君は天使じゃない

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 特定の人や物に、ある日簡単に自分の世界が塗り替えられ、狂わされたことで、その人や物のことを徹底的に調べ上げ、命を削る勢いで貢ぐことを「推し活」という。そしてただそこに存在しているだけで我々を狂わせる存在を「推し」と私たちは呼んでいる。 「はあー……。今日も『推し』が尊い……! 食べちゃいたいぐらいかわいい……!」 「きも」  推しがいる人間なら心当たりがあるだろう。本人はもちろん、その辺にいる一般人に聞かれたら異常者を見るような目で私から距離を取るであろう願望を常に心に秘めているのは推しがいる人に共通していると思っている。もちろん私の持論なのだけれど。 「あんたも懲りないよねー。あの『天使』に片思いしてるなんてさ。しかも2年も」 「違うよ凛ちゃん。彼は『推し』なの! 恋愛とは違うんだよ」 「ふーん。それ何回も言ってるけどわかんないな。そんなに誰かに熱量注いでるのに恋愛感情じゃないなんてさ」  長髪の少女はそう無表情で言い放った。いつものことだ。目の前の彼女は高橋凛。名前に負けないくらい綺麗な女の子だ。彼女と道ですれ違う異性は呼吸を忘れて目を奪われるし、彼女の知らないところで男子たちが争奪戦を繰り広げているくらい美人でモテる。同性の私でも、艶のある少し他よりも明るい髪に桃のような白い肌、ガラスのような瞳は見惚れてしまう。 『女子には妬まれ敬遠され、男子は勝手に不干渉同盟を組むし、友達がいなかったのよね』  不干渉同盟とは何かと聞いたら、抜け駆けして凛ちゃんと親しくなり、最終的に付き合うことがないように組まれた同盟らしい。それも小中ずっとその同盟は学年全体に広まっていたそうだ。そう少し寂しげな表情で話してくれたことがある。これといって特徴のない、女子の平均身長より少し高く、ヒョロガリでどこにでもいるような顔立ちをしている私には縁のない話だった。  彼女はほとんど表情が動かない上に思考もどちらかといえば論理的で、私のように漫画やアニメが好きなわけでもない。それなのに出会ってからずっと一緒にいるのは、私が特別容姿や色恋に興味がないからだろう。確かにどちらかに関心があれば彼女に対して嫉妬心も沸くことは容易に考えられる。私自身、精巧な人形のように美しい彼女の隣に立つこと自体に引け目はあった。  特に思春期真っ只中の中学生のときは特にそうだ。しかし、からかったり陰口を言っている相手を凛ちゃんが私に泣いて謝罪するまでボコボコにした。もちろん暴力は一切していない。美人が怒ると迫力があるという言葉は事実なようで、怒った凛ちゃんは背後に般若の面が浮かび上がるくらい恐ろしかった。  それ以来、私もウジウジ悩むことを辞めた。そもそも凛ちゃんは自分と比べるまでもなくかわいい。天と地ほどの差がある。ここまでくれば嫉妬心も沸かない。それに彼女は興味のないであろう私の推し活の話だって聞いてくれる。凛ちゃんは私という友人の存在を欲しているし、私は彼女を尊敬していて一緒にいて楽しい。今はこれでいいのだ。  高校に入学しても凛ちゃんの人気は凄まじかった。昔のようにわけのわからない同盟やわかりやすく避けられるようなことはない。その代わり男子には告白されるようになってしまった。けれどもそんな彼女と人気を分かつ存在がいる。 「おはよう」  それが私の「推し」である天羽真白(あもうましろ)。通称「天使」と呼ばれている男の子である。好きだ。 「ねえ聞いた!? 朝の挨拶されちゃった! これもうファンサだよね!?」 「いつも天羽は誰にだって挨拶してんじゃん」  それでもいいのだ。私はガチ恋でも同担拒否でもない。だからそんなことにいちいち不快感なんて生まれないし、クラスの中心にいる男女にも私たちのような控えめで目立たない生徒にも平等に挨拶をしてくれるのはまさに天使と呼ばれるに相応しい人柄だ。そんなところも好き。  天羽真白。天使の羽のようなふわふわな癖っ毛の持ち主。凛ちゃんよりも髪色が明るい。ほぼ茶髪だがどうやら地毛らしい。この時期になると水色のカーディガンで萌え袖をしている。そんなところもかわいい。好き。  前髪には可愛らしいキャラクターのヘアピンをいつもしている。パステルカラーのそれは彼の髪によく似合っている。嫌な感じのあざとさはない。さすが私の推し。天才的だ。  彼も人気者で、凛ちゃんが高嶺の花ならば彼はさながら愛嬌のある子猫だろうか。彼はどこにいても誰かしらが構う。今だってそうだ。机の上で腕を枕にうたた寝をしている彼に、ギャルっぽい子たちが勝手に彼の髪をいじっている。今日は櫛でとかしているだけだが、時々ヘアアイロンを使っているときもあった。  そう。私の推しは誰もが惹きつけられる魅力があるのだ。  * 「おはよう伊藤さん」  高校1年のときのことだ。中学の頃とは違い、周囲は知らない人たちばかり。凛ちゃんともクラスは離れていた。同い年の女子に比べて身長の高い私は、タケノコに囲まれたただの竹みたいだと、下手で自虐的な例えを考えたものだ。彼女たちの宝石のような輝きに隠れるように、背を丸めてなるべく話すとき以外誰とも目を合わせないように過ごしていた。  そんなときだった。友達の少ない私に、天使のように挨拶をしてくれたのは。  私の人生でこんなにかわいらしい男の子を見たのは初めてだった。もちろんこれまでも女の子に間違えられそうな、愛らしい男の子もいた。  だが話してみると趣味嗜好は男の子が好きそうな戦隊モノやバトル漫画が好きだったり、自分自身の丸みを帯びた顔に背の低さに嫌悪し悩んでいる子ばかりだった。  そんな中で天羽真白という存在は、私の頭の中をすべて書き換えてしまうような、自分の知らなかった部分をこじ開けられたような、そんな未知の感覚を与えてくれたのだ。  とにかく衝撃だった。かわいいだけじゃない。子犬のような髪は丁寧に手入れされている。私の言うことを聞かない毛とは大違いだ。女児が好きそうなキャラクターものの髪留めもよく似合っている。日焼けを知らない白い肌はきっと、日焼け止めを欠かさず塗っているのだろう。唇は何か塗っているのか血色は良く、天ぷらを食べた後みたいにプルプルだ。  彼が校内で天使と呼ばれ始めるのはそれからすぐだった。    *  高校生活2年目の冬。恋人たちも想いを燻ぶらせている人たちも友人がいる人間もどこか落ち着かなくなる時期。それがバレンタインだ。まあ私も凛ちゃんも誰かにチョコレートを渡したいという思いはなく、ただお互いに贈り合えばいいという結論に至っている。 「ごめん夏海。また呼び出しされた。これ以上無視できないからちゃんと断ってくる」 「わかった。いつも大変だよね。教室で待ってるよ」  世間で盛り上がっていることも我々には関係ない。私たちは普通の人間の輪から少し離れたところで肩を寄せ合いながら生きているのだ。だから今日もそのまま帰ろうとしたが、彼女の下駄箱の中に手紙が入っていたらしい。聞けば、ここ最近同じ人に毎日手紙をもらっているというのだ。彼女は意外と短気で、こうもしつこいと相手の恋心が完膚なきまで粉々になるまでいかに相手に脈がないかを語り続けるらしい。大体そういうとき、相手が音を上げて終わるそうだ。  外は寒い。吐いた息は白く可視化するほど気温は低い。髪を結んでいるせいで耳は外気に触れている。私は耳が冷えて頭が痛くなるのが嫌いだった。  凛ちゃんと別れて自分のクラスに戻った。他の教室にはまだ何人か残っているらしい。私の教室もまだ電気がついている。仲良くない人たちが盛り上がっていたら教室に入りずらい。もしそうなっていたら別の場所で待っていることを彼女に連絡しようと思う。友達とはテンションが上がって饒舌に喋れても、それ以外の人の前では途端に言葉が出てこない上に目も合わせられない。そんな誰に誇れるでもない、むしろ恥ずかしい人間なのだ。  扉は開いていた。恐る恐る室内を覗き込んだら、予想していなかった人物がそこにいた。 「あれ、伊藤さん?」 「っ……! 天羽君」  油断していた。彼は男女問わずチョコレートをたくさんもらっていた。誰に対しても笑顔で感謝の言葉をそのかわいらしい口から発していた。しかも彼は、チョコを渡した人間だけではなく、クラス全員にチョコを渡してくれたのだ。もちろん私もその中に含まれている。こんな挨拶をするだけの関係で、話しかけたとしても愛想よく話すことができない私にも笑顔でチョコレートを渡してくれたのだから、やっぱり私の推しは天使だと思う。 「伊藤さんも残ってたんだね」 「う、うん……。あ、天羽君も残ってたんだね。なんていうか、びっくりした」  声が上ずって上手く話すことができない。それはいつものことだけれど、今は推しの前で、自分の気持ち悪さがより滲み出ている気がする。  私は推しとは干渉したくない派閥の人間だ。推しを取り巻く尊い環境に、不純物の権化のような存在を置きたくない。推しの視界にも入りたくもない。  もちろん、毎朝の挨拶のようなファンサは嬉しい。地獄に垂れ落ちてきた蜘蛛の糸のようだと思う。だが、こちらからは干渉したくはないし、認識もクラスメイトの内の1人であってほしい。道端に咲く花のように、ただ陰ながら推しているだけで十分なのだ。  なのに今推しの目の前に座っている。よくある推しとひょんなことから急接近しちゃって——。という漫画のような展開だが、嬉しいというよりただただ畏れ多い。心臓は自分の体をぶち破るんじゃないかというくらい暴れている。 「ぼくは人を待っているんだ。伊藤さんは?」 「わ、私も、人を待ってて……」 「もしかして高橋さん? 彼女、すごいモテるよね」 「う、うん。でも、天羽君もモテる、でしょ……?」 「ありがとう。でもさ、どんなにモテても、好きな人に振り向いてもらえないなら虚しいだけだよね」  西日が私たちを照らしている。今はもう冬だから日が落ちるのも早い。外はもう暗くなってきている。夕焼け色に染まった彼の横顔は日中に見る彼とはまた違った印象だ。大人っぽいというべきか、それとも外国の絵画に出てきそうな神々しさがそこにあった。  その憂いを帯びた表情は、なんとなく見てはいけないような気がした。それでも目が奪われてじっと見てしまう。緊張とはまた別の脈の主張だ。不思議と悪くない。 「ぁ……。あも——」 「真白お待たせー!」 「全然待ってないよ」  呼び捨てだ。それも下の名前で。彼はいつも名字に「さん」付けなのに。昔熱が出たときに飲んだ漢方のような苦みが口に広がる。なぜだろう。自分でもわからない。ただ今はこの2人を視界に入れたくはないのだ。せっかくの美男美女の絡みなのに。  日野明穂。彼女は彼の幼馴染なのだそうだ。1年のときから2人で話していたところも、一緒に帰っているところも見てきた。客観的に見て彼女は、凛ちゃんのような洗練された百合の花のような美しさも、彼のような小動物を彷彿させるようなかわいらしさも持ち合わせてはいない。  それでも周囲を照らすような、私にとっては失明しそうで吐き気を催すくらい快活な人だ。やはり笑顔は人を簡単に魅力的にするらしい。 「真白はいっつもそう言うじゃん!」 「そんなことないよ」 「もーまたそんなこと言ってー。てかごめん! あともう少しだけ待っててくれない? まだ部活が終わらないみたいでさ」 「ぼくは大丈夫。明穂の好きな人に想いが届くといいね」 「~~っ! 真白ありがとう! 大好き!」 「ぼくも」  目の前で熱い抱擁が交わされる。印象的だったのは、彼女はまさしく弟か親友に対する愛情表現だったのに対して、彼の方は相手から顔が見えなくなった一瞬だけ、笑顔に寂しさが滲んでいた。それを見て、なぜだか私も胸が苦しくなる。それこそ物理的に心臓が縄でキツく縛られているみたいに。 「じゃあまたあとで! 邪魔しちゃってごめんなさい!」  台風のように彼女はここから去ってしまった。帰りがけに完全にモブだった私を気に掛けるその精神が今は憎い。  途端に教室は静まり返る。目の前で俯く彼にかける言葉を、私は持っていなかった。 「ぼくね、明穂のことが好きなんだ。さっきのでバレバレだったと思うけど」 「そ、それは……」  言い淀んだ私を前に彼は机にかけてあった鞄の中からチョコを取り出した。彼自身が作ったものではない。かわいらしくラッピングされたチョコレートだ。それに小さなメッセージカードが挟まれている。文字は丸く、「真白へ」と書いてある。誰が贈ったかは明白だった。 「ずっと好きだったんだ。明穂とは幼馴染で昔から一緒だった。ぼくがこんな見た目だから、明穂からしてみれば弟とか、着せ替え人形とか、恋バナとか美容の話ができる友達としか見てないんだろうね」  話しているうちに手に力が入っているのか、包装が少しぐちゃぐちゃになる。 「ぼくはもうずっと友達としてなんて見れないのに」  下を向いていて顔は見えない。声は淡々としていて、もうずっとその気持ちを秘めて、傍観してきたのだと悟った。 「やっぱりこんなナリじゃ恋愛対象として見れないのかな」 「そ、そんなこと、ないよ……!」  悔しかった。こんな魅力的な人がずっと隣にいて好きにならないあの女にも、自分自身に対して自信を無くしている彼も。 「天羽君は、いい人だと思う……! 自分の手入れも怠らないで、いつ見てもかわいいって、私も思うもん……! み、見た目だけじゃないよ! いつも私なんかにも挨拶してくれるし、今日だってチョコをくれて、優しい人だって、ちゃんとみんなに伝わってるよ……! だ、だから、その、そんな悲しい顔をしないで」  私の語彙力じゃ上手く彼の魅力を伝えることができない。私はなんて出来損ないなんだろう。  私は普段友達以外にこんな畳みかけるように話すなんてことはしないから、彼は驚いた顔をしている。そのままでも大きな瞳が見開かれていた。口もポカンと小さく開かれていて、そんな表情もかわいいと思う。 「なんて、私が言っても虚しいだけだし、気持ち悪いよね……」 「そんなことないよ。ありがとう。ごめんね。伊藤さんこそびっくりしたよね。急にこんなこと言いだして」 「そ、それは大丈夫……」  ついつい熱くなってしまった。急に語りだすなんてオタクの悪いところだと自省する。そんな気持ち悪い私でも、笑ってお礼を言う彼のなんて天使なことか。 「明穂はサッカー部のマネージャーでね、そこの先輩に恋をしているんだ」 「うん」 「明穂はかわいくて性格もいいから、きっと今日先輩と付き合うんだろうな」  彼はそう言って小さく笑った。誰を恨むでもなく、微笑む彼は人間じゃないみたいだ。私なら、そう聖人のように優しく笑うなんてことはできない。  ズキズキと私の胸は痛む。頑張れば吐けるのではないかと思うくらい苦しい。今すぐ駆け出して吐きたいが、まだ彼の言葉を聞いていたい。たとえこの先、今よりもこの感情の荒波に苛まれようとも。 「ぼくはね、先輩の名前も知らないんだ。有名な先輩らしいけど、知りたくなくて脳が拒否してるのかな」 「うん」 「まあでも聞けないんだよね。明穂があんなに幸せそうに先輩の話をするからさ、これ以上聞いたらぼくがぼくじゃなくなるみたいな、なんていうか、壊れちゃいそうで」  天使の独白。気づけば外からは声が聞こえなくなっていた。日野明穂ももうすぐこっちに戻ってくるだろう。彼の気持ちも知らないで、りんごのように頬を染めながら。 「明穂はぼくの気持なんか知りもしない。何も知らないんだ。そこになんの問題もないんだけどね」 「うん」 「ねえ伊藤さん。ここからは誰にも言わないでほしいんだけどさ」 「大丈夫。誰にも言わないよ」  真剣な顔でそう伝えた。今まで話した言葉は彼の本心のほんの1部なのだろう。私も彼の誠意に応えたい。すでに心臓はナイフでグサグサと刺されている。きっと私の心臓がぬいぐるみだったら、刺し傷から綿が溢れ出しているだろう。 「ありがとう。本当はさ、全部ぶちまけたいんだ。が好きだって。それを聞いてびっくりして悩んで苦しめばいいのにって、ぼくが想ってきた時間と同じくらい、ぼくのことを考えればいいのにって」  そう言って彼は笑った。普段の教室で見せる表情とは違う。天使の微笑みではない。作り物のような顔がボロボロと崩れ去って、ようやく人間味のある顔が見えた。瞳は涙で潤んでいるのか、いつもより輝いている。星空を閉じ込めたみたいだ。笑った口も年相応の少年のようで、新しい一面を見た。  私の心臓は今も鳴り続けている。「推し」に向ける感情と、恋愛感情の違いがわからないと凛ちゃんは言っていた。私もわからなかった。けど今ならわかる。「推し」は私にとって一筋の光だ。砂漠の中のオアシスのように、乾ききった人生に潤いを与えてくれる。  対して恋愛感情はどうだろうか。それが芽生えるきっかけなんて、少女漫画のようにロマンチックではない。些細なことで人間は恋に落ちるのだ。他人に理解されずとも、当人にとっては隕石が落ちてきたときくらい衝撃的なのだ。そして恋愛感情は綺麗なものばかりではない。烏滸がましい立場であろうとも嫉妬心が生まれる。その人を独占したいとも思う。具体的には相手の意識、見せる表情、その未来だって。  独り占めしたいと思った。天使な彼も、その仮面が崩れ去った素の彼自身も。冴えない私は、「私にしておきなよ」なんて強気な言葉は言えないけれど。 「でもね、やっぱり上手くいけばいいのになって思うんだよ。苦しい。苦しいんだけどね。幸せになってほしいんだ。矛盾してるよね」  チャイムが鳴る。完全下校時刻を知らせる鐘だ。外はもう完全に暗くなっていて、教室を照らすこともなくなっていた。暗くても、目の前の彼が笑顔なのはよくわかる。聞いているこっちが苦しくなるほどの告白だった。 「じゃあぼくはもう暗いし明穂を迎えに行くよ。伊藤さんは?」 「ぁ……。私はここで凛ちゃんが来るのを待つよ」 「そっか。じゃあ帰りは危ないから気を付けて。またね」 「あ、天羽君!」  出て行ってしまう彼を引き留めた。 「わ、私は、天羽君の恋を応援してるから!」 「ありがとう。伊藤さんこそ優しいね。もっとそうやってクラスメイトと話してみればいいのにって今日思ったよ」  穏やかに微笑んで彼は去ってしまった。また彼は天使の仮面を被って彼女に会いに行くのだろう。  私は椅子に座りなおした。そのまま暗闇の中で目を瞑る。青いりんごが徐々に赤く色づいて熟すように、私の中でいつの間にか彼への思いがいつの間にか恋心へ変わっていっていたらしい。  自覚なんてしたくなかった。そのせいで私は今も苦しい。ここから動けないでいる。  簡単な話だ。失恋することを脈がないと言う。私の恋は気づいたときにはもう死体だったのだ。ならば気づかないまま骨になるまで放置していたかった。そうして何十年もたったある日、ようやくこの気持ちが恋心だったのだと笑って語れれば良かったのに。  廊下から足音が聞こえる。きっと凛ちゃんが歩いてきているのだろう。気が緩んで涙が目からこぼれる。教室は寒くて、冷えた頬にとってはこの液体は温かい。  彼はもう日野明穂と合流している頃だろう。私は彼の恋を応援している。彼も今の私のようにこんな誰にも見せられないような、醜く哀れな化け物を心の内に飼い慣らしているのだろうか。  私は恋をしている。天使なんかじゃない、人間臭い彼に、ずっと。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加