が鳴った。手前から1、2、3、4、1番奥の角部屋が205号室だ。 「・・・・・」  額の汗を拭いながら大きく息を吸って深く吐いた。玄関ドアの前に立ちインターフォンを押すと人の気配が近付いて来た。 (あっ)  小鳥はふと我に返った。 (もしかしたら、もう違う人が住んでいるかも!)  鍵の開く音がしてドアノブが回る、緊張が走った。 「小鳥ちゃん、どうしたの?」 「拓真」  そこにはボサボサの髪で眠い目をした拓真がボリボリと尻を()いていた。 「おはよう、早起きだね」 「早くないよ、もう8時だよ」 「え、そうなの!?」 「、寝坊助さんだね」  平静を装いながらも声が震え、目頭が熱くなった。 「なにぼんやり立ってるの、暑いから入って、入って」  玄関先で動けずにいると拓真に腕を引っ張られた。その手は確かに温かかった。 「昨夜、小鳥ちゃんが長電話するから寝不足だよ」 「ゆ、うべ?」 「そうだよ、今度から電話は1時間、1時間だからね!」 「うん、分かった」  小鳥がぼんやり立っていると拓真はソファの座面をポンポンと叩いた。触れる肩、重なる手のひらが熱い。 「昨夜、何の話してたっけ?」 「何って、待ち合わせの時間を決めていたんだよ?忘れたの?」 「何の待ち合わせ?」  驚いた拓真は小鳥に向き直った。 「婚約指輪を取りに行く待ち合わせだよ?」 「ねぇ拓真、今日って何年何月何日だっけ?」 「どうしたの、さっきからなんだか変だよ?」 「何年何月何日?」 「2024年7月6日!」  小鳥は拓真が差し出した携帯電話の画面を見た。確かに7月6日だ。 「7月6日」 「そう!七夕にプロポーズしてって言ったの小鳥ちゃんだよ!」 「私が言ったの?」 「そうだよ!もう”有給休暇”、取ったんだからね!予定変更は出来ません!」 「予定変更、予定を変更」 「なに?」 「待ち合わせの時間、変更しない?」 「え、なに。どういう事?」  信じ難い事だが今日は7で間違いなかった。小鳥は7月7日の待ち合わせの時刻を変更して欲しいと拓真に提案した。 「拓真、明日の待ち合わせの時間なんだけど、少し早くしても良い?」 「うん、良いよ。あんまり早いのは困るけど」 「大丈夫、8:00にお店は開いていないから」 「そうだね」  (ほが)らかに笑う拓真。運命の7月7日、小鳥は拓真との待ち合わせの時間を11:30に変更した。これで拓真が青色の点滅信号で横断歩道に飛び出す事もなければ黒いワンボックスカーが急停車する事もない。 (私が、私が拓真を守る!)  2024年7月6日、須賀小鳥は49日分の時間を飛び超えた。
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