手にした本・・

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 秋の終わり、男は公園のベンチに腰掛けながら、枯れ葉のまだ残る木々に目を遣っていた。 「あーあ。チキショー。」 男は自身の不運を嘆くかのように、天に向かって呟いた。さっき自販機で買った缶コーヒーを上着のポケットから取り出すと、男はプルトップを開けて口に含んだ。 「苦ぇっ。」 砂糖とミルクの入ったコーヒーだったが、今日の男の口には合わないようだった。何もかも上手くいかない。そういう一日を自分は過ごすのだろうと、男は朝から自覚していた。 「え?、何じゃ、これ?。」 朝、男はいつものように会社に出勤した。朝早く来て、サッと仕事を片付けるのが彼の日課だった。前の職場が妙な経理操作を行っている噂を聞いた男は、二年前、今の会社に移ったのだった。新規参入の企業ながら、しっかりとした経営の様子が伺え、男は安心して転職した・・はずだった。 「裁判所の張り紙じゃねーか・・。」 いつもなら、すんなり開くはずの自動ドアが、今日はピクリとも動かなかった。そして、そのガラス戸には、会社の破産を知らせる張り紙が一枚貼られていた。一瞬、男は呆気に取られた。以前の会社が危うい状況なのを知って、すんでの所で身を躱したつもりだったが、その行動が裏目に出たことを、男は目の当たりにしていた。数秒間、男は張り紙の下に書かれた連絡先を見つめていた。そして、ケータイを取り出し、破産管財人と称する箇所に連絡を取ろうとした。が、電話が繋がった途端、男はそれを切った。 「どう足掻いても、悪あがき・・だな。」 男はそう呟くと、ケータイをポケットに仕舞い、まだ他の社員が来る前に、その場を立ち去った。すれ違いざまに、男の背後で、 「あれ?、何だこれ?。」 「破産だってよ。」 「ふざけるな!。」 男の後に出社した社員、いや、元社員達が、張り紙に気付いて騒ぎ出していた。そんな騒ぎに巻き込まれるのは真っ平と、男は足早に其処を後にした。 「一緒にされてたまるか。」 男は自身が彼らとは違うと、心の中でそういい聞かせようとしたが、実際は自分も哀れな失業者であると気付くまでに、そう時間はかからなかった。  男が前の会社で勤める前も、やはり職場の不穏な空気を悟って移ってきたという経験があった。しかも、その前の職場も・・。口に苦い缶コーヒーを含みながら、男はあらためて自身の不運を呪おうかと、そう思ったとき、 「ん?、何だこれ?。」 男は足元に捨てられている文庫本らしきものを見つけた。表紙カバーは無く、古ぼけた背表紙はタイトルすら擦り切れて読めなかった。そうなると、それはただの地面に落ちているゴミに過ぎない。すると、 「ははは。まるで今のオレじゃないか。」 そう苦笑しながら、男は何気にその本を拾い上げた。潔癖症の彼がそんなことをすることなど、これまでには無かった。 「何々・・、時代小説か?。」 仕事終わりに男は時折、通り道にある古本屋でワゴンセールの文庫本を選んでは買って帰ることがあった。そして、寝る前にそれを読んでは、あれこれと物語の世界観に想いを馳せていた。しかし、それは無意識にせよ、自身の嗜好性が彼にその本を選ばせるという、所詮は予定調和だった。そして、度重なる失業の轍から抜けるには、自身にのし掛かっているであろう、そんな必然性から脱却する必要が是非ともにあると、彼はそう思っていた。しかし、一体、どうやって?。そんな矢先の、今回の破産劇。そして、いつもとは異なる、全く意図しない本との出会い。彼は日頃読み慣れないジャンルの小説を、しかも埃まみれでどう見ても綺礼では無いそれを、敢えて読んでみようと、そう決意した。 「うーん、いつの時代の設定なんだろう?。」 明らかに、今あるような文明とは異なる時代の内容だった。ただただ、見窄らしい男が訪れた農村で、ほんの一夜の宿を求めるべく彷徨うが、閉鎖的な村人達は、誰一人、男を泊めようとはしなかった。それどころか、 「ああ、縁起でも無い。早くこの村から出てっとくれ!。」 と、塩さえ撒かれる始末。素足で彷徨う男の足からは血が滲み、痩せこけた頬の描写からは、既に何日もロクなものを食べていないことが窺えた。話を読み込んでいた男は、登場人物の男と自身には、まだ違いがあると、そういい聞かせながら、 「ふーっ。」 と息を吐くと、再び読み進めた。見窄らしい男は、そのように何処へ行っても邪険にされることには慣れているようだったが、足の痛みと、此処の村人から受ける仕打ちに対して、次第に憔悴していった。そして、 「このまま安寧に、野垂れ死のう・・。」 そう思いながら、村の外れにある小さなお堂に辿り着くと、其処の軒下で今日は眠って、明日、山奥にでも身を投じて、動物の餌にでもなろうと、そう考えた。そして、其処まで読み進んだ男は、残りのページ数を確認すると、 「此処で死んじゃったら、後のページ数では、話が保たないなあ・・。」 と、今後の展開は必ず何かあるはずだと、そう推測した。  いつものように、古本屋のワゴンセールで手にした本なら、男は斜に構えながら、 「どうせ、次の展開は読めてるな・・。」 と、まるで作者の意図を推測しながら、その読み通りになった時は、作者の技量を測っては勝ち誇るような読み方であった。しかし、それは自身が無意識のうちに、そのように推測出来てしまう本を、ただ選んでいただけだった。 「さーて、お堂の男よ、どう出る?。いや、作者よ、この男に一体、どうさせる?。何をもたらす?。」 男は、迂闊にも自身が最も嫌う、ありふれた一読者に成り下がっていることに気付いていなかった。期せずして手にした一冊の小汚い本は、男を物語の世界に静かに引きずり混んでいった。お堂の男は、深々とした夜のお堂の中で、安堵とも惰眠ともつかない、深い眠りに陥った。お堂の闇の中で、女郎蜘蛛が微かな足音を立てて獲物に糸を巻く情景、外では梟らしき鳥が低く呻くような声で鳴いている情景、そのような描写ばかりが裸徹していた。 「そういうのはいいから、もっと男の心理を描写しろよ。夢でも何でもいい。この男の心の内を見せてくれ!。」 男はそう願いつつ、ページを進めた。しかし、その夜はいつまで経っても情景が微かに移りゆく描写のみが広陵とした砂漠のように続いた。 「もしオレが一株の雑草だったなら、水を得ないまま枯れてしまうな。ってことは・・だ、オレはこの物語に水を求めてるってことか?。」 読み進んでもお堂の男が起きる事がないのを目にするうちに、男はもう兎に角、心理描写の変化が欲しくて仕方が無い自分にようやく気づき出した。しかし、もう時既に遅し。男は自分が公園のベンチに座りながら、拾った本を食い入るように見ていることには無頓着だった。ベンチに腰掛ける男と、お堂で眠りに耽る男との間に、最早、差異など無かった。と、その時、 「お!。」 本を手にした男は、お堂の男に変化があったことに、歓喜の声を上げた。板の上に横になっていたお堂の男は、寝返りを打ちながら呻き声を上げた。そして、薄らと目を開けた。視線の向こうには、障子の隙間から朝焼けの光が差し込んでいるのが見えた。板の上で寝ていた身体の痛さと、まだ眠り続けるには眩しい光景に、男は起きざるを得なかった。そして、空腹で力も十分には入らなかったが、男は何とか体を起こし、深く息を吐きながら自身の身に起きた不幸を思い返してみた。 「こんな辛いのに、何で生きてなきゃいけないんだ?。」 男は自問自答してみた。しかし、その疑問に対する答えは、明らかに昨日の夜までの自分のものとは異なっていた。自身が感じた昨日の延長線上に今日があるだけならば、自分はこの後、動物に身を食われて生を終えるだけである。しかし、眠り終えて目覚めた今日の自分は、昨日とは確実に異なる。いや、自分は特に何も変わってやいない。変わったのは日付、闇と明かりの確固たる区別が、確実に時を刻んでいる。ごく普通の一日の終わりと始まり。しかし、それは大きな変化をもたらしている。昨日までの男には、そのことに気付くだけの気力も余裕も無かった。しかし、今はどうだろう。闇が終わり、明かりが差しただけなのに、それは確実に昨日とは異なる。そのことに何より驚かされている自分がいる。自分とは一体、何なのだろうか・・。男はふと、明かりの差す方向とは反対側を振り向いた。其処には、後光が差した御仏が佇んでいた。 「嗚呼・・!。」 男は感嘆の声を漏らすと、仏像に躙り寄った。朝焼けが反射した仏像は、まるで後光が差した天上界のように眩しかった。その光景に、男はただただ見とれていた。そして、 「あ。」 男は頬を伝う何かを感じた。そして、それを軽く、右手の指で拭ってみた。涙だった。拭っても拭っても、頬を伝う涙は止まることを知らなかった。 「安っぽい、信仰心の物語か・・?。」 ベンチに座った男の脳裏に、一瞬言葉が過った。しかし、男は今、その言葉に囚われて、先を読むのをやめるようなことは無かった。いや、やめられなかった。お堂の男が涙を流したのは唐突すぎる。自身が読んでいるようで、実は読み飛ばしていた情景描写の中に、そのヒントが隠れているはずだ。男は必死でお堂の男の心理と同調すべく、前のページを必死で読み返してみた。しかし、眠りに落ちた男を他所に、お堂の周りで繰り広げられる、生き物たちの自然現象以外、何ら心の奥底を覗かせるものは描かれていなかった。 「殺生・・か。そのことを自覚することで、いつの間にか仏の心が自身の中にも構築されて・・って、あれか?。」 穿ったものの見方が蘇った。ほんの少し前に、本を手にする以前の自分に、男は戻っていた。と、その時、 「はっ!。オレは前のままでいたいのか?。それとも、変わることの出来る可能性を見出したいのか?。」 男に選択の余地は、そうそう無かった。これまで通りなら、また何処かの職場が潰れるのを目にするだけだ。そういつまでも、そんな光景に耐えられやしないであろうことは、男も薄々感じていた。  最早、男はただの読者では無くなっていた。 「安易な信心に目覚めるようなストーリーはやめてくれ。もっと彼に試練が訪れろ!。」 男はお堂の男と精神を同調させていた。彼を待ち受けている事態が過酷であればあるほど、其処をどう乗り越えるのか、そして、その方法論を共に体感することが、もはや男の生きる術となるだろうと、そう確信していた。お堂を出た男は、近くの小川で顔を洗うと、昨日よりは力の籠もった歩みで村を出て行った。勿論、空腹は満たされてはいなかった。しかし、男は落ち着き払ってゆっくりと歩きながら、少し天を仰いでは、 「どうも、有り難う御座います。」 そう心中で祈っていた。その時点で、男は昨日までのように、自身を動物の餌として差し出すのも、このまま野垂れ死ぬのも、肉体的には大差の無いことを悟っていた。しかし、それでも、今は違う。何もせず、ただ諦めの中に身を食われるに任せるのか、少しでも前のめりに野垂れ死ぬのとでは、心の持ちようが異なっている。一歩一歩が、最後の生までの試練。そして、其処で絶命出来るのならば、納得のいく一生となるだろうと、男はそう考えた。 「そうだ。歩め!。そして、どんな試練も受け入れろ!。」 ベンチに腰掛けながら、男はお堂から出た彼に対して声をかけた。ストーリーの展開を見たいからでは無い。彼の生こそが、男の希望になろうとしていたからだった。そして、暫く歩いた所で、彼は道端の地蔵の前に、小さな団子が二櫛供えられているのを目にした。彼は縋る思いで地蔵の前に駆け寄ると、跪いて深々と手を合わせて拝んだ。そして、 「お地蔵様。此処でアナタから受けるご恩で、ワタシを今少しだけ、生き長らえさせて下さいませ。どうかお願いします・・。」 とう唱えると、置かれていた団子を一気に平らげた。あまりに急いで食べたも簿だから、彼は咽せてしまった。 「コホッ、コホッ。」 まんの悪いことに、彼は団子を喉に詰まらせて、そのまま道端に仰向けになって倒れ込んでしまった。息も自由に出来ない状態で、彼の意識は次第に薄らいでいった。 「嗚呼、鳶が空高く飛んでいるなあ・・。やっぱりオレは、このまま鳥たちに食われる運命だったのか・・。」 ベンチの男は、またもやページ数を確かめた。 「此処で死ぬはずが無い。いや、死んじゃいけないんだ。そうだろ?。」 話の展開が、彼の死後の世界にでも入ろうものなら、そんな荒唐無稽な話に付き合うつもりなど、男には無かった。男は現実の、今の自分が変わることの出来るかどうかの瀬戸際に立っていた。しかし、話はまたもや情景描写が淡々と続く展開になっていった。日が高く上り始め、道端に仰向けになった男を見つける人影すら無い、ただただ通り過ぎる風と、時折ざわめく雑草の音、そして、遠くの森から聞こえる鳥の鳴き声。単調な描写が続くばかりだった。喉に物を詰まらせた状態で、時間の経過だけは克明に記されているということは、最早、彼の生を望むのは無理だろうと、男も内心、諦めかけていた。そして、このまま本を閉じて、数時間を無駄に過ごしたことを後悔しながら、この場を立ち去ろうかと、そう考えていたその時、 「あ、場面が変わってる。」 男は話の急展開に気付いた。道端で倒れていた男は、意識を失っている間に、近くの民家に運び込まれているようだった。パチパチと芝の燃える囲炉裏端で、倒れていた男は気付いた。 「おや?、目覚めたかね。ナマンダブ、ナマンダブ・・。」 囲炉裏の側で、老婆が一人シバを焼べながら、男にそう話しかけた。男は訳が分からなかったが、このまま此処に居させてもらってはマズいと思い、急に体を起こそうとした。すると、 「せがれがな、アンタが地蔵様の横でぶっ倒れてるのを見つけたんじゃ。てっきり死んどるものと思うての。後でアンタを無縁仏の墓地にでも埋めようと思うてたんじゃが、生きとったんか。そりゃあ、良(え)かったの。」 老婆はそう言うと、男に優しく微笑みかけた。その笑顔に絆されて、男は地蔵の前に備えられていた団子を拝借したことを自白した。そして、申し訳なさそうに、 「運にも見放され、それでも、昨日の晩に御仏の前で発心したと思いましたが、でも、やはり供え物に手を出したから、罰が当たったんでしょう。そんなワタシをお救い下さり、どうも有り難う御座います・・。」 そう話しながら、男は涙ながらに深々と頭を下げた。すると、 「ははは。石の地蔵様は、団子なんぞ食べやせんよ。備えたのはワシじゃが、人なと、動物なと、腹を空かしとるもんが食やぁええ。それが食べ物というもんじゃ。」 老婆はそう言うと、また囲炉裏にシバを焼べた。極めてホッとした光景だった。しかし、ベンチの男には、それが不満でならなかった。 「救いはあった。でも、それだけじゃ足りない・・。」 男はまたページ数を確かめながら、この先に波乱が起きることを案に望んでいた。  そんな男の願いが通じたかのように、話は急展開を迎えた。団子を喉に詰まらせながらも、蘇生して命を救って貰った男は、その後、村の傍らに住まわしてもらいながら、畑仕事を手伝うなどして、老婆一家に恩返しをしようとした。そして、その辺りの農地が酷く荒れていて、水を引かないことには良質な作物が取れないと、一家に諭した。幸い、男には灌漑の知識があった。老婆の息子と、畑仕事が終わっては少しずつ近くにある川から水を引く工事を進め、数年後にようやく水を引くことが出来た。次第に作物の収穫量は増えていき、老婆一家は裕福になっていった。男は数年かけて完成した用水の流れを見つめながら、 「うん。これで恩返しは出来たかな・・。」 そう呟くと、こっそりと村を後にしようと、そう考えていた。ところが、長年かけて完成させた灌漑用水は、村の水分配に不公平をもたらしたと、老婆一家が槍玉に挙げられる事態が生じたのだった。男は最低限の水を確保すべく、僅かな用水だけを引いたつもりだったが、不満を募らせた村人達は、村長(むらおさ)を通じて、代官所に嘆願していたのだった。すぐさま、ことの計画を成した罪で、男は引っ立てられた。老婆一家は男を解き放つように代官に願い出たが、 「これ以上楯突くと、オマエ達もしょっ引くぞ!。」 と脅されると、男には申し訳無く思いながらも、引き下がるより他は無かった。仕方無く、男は牢の中で隅の方に蹲りながら、これまでの自身の人生を振り返った。 「嗚呼・・。結局は、こういうことになる運命だったのか。まあ、でも、例え裁きが如何なるものであっても、オレは前向きに此処までは歩んでこられた。そのことに感謝して、人生の幕を閉じるのが丁度いいのかもな。」 牢の中ではすることも無く、ただただ沙汰を待つ退屈な時間の連続だった。それでも、男はこれまで真面目に生きてきた生活を違えること無く、朝起きては手を合わせて拝み、昼間は思索に耽り、夜が来れば床に就くという、淡々とした生活を送っていた。そして、月明かりに照らされながら、今日も生き長らえたことに感謝しつつ、眠りに就こうとしたその時、 「おい、男!。表へ出ろ!。」 と、役人のぶっきら棒の声と共に、男は牢から引きずり出された。そして、取り調べの部屋へ引きずり出されると、役人は淡々と書状を読み上げた。 「明日、オマエは刑に処される。その前に、何かいい残しておくことはあるか?。」 役人は淡々とそう告げた。呆気に取られた男は、自身の最後がこのような形で訪れたことに驚きは隠せなかったが、自身への裁きが理不尽であるとか、何で自分がこんな目に遭わなければというような考えは、浮かばなかった。そして、 「委細、承知致しました。」 男はそう言うと、役人の前に両手を突いて、深々と頭を下げた。しかし、そのことを潔しとしない者が一人いた。 「そうじゃ無いだろう!。」 ベンチの男は、周囲を気にせず、声を張り上げた。そして、残りのページ数が僅かしか無いのに気付くと、このまま刑に処せられるのが、物語の男の運命であることを強く予見した。灌漑工事に没頭するあまり、村人への根回しが不十分だったのか、それとも、村に来た当初、村人に邪険にされたことが心の片隅に残っていたのか、いずれにせよ、もっと村人達に根回しをしておけば、こんなことにはならなかったはずだと、男は両手で本をギュッと握り締めながら、そう思った。そして、 「この村の治水は遅れている。そうだ!。代官に申し出て、村全体の灌漑に協力すると、そう訴えればいいんだ!。」 男は本を保ったまま、ベンチから立ち上がって、そう叫んだ。すると、次の瞬間、 「あの、お役人様。もし宜しければ、ワタシがこの村全体の治水工事を指揮を執るべく、働いて差し上げることが出来ますが?。」 と、命乞いでも無く、取引の色合いも無く、ただただ、そう答えることが自身の宿命であるかのように、男はそう告げた。 「なるほどのう・・。よし、代官殿に伝える故、暫し待て。」 そういうと、役人はその場を立ち去った。そして、公園のベンチの下には、両側が握った跡で皺の入った文庫本が落ちていた。しかし、辺りには誰もいなかった。さっきまで食い入るようにその本を読んでいた男は、もうこの世には存在していなかった。そして数時間後、ベンチの側を通りかかった一人の男が、 「あれ?、何か落ちてる・・。」 そういうと、足元から文庫本を拾い上げた。そして、その本の最後のページを開くと、灌漑工事に着手する男が、役人の陣頭指揮を執っていた。そして、何処となく満足そうに、その様子を眺めながら、缶コーヒーを煽っていた。
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