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「ごめんなさい。お肉焼きすぎちゃって」
それからというもの、私は精一杯日々の家事に励んだ。
朝早く、証券会社に勤めているという彼を見送り、掃除と洗濯をして、買い物に行って。
特に、以前好きだったとされる料理には力を入れて勉強した。
だけど中身は17歳の小娘だから、そうすぐには上達しない。
「いや、美味いよ。ありがとう」
それでも嬉しそうに微笑んで食事をしてくれる先輩。こんなに優しくて素敵な人、どうして私は裏切ってしまったのだろう。
……好きな人ができたって、本当のこと?
いつしかそんな疑問が浮かんで、13年後の私が何故離婚を選んだのかが気になり始めた。
現在の自分のものとされるスマホをくまなく確認しても、男性とやりとりしている形跡は一切ない。
どうやら私はここ何年か専業主婦だったらしく、交友関係も狭かった。
ただひとつ、気がかりなことがある。
お財布に入っていた、カフェのレシート。一ヶ月ごとに、決まって16時頃にコーヒーを注文している。
もしかしたらここで“好きな人”と会っていたのではないかと、それならばきちんと別れを告げて終わらせるべきだと考え、レシートに記された前回の日付からちょうど一ヶ月後の16時、カフェに行ってみることにした。
カフェは自宅の最寄り駅から電車で30分ほどの、閑散とした駅の近くにあった。
何の変哲もない、こじんまりしたスーパーがある静かな駅前。
ロータリーからは大学病院へのバスが出ているくらいで、特に用がある人しか来ないようなところだ。
……先輩にバレない為にも、敢えてひっそりとした場所を選んだの?
なんだかいよいよ自分のことが信じられなくなり、呆れるというよりもゾッとした。
「いらっしゃいませ」
恐る恐る入店し、店内を見渡す。ソファー席で談笑する中年の女性達、カウンター席で一人ノートPCを操作している青年。奥の丸テーブルの席では、老夫婦が静かにお茶を楽しんでいた。
浮気相手と思われる男性は見つからない。
「いつものホットコーヒーでいいですか?」
顔見知りになっていたのか、スタッフの若い女性に微笑まれ頷く。そして勇気を出して尋ねた。
「ごめんなさい。変なこと聞きますが、私っていつも誰かとここに来てましたか?」
案の定、女性はキョトンとしている。不審に思われても仕方ない。しかし彼女は律儀に接客スマイルを浮かべ言った。
「いえ、いつもお一人でしたよ」
「……そうですか」
拍子抜けしながら、ホットコーヒーを受け取り窓際の席に着く。
安堵するも、益々自分の行動を不思議に思った。
……どうして一ヶ月に一度、ここでコーヒーを飲んでいたんだろう。
「いらっしゃいませ」
「……ホットコーヒーください」
聞き慣れた声に驚いて顔を上げる。先輩は気まずそうにこちらを見て、ホットコーヒーを私の席に運んだ。
「……あとつけるなんて、気色悪いことしてすまない。どうしても気になって」
少し顔を赤らめて、伏し目がちになる彼に胸が高鳴る。やっぱり私は彼のことが好きだと、心の底から思い知る。
「ううん。来てくれて嬉しい」
私達は微笑み合ってコーヒーを啜る。何気ないひとときがこれ以上ないくらい幸せで、目の前に彼がいること自体が奇跡のように思える。
……それなのに、私はどうして。
「私、本当に祥悟さんのことが好き。高校生の時、ずっと片想いしてたんだよ。毎日日記にあなたのことばかり書いて。想いが通じますようにって、神様にお願いし続けた」
言葉と一緒に、みるみるうちに涙が溢れ出る。
ただ、傍にいられるだけで幸せで。こんなふうに、愛してもらえるなんて思いもしなかったから。
「こんなに好きなのに、どうして私、裏切っちゃったのかな」
肩を震わせる私の手を、先輩はそっと握ってくれる。
「……もう一度始めればいい。俺の気持ちは変わらないから」
真っ直ぐな、だけど包み込むような優しい眼差しに涙が止まらない。彼の手を強く握り返す。
……二度と彼を傷つけるようなことはしない。
この奇跡を噛みしめて、一生大切にしていく。
そう心に誓って、彼の微笑みを目に焼きつけていた。
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