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動けない。寒い。苦しい。意識が遠のいていく中で、教科書よりも、何よりも、美音が気にしたのが『遠い空でいつも』だった。
当時、美音は本が好きだった。
今も好きだが、もっと純粋な、単に読むのが好きということで、知識や読み方に左右されない真っ白な『好き』だったと思う。
その本は本屋で平積みにされていて、美音は憧れる読書家たちの仲間になりたかった。新刊を読んで、感想をSNSで呟いてみたかった。
だから母に頑張っておねだりをして、新品ピカピカの『遠い空でいつも』を買ってもらったのだ。
母は本のあらすじを読んで『大人の本ね』と笑っていたから、読むのがなんだかもったいなくて、美音はそれを両手で抱えて歩いていた。
だから川の底で『遠い空でいつも』だけが、美音の手から離れていって……。
こぽこぽ。
ごぼごぼ。
水が。 底が。
青が。 雫が。
揺れる。
揺れる。
あの日は美音が友達と、この『遠い空でいつも』を失った日。川へ突き落された美音を、水の向こうで、みんなが笑っていて……。
「あらすじは、なんだったかなぁ。忘れちゃったけど、面白かったよ」
斎藤の声が美音の耳を素通りしていく。
本はひどい状態だった。かろうじてカバーは生き残っているが、一度水没したらしく、ページが波打っている。さらに表紙を開けると、サラサラッ、と砂の様なものがこぼれた。
そして栞。この栞に、美音は見覚えがあった。実家近くのスーパーに併設されていた本屋が、独自に扱っている栞だ。
美音は自分の妄想めいた考えに首を横に振る。
まさかこの本が、あの日落とした自分の本だなんていう証拠は、どこにもない。
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