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彩矢は、壁にもたれて、絵本を音読していた。タイトルは「ライオンとあめ」。
「そうだ!」のところで、彩矢の胸は、とくんと跳ねる。そして、次のページをめくるまで、少し時間をもうけるのだった。
肌身離さず持っているので、ハードカバーはしおれて、へにゃへにゃになっている。黄色と緑と青の表紙は、本当は明るい配色なのに、黒ずんでどんよりした雰囲気だ。草原にけぶる雨ではなく、アスファルトを打ち付ける雨のようだ。
絵本の中身も、表紙の惨状とさして変わらない。表紙ほど露骨ではないものの、指の触れる部分は、手垢で黄ばんでしまっている。
だけど、そんなことは、彩矢にとってどうでもよかった。
もう何度も声に出して読んできたから、つまることなくすらすら読める。そのことが彩矢にはたまらなく嬉しかったのだ。
「だって私、五歳なんだから」
一ヶ月前に、彩矢は五歳になったのだった。
少しずつできることや、分かることが増えていくのを、彩矢は自分のことながらわくわくして見守っていた。
例えば、ちょっと前までは、ライオンがどうして、たてがみを自慢したいのか分からなかった。
水たまりを鏡の代わりに、櫛で髪をとかすライオンの絵。
ライオンの表情は、自信に溢れて満足気だけど、ちょっぴり不満そうにも見えた。
ライオンは寂しかったのだ。自慢のたてがみを話題にすることで、友達を作りたかったのだ。
「あら」
彩矢は、ライオンの持つ櫛を、毎回指でなぞってきたことを思い出して、恥ずかしくなった。
茶色が縦ににじんでいて、せっかくの黄金のたてがみまで、侵食されてしまっている。
彩矢のいる場所はマンションの一室だ。薄い壁なので、断続的に四方から物音がする。その生活音は、暗く淀んだ空間によく響く。彩矢は、まるで雨に打たれているような寂しさを感じていた。
素敵なたてがみを備え、大きな体をほこるライオン。全く異なる存在だが、彩矢には自分のことのように思えた。
水たまり越しに、ライオンと目を合わせる。大好きな絵本を手に持っても、心は晴れやかでない。彩矢は、心につっかえたわだかまりの正体を考えようとして首を振った。
いろいろなことを誤魔化すように、小さな声で「そうだ!」をもう一度つぶやく。ページをめくった。
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