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1:はらぺこ吸血鬼
一日の労働を終え、最初にファリエが感じたのはとんでもない飢餓感、であった。
制服越しに薄い腹を押さえ、小さく吐息をこぼす。同時に細い肩からも力が抜けた。
向かいの席に座る先輩のヘイデンが、眼鏡の奥にある緑の瞳をぱちくりさせて彼女を見つめる。
「どうしたの、ファリエちゃん?」
「え?」
「なんだか具合悪いそうだけど……あ、今日魔術いっぱい使ったから、ぐったりしてる?」
「ええっと、そうですね……」
矢継ぎ早に彼女の具合を案じ、察し、そして窺う彼の様子に、ファリエは弱々しく微笑んだ。魔術師としてファリエの教育係でもあった彼は、仕事中はとても頼りになるのだが、おっとりした口調通り心配性で繊細なのだ。
親元を離れて暮らすファリエにとって、まるで兄のように接してくれる彼の存在は、いつもならばとても頼もしい。
とはいえ人生最大級の空腹に襲われている現在、そのような個人的事情を伝えるのは大層恥ずかしかった。「お腹が減って力が出ない」という悩みを職場の先輩に開示することは、十九歳の小心者な乙女にとっては途方もない勇気を要するのだ。
そもそも彼女の場合、彼に伝えたところで根本的解決にもならないのだけれど。
とりあえず、彼の指摘通り疲れたのだ、と取り繕おうとして――
「あ! そうだった……ファリエちゃん昨日、空き巣に入られたんだよね?」
閃いた彼が、先に次の手を打った。
「え、あ、はいっ」
飢餓の遠因に触れられ、ついかすかに背中を伸ばす。落ち着かず、あごの位置で切りそろえた銀髪の毛先も指に絡ませた。
もじもじする仕草で何かを察したらしい。
ヘイデンの温和な顔が、なんだか泣きそうな表情に変わる。自分の家が空き巣被害に遭ったわけでもないのに。
「そうだよね、一人暮らしだから家に帰るの、不安だよね。でもファリエちゃんの実家、遠かったよね……」
「そう、ですね。片道で、半日ぐらいかかっちゃいます」
「だよねー……」
しみじみうなずいた彼は、人差し指を立てて提案した。
「あのさ。もし帰るのが怖かったら、僕の彼女の家に泊まる? たぶんファリエちゃんなら、大歓迎だと思うし」
「いえいえっ、そんな駄目です! わたしでしたら、だっ、大丈夫ですから!」
ヘイデンの恋人もとい婚約者とは、二度ほど顔を合わせたことはある。たしかに彼とお似合いの、優しそうな女性だった。
しかし顔合わせと言っても、飲み会で泥酔しきった彼を回収しに来てくれた時の出来事なので。お互い、挨拶程度しか交わしていないのだ。
そんなほぼ他人のお宅で、ご厄介になれるわけがない。そもそもファリエは空き巣被害に怒り、落胆こそしたものの、恐怖心は覚えていない。
というよりも、怯える暇がなかっただけかもしれないが。
「お、大家さんが鍵も替えてくれましたし、いざとなれば魔術で応戦できますし! わたしだって、自警団のはしくれなんですから!」
「ほんと? 大丈夫? 無理してない?」
「大丈夫ですよ!」
腹に力を込めながら、ヘイデンを押しとどめる。彼は今にも婚約者に連絡を入れて、ファリエを連れて行きそうな様子だった。こういう時の彼は、判断も行動も早い。
空腹で死にそうならば、目の前のお人よし先輩から金でも借りて、さっさと何か食べればいいのに、と思う者もいるかもしれない。
しかし生憎、ファリエはそれが出来ない身の上である。
彼女はこのニーマ市という、人間たちのコミュニティで暮らす唯一の吸血鬼なのだ。
食料はもちろん生物の血液であり、人間の食料も消化自体は可能なものの、栄養はほぼ取れない。もちろん満腹感も感じられない。
吸血鬼と人間のご先祖様たちは、捕食者と被捕食者の関係性で色々と争い合っていたようだ。
しかし現在はというと、それぞれの生活圏をやんわり分けることで無事、共存関係を達成している。
これには疑似血液という大変便利な代物が発明されたことも、大きく貢献していた。疑似血液があれば生き血要らずで暮らせるし、何よりも味が安定しているのだ。
生き血の場合は対象の年齢や健康状態云々により、その味が大きく左右されてしまう。
疑似血液の、安定してそれなりに美味な点も吸血鬼たちから喜ばれた。今ではわざわざ他の生物の血を吸う行為は野蛮だと考えられるほどに、疑似血液は広く普及している。
もちろん現代っ子のファリエも疑似血液を常食しており――そしてこの度、この食料を盗まれてしまったのだ。もちろん空き巣によって。
ファリエが吸血鬼の集落内で暮らしていれば、空き巣に入られたとて、さほど問題でもなかった。
どんな小さな店でも、疑似血液パックは常時売られており、なんだったらご近所さんから譲ってもらうことも容易である。吸血鬼は空腹状態が続くと捕食者としての本能に負けてしまい、周囲の生命を襲いかねない。
なので見知らぬ隣人であっても、血のお裾分けには協力的なのだ。
だが、人間のコミュニティにおいて状況は一変し、お役所から定期支給されるものだけが頼りの綱となる。
だって客が、ファリエしかいないのだ。そんなか細過ぎる固定客のために、わざわざ疑似血液を仕入れてくれる民間の商店なんて、あるはずがない。
人間社会で暮らすうえでの、食料不足という危険性を把握していたファリエは、疑似血液を金庫に保管していた。就職祝いに父が買ってくれた、防火性・防水性および、耐久性にも優れた逸品だ。
疑似血液は常温保存が可能なので、火事や自然災害に備えて金庫で保管することは妙案だと思っていたのに。
(まさか、金品だと間違えられて、金庫ごと盗まれちゃうだなんて)
厳重保管が、完全に裏目に出てしまったのだ。
ヘイデン以外の同僚からも顔色の悪さに気付かれ、体調や気疲れを心配される中、胸の内でそう嘆いた。
考えようによっては、立派な金庫=金目のものがザックザクと考えた犯罪者に意趣返しが出来たわけだが、あまりにも代償が大きすぎる。
どうせなら本当に無用の長物の、生ゴミや犬のウンコでも入れておくべきだった。犬は飼っていないし、ファリエは猫派だけれども。
いや、そもそもファリエに、ウンコを自宅で保管する趣味はない。何故空き巣への嫌がらせのためだけに、ウンコを家に置くなどという考えに至るのだろうか。
(だめ……お腹が空きすぎて、頭がおかしくなってるかも。落ち着いて、わたし……ウンコを置く防犯対策なんて、聞いたことないし汚いでしょ!)
こちらの身を案じてくれる同僚の皆にお礼を伝えつつ、こめかみを揉んだ。
ファリエはこの街の自警団に所属しているので、盗難事件も捜査し解決する立場にいる。
つまりこういった事件に関連する、諸手続きには慣れていた。
なので空き巣被害と、盗まれたブツが分かるや否や、即座に市役所へ出向いて疑似血液の臨時支給も申請済みである。
ちなみに空き巣に気付いたのは昨夜の帰宅直後、市役所に突撃したのは今朝の始業時間ピッタリだった。実に仕事が早い。
市役所の担当者からは
「現在市内に在庫がありませんが、隣町にはあるようです。明日には役所に届くはずなので、届き次第またご連絡しますね」
という、ほどほどに色よい返事も貰っていたので、今日の昼まではあまり深刻に考えていなかった。
一日断食程度ならどうにか耐えられる、と。
しかし、今日もファリエの運は最悪だったようだ。
街を巡回中に不良グループ同士のかなり大規模な乱闘を発見し、彼らを捕獲するために魔術を使っての大立ち回りをする羽目となったのだ。
非行キッズはお馬鹿な割に威勢と体力がみなぎっているため、ファリエとヘイデンの二人がかりだというのに、追いかけるだけで妙に苦労した。
彼らはニーマ市生まれ・育ちの地元っ子なため、土地勘が優れている点も捕獲の難易度を上げただろう。
結果、普段の業務以上に魔力を消耗し、燃料切れ状態となっている。
このままでは古の吸血鬼同様、見境なく同僚を襲ってしまいそうで自分が怖い。
ファリエはつい、帰り支度を始めるヘイデンを見上げた。たれ目がちな青い瞳に、壮絶な悲壮感を込めて。
「ヘイデンさん……」
「うん? どうしたの……え、本当にどうしたの。なんか今にも、首吊りそうな面構えだよ?」
「もしわたしが人の心を失ったら、躊躇なく殴ってくださいね……最悪、半殺しにしていただいても大丈夫なので。吸血鬼、頑丈ですから」
「なんで!? やだよ、怖いよ!」
空腹事情も知らされていないのに、急に暴力許可を与えられ、ヘイデンはぶんぶんと首を振って拒否した。
「ファリエちゃん、絶対疲れてるから! ほら、早く帰ろうよ!」
彼女の後ろへ回り込んだヘイデンに立たされるも、めまいを覚えた。体が傾く寸前で、どうにかこらえる。
「はい……すみません、変なこと言っちゃって。じゃあ、片付けして帰りますので……」
やんわりと、軽く彼の手を押しとどめつつ、どうにか笑顔を貼り付けた。
ヘイデンが眉尻を下げて、ファリエの顔をのぞきこむ。
「やっぱり元気ないよね? 片付け、手伝うよ?」
「いえいえ、後は書類を戻すぐらいですし」
「そう? 出来るだけ早く帰るんだよ?」
「はい」
力を込めてうなずけば、ヘイデンも納得したらしい。何度か彼女を振り返りつつも、オフィスを出て行った。
へにょりと笑って手を振り、ファリエは彼を見送る。
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