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一学期が終わった日、ユウキは白い小さな子犬を拾った。
明日から夏休み。
小学校からの帰り道、ユウキは友達のケンジとダイスケ、二人の話を上の空で聞いていた。
今年の春に3年生になったユウキは、地域の少年サッカー教室に明日から入ることになっていて、頭の中はサッカーのことでいっぱいだったからだ。
ところが、ケンジとダイスケの声よりもずっと小さくてか細いはずの鳴き声だけが、ユウキの耳に大きく飛び込んできて、ユウキの頭の中からサッカーの事が一瞬で消えてしまった。
小さな鳴き声は、道端の草むらから聞こえる。
ユウキは鳴き声がする草むらを覗き込んだ。
そこには白い子犬が一匹いた。
子犬は、小さな体を一層小さくして、体を丸めブルブルと震えていた。
近くにその子犬の母親らしき犬も、飼い主らしき姿も見当たらない。
ユウキは子犬を拾い上げた。
ブルブルと震える子犬の体の振動がユウキの全身に伝わってくる。
ユウキはぎゅっと子犬を抱きしめた。
「えー、何それ、犬?」
「どうすんの、ユウキ?」
ユウキの後ろから話しかけるケンジとダイスケをそのままにして、ユウキは子犬を抱えたまま家に向かって走りだしていた。
「助けなくちゃ!」
腕の中の子犬のことでユウキの頭はいっぱいになっていた。
※※※
ユウキの母親は犬が苦手だ。猫好きという訳でもない。
だからなのか、ユウキの家では今までペットを飼ったことがない。
父親も母親の反対を押してまでペットを飼うほどには動物に興味があるわけではないようなので、ユウキは自分からペットを飼いたいと言ったことはなかった。
でも本当は、ユウキはずっと犬が欲しかった。
だからケンジのところのラブラドールが羨ましかった。
ケンジはよく
「散歩が面倒くさい。」
と言っていたが、ユウキは犬と散歩することが夢だった。
なので、ユウキにとってこれはチャンスだった。この子犬と散歩できるかもしれない。何とか母親を説得して、何としても夢を実現したかった。
「絶対に僕が面倒みる!大事に育てるから、だから、お願いします!!」
ユウキは嫌がる母親を説得し、
何とか子犬を飼うことを許してもらうことができた。
ユウキのあまりの熱意に根負けした母親が半ばあきらめた口調で
「飼うなら、名前を決めなくちゃね。」
と言い終わるよりも前に、ユウキは速攻で答えていた。
「実は、もう考えてるんだ!!」
ユウキの笑顔がキラキラひかっている。
「どんな名前?」
母親が尋ねた。
「うどんっ!!」
ユウキは自信満々に答えた。
※※※
ユウキはうどんを大切に育てた。
動物病院にも連れていき、暖かくて清潔なベットも用意した。
体を洗ってやると、子犬の白い毛はふさふさと柔らかく一段と白さを増して輝いて見えた。
子犬はすぐに元気になり、ユウキにとてもなつくようになっていった。
「うどんは、ユウキが本当に大好きなのね。」
台所で母親が夕食の準備を用意しながら言った。台所からリビングが見える。リビングではユウキとうどんが遊んでいた。
始めは犬を飼うのを反対したものの、
母親も最近は犬を飼って良かったと思い始めている。
兄弟のいないユウキにとって、弟のような存在なのだろう。
今のところ、宣言通りにちゃんと面倒を見ているし。
父親も今さら
「俺は犬が好きだったんだ。」
などどいい、休日はユウキと一緒になて楽しそうにうどんと遊んでいる。
うどんはみんなにとって、大切な家族のひとりになっていた。
※※※
うどんは本当にユウキになついて、片時も離れたくないようだった。
それはユウキも同じで、苦手だった夏休みの自由研究を、
今年はうどんの成長日記にすることにした。
朝、早起きをして、母親と一緒にうどんを散歩に連れて行くことが
ユウキの新しい日課にもなった。
うどんと一緒に歩くことで、今まで知らなかった景色があることがわかった。
今までは通り過ぎるだけの道だったのに、そこにどんな家があって、どんなお店があってとか、どこの家に犬がいるのかとか、野良猫がよく集まる場所さえも知る事ができた。
学校の裏山の麓に小さな神社があることも知った。
朝の光は参道を明るく照らし心地いい。絶好の散歩コースだ。
他にも犬を散歩させている人たちがいて、彼らと顔見知りにもなった。
「この山は登ることもできるよ。でも、登る時の入口は神社のほうじゃないからね。あの看板小さいから、入口間違えないようにね。」
顔見知りになった親切なおばさんが教えてくれた。
神社への入口と登山道への入口。それぞれの入口が違っていて、分岐点には確かに見落としても仕方ないほどの小さな立看板がある。
「神社はこっちの入口だからね。」
親切なおばさんが念を押すように言った。
神社に着くといつもお参りをした。願い事はいつも同じだ。
「うどんが大きくなったら、一緒にサッカーができますように。」
ユウキはうどんに夢中だった。
※※※
夏休みが終わるころのある日、
晩御飯を食べながら、神妙な面持ちで母親が話を始めた。
父親の転勤でユウキの一家は引っ越しをすることになった、と言うのだ。
ユウキは始め、それが何を意味するのか分かっていなかったが、母親の話を聞きながら、だんだんと理解できた。
「ユウキ、とても残念なんだけれど、新しいおうちでは犬が飼えないのよ。」
突然の話に戸惑うユウキに、母親はやさしく諭すように続ける。
「うどんをちゃんと世話してくれる人を探そうね。」
母親のやさしさはユウキに伝わっていたが、
母親の話す内容は、ユウキにとってはとても受け入れがたいものだった。
「嫌だーーっ」
ユウキはうどんを抱えて家を飛び出した。
ユウキは子犬と一緒に学校の裏山にある神社へ向かっていた。
子犬と一緒に暮らせるように神様に頼むためだ。
「いやだ。絶対に。うどんと一緒にサッカーするんだ。どこにもやらないっ!!」
ユウキは子犬と一緒に、暗い夜の山に入っていった。
※※※
いつもは朝の明るい時間にしかきたことがない。
真っ暗な道は、まるで初めてきた場所のようによそよそしく感じられる。
ユウキは暗闇の中、もう神社についても良いころだと思った。
どこかで道を間違えたのか、いつもの祠になかなかたどり着かない。
真っ暗な森の中をうどんをかかえたままユウキはさまよい続けた。
随分と長い時間歩き続けた気がする。
多分間違って、あの親切なおばさんが言っていた登山道に入ってしまったんだろう。いいや。今はもはや、自分がいる場所が登山道であっているのかすら、分からない。
何もかもユウキには分からなかった。
地面は木の根がいたるところで邪魔をして、さ迷い歩くユウキの体力を奪っていく。疲れがユウキの足もとをふらつかせ、ユウキはそれ以上進むことが出来なくなっていた。
ユウキはうずくまって、うどんをしっかりと抱きしめた。
今のユウキにとって、唯一の救いはうどんが一緒にいてくれることだ。
きっと両親も心配しているだろう。でももう歩けない。
「ごめん、うどん。こんな目に合わせて。」
ユウキの目から涙がこぼれだした。
もう二度と両親やケンジやダイスケに会えなくなってしまったらどうしよう。
家に帰りたい。ユウキはひとりで泣き続けた。
そんなユウキを、うどんはじっと見つめた。
それからユウキの涙をぬぐうように頬をなめてから、意を決したように
ユウキの腕から飛び出し、暗い森の中を何かを目指して走り始めた。
「あ、うどん!どこに行くの?!」
ユウキはびっくりして、慌ててうどんを追いかけた。
「待って!うどん」
疲れた重い足がもつれそうになりながら、
ユウキはひたすらうどんを追いかけた。
うどんは時々、着いておいでと言わんばかりにユウキを振り返った。
うどんが走る森の奥のそのずっと先に、
さっきまではなかった明るい光が見える。
その光にむかって、うどんはまっすぐ走っていく。
やがて光にたどり着いた時、うどんが光の中に飛び込んだ。
ユウキもうどんの後に続いた。
ユウキの体が暖かい光に包まれ、そのままどこかに落ちていくような感覚だった。ユウキは手を伸ばして、同じように落ちていくうどんをつかんだ。
と同時に、あたりが一瞬で暗闇となった。
気が付くと、ユウキは神社の入口にいた。
もう辺りは明るくなっている。
はっとして、ユウキは自分の腕の中にうどんが無事にいるかを確かめた。
確かにうどんはいた。
うどんの小さな体は冷たくなっていた。
※※※※※
会社帰り、祐希はいつもより遅い時間の電車に乗り、ぼうっと車窓から暗い外の風景を眺めていた。知らない家の明かりが点々としている。
大学まで続けたサッカーは、会社に入ってからはやめていた。
今は結婚して、子供は二人。上の子は大学、下の子は高校、と同時に二人の受験生をかかえているためだろうか。最近妻はナーバスになっていて、何かとピリピリしている。祐希も会社で残業をしているほうが気楽だった。
あれ以来、犬を飼うことはなかった。
あの体験が夢であったとしても、夢でなかったとしても
あの夏にうどんが死んでしまった事実は変わらないからだ。
あの日、神社の入口で冷たくなったうどんを抱えて泣きじゃくっていたところを捜索隊に発見された。
当然、むちゃくちゃに叱られたが、
たった一晩で両親はげっそりとやつれていた。
今でも両親はうどんの話はしない。祐希に気を遣っているのだろう。
祐希自身もうどんのことを口にすることはなかった。
自分のせいで死なせてしまった、祐希はそう思い込んでいたからだ。
最近、何故かあの夏のことを思い出すことが増えていた。
祐希にとっては思い出したくない、つらい思い出なのに。
「疲れてるのかな、俺も。」
一言つぶやいて、
祐希は電車を降り、駅を出て重い足取りで家路についた。
街頭の灯りしかない暗い夜道をしばらく歩き、
角を曲がろうとしたその時、
聞き覚えのある小さなか細い声が祐希の耳に届いた。
祐希はおそるおそる声のする方を見た。
そこには、小さな白い子犬がいて、じっと祐希を見つめていた。
「うどんか?」
祐希が尋ねると、子犬が嬉しそうに勢いよくしっぽを振った。
祐希は一瞬で胸が熱くなった。
「くるか?」
手を差し伸べると、子犬はくんくんと鼻を鳴らして近寄ってきた。
祐希は子犬をそっと抱き上げて、大切に腕の中に包み込んだ。
「帰ろうな。一緒に。」
祐希は家路を急いだ。
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