92人が本棚に入れています
本棚に追加
「ただいま」
帰宅するなり彼は目を丸くした。
「すごいご馳走。今日何かあったっけ?」
下手なりに一生懸命作った料理達をテーブルに並べ、私達は向かい合って乾杯する。
「美味しいよ」
味が濃いはずの煮物を美味しそうに食べる祥悟を見て、涙が出そうになるのを堪えた。
彼が私の料理を食べてくれるのはこれで最後。
目に焼きつけるようにじっと見つめて、目が合う度に微笑む。
「祥悟、あのね」
心が軋む音が、聞こえない振りをした。
真っ直ぐに彼を見つめ、精一杯の笑顔を浮かべる。
「ごめん。やっぱり離婚して」
祥悟は呆然と固まって、笑顔を失う。
「どうしても好きな人が忘れられない」
どうか彼が、最低な私を大嫌いになりますように。それだけが希望だった。
膝の上で拳を握り締め、震えないように身体中に力を込める。
「……嫌だ」
だけど彼の返事を聞いた瞬間、驚いて全身の力が抜けていくのだった。
「絶対離婚しない」
「祥悟……」
どうして? 一度は承諾してくれたのに。
「最初は、それでみのりが幸せになるならって諦めた。でももう一度やり直すうちに、どうしても俺が幸せにしたいって思ったんだ」
彼の柔らかな笑みが私を包み込むように、心に纏った鎧を崩壊させていく。
「何があってもみのりのことを愛してる。また俺に気持ちが向くように努力するから」
溢れる涙を抑えきれず、ひたすら子供のように泣いていた。
「これからも、二人で生きていこう?」
そんな言葉が世界一残酷に響き、だけど私を世界一の幸せ者にした。
「……私、病気なのっ……! 記憶が、……どんどん……なくなって」
いつしか彼の瞳からも涙が流れ、私達は抱き締めあって泣いていた。
「もうすぐ……全部……忘れちゃう」
「大丈夫だよ」
「祥悟が……不幸にっ」
「ならないよ」
祥悟は私を諭すように、ずっと背中を優しく撫でてくれる。
「忘れたっていい。毎日、一から始めればいい」
そう笑う祥悟の顔は、新入生の案内をしてくれた先輩の笑顔そのものだった。
「……先輩、ずっと好きでした」
「俺も好きだよ」
「日記に全部書いてある」
「俺にも読ませてくれる?」
明日、祥悟を誘って、二人でノートを買いに行きたい。
できれば白い合皮のカバーの、小さな日記帳。
忘れても忘れても、消えていかないように。
次の一冊に、丁寧に記していこう。
二人で生みだした煌めきを、そっと大切に保管するように。
【おしまい】
最初のコメントを投稿しよう!