バロメッツの森で

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 森の仕事を教えてもらえるようになって数年が経った。先生は頻繁に体調を崩すようになっていた。御用聞きにやってくるジーンさんと共に医者が顔を出すようになり、診察の後には薬が処方された。  先生は一日のほとんどをベッドの上で過ごすようになり、代わりに僕が森に出た。バロメッツの森。その深部に向かうほど、土地が異様な生命力に満ち溢れていることがわかった。僕は日々の作業をこなしながら、森を守りながら生きていくという事の意味を、深く考えるようになった。  ある日の事だった。  数日前から微熱が続いていた先生の体調が急激に悪化し、苦しむようになった。医者にもらっていた薬を煎じてみたが、まるで効果が無い。額に脂汗を浮かべて苦悶する先生を前に、僕は居ても立っても居られなくなった。  村に行こう。そして医者を呼んでこよう。  身支度を始めた僕に、先生は声をかけた。 「……待って、トム。どこに行くの」 「村だよ。医者を呼んでくる。大体の場所はわかるから」 「行かなくていい。お願いだからそこにいて。手を握っていてほしいの」  先生は痩せ細った手を伸ばし、僕の腕を取ろうとした。僕はその手を握り、ゆっくりとベッドに差し戻した。 「すぐに帰ってくるから心配しないで。診て貰えばきっと具合も良くなるよ」  ひどく弱った様子の先生に背を向け、僕は扉に手をかけた。家を離れて村に向かうのは初めての事だった。不安はあったけれど、先生の体調には変えられないと思っていた。 「……違う、無理なのよ、トム」  先生の声が震えている。不安なのだろう、無理もない。けれど医者に来てもらうには、村まで呼びに行くほか方法がないのだ。僕は心を鬼にして、家の外へと足を踏み出した。  異変に気が付いたのは、家を出て少し経った頃だった。森の反対側に向けて踏み出した僕の脚は、突然ひどい痙攣を始めた。自分の身体が起こした想定外の挙動に驚いた次の瞬間、強烈な感情が僕の中に生まれていた。  それは「帰りたい」という思いだった。  先生を助けたい。村に急がなくてはならない。理屈は分かっているのに、心と身体がまるで反対の方を向いてしまう。痙攣した脚はくるりと踵を返し、逆向きに歩き出そうとした。 「だ、ダメだっ!」  僕はその場に蹲り、抵抗を試みた。  違う、そっちじゃない。村に向かって医者を呼ぶんだ!  自分に何度も言い聞かせ、僕はゆっくりと顔を上げた。視界に森が映った。背にして歩いてきたはずのバロメッツの森。  ああ、と吐息が漏れた。  次の瞬間、僕は理解していた。  もうこれ以上進めない。離れることが出来ない。僕は、あの母なる森から。  嗚咽が漏れ出していた。涙を流し、何度も拳を地面に叩きつけた。相反する二つの感情が僕の中にあり、その片方はもはや消えゆく灯火でしかなかった。  僕は、涙と鼻水でぐずぐずになった顔を拭うことすらせずに立ち上がった。 そして歩いてきた道をゆっくりと引き返した。
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