バロメッツの森で

4/7
前へ
/7ページ
次へ
 朝靄の中、先生と僕は森の奥へ歩いていた。傍には首輪を紐で繋いだ羊のドリーがいる。いつも一人で森へと向かう先生が、僕達と一緒に森へ向かうと言った時は正直驚いた。同時に少し嬉しかった。認めてもらえたような気がしたからだ。  老人はまだ眠っている。先生はその間に大切な仕事を済ませると言っていた。 「トム、あなたにも見てほしいの」  支度をしながら先生は言った。その手には金属製の鉈が握られている。 「森に人を立ち入らせてはならない。地に屍をうずめてはならない」  教えてくれた掟の言葉だ。 「その理由を知っておいて欲しいから」  先生はいつもよりずっと口数が少なかった。僕はドリーの首の毛を触りながら、先生の後ろをついて歩いた。  森の中は思ったほど積雪がひどくなく、むしろ平地よりずっと歩きやすかった。気のせいか、少し暖かいように思える。  いや、それは気のせいではなかった。森の奥に進むにつれ、僕の身体はじんわりと汗ばんでいった。雪が溶けている。季節外れな緑色の葉が辺りに蔓延っているのが見えた。 「……ここね」  開けた場所に出た。ぼんやりと暖かい光で満ちている。足元の土はふかふかと柔らかく、畑にするのに丁度いい具合だなと僕は思った。 「トム、ドリーをこちらに」  先生は手を伸ばした。言われるがままに僕は手綱を渡す。ドリーがめええと鳴いた。黒く潤んだ眼が僕を見つめていた。 「……ごめんなさい」  先生が、そう言った。  一瞬の出来事だった。  びちゃ、という音と共に、生暖かい液体が僕の顔を濡らした。ぬるりと頬を伝う。咄嗟に拭った掌は赤く染まっていた。それはドリーの首から噴き出た鮮血だった。  断末魔の叫びすらなく、ドリーは地面に横たわった。濡れた鉈を手にした先生は、何一つ躊躇う事なく、ドリーの身体を解体していった。  僕は呆気に取られていた。  なんで。なんで、ドリーを。  疑問は頭の中でぐるぐると渦を巻いている。それを先生に尋ねることすら出来ず、僕はまだ掌に残るドリーの感触を必死に留めようとしていた。  記憶をバラバラにするような手際の良さで、先生はドリーの身体の欠片を拾い上げていく。そして地面一帯に向け等間隔にばら撒いた。  畑に種を蒔いているようだった。 「トム、見て」  先生は地面を指さした。僕は溢れる涙を手の甲で拭い、言われるままに視線を運んだ。 「バロメッツ、と呼ばれるものよ」  若草色の芽が土の中から顔を出していた。  むくり、と起き上がった芽が、被さった土を払いながら上へと伸びていく。ありえないスピードだった。脈動するポンプに押されるように、伸びる幹はあっという間に僕の身長よりも高くなり、一刻もしない内に両手で抱えられないほど大きな果実を付けた。一瞬のうちに辺りが畑のような景色になる。  先生は巨大な果実を一つもぎ取り、濡れた表皮をつるりと剥いた。中には全身の黒い毛を湿らせた一匹の仔羊が入っていた。外気に触れた仔羊は身体をプルプルと震わせ、小さな声でめええと鳴いた。その姿と鳴き声は、ドリーとよく似ていた。 「森に埋めた死体は全てこうなるの。どんな小さな肉片も、生前と同じ姿でまた生まれてくる。……なぜ掟を守らなくてはならないか、理解できたわね、トム」  僕は先生の言葉を必死に理解しようとした。でも、どうにも難しかった。果実の中には幼い頃のドリーと同じ姿の仔羊がいる。けれど、この羊は絶対にドリーではないのだ。ドリーは僕の目の前で死んだ。先生が殺した。  硬直する僕に先生は声をかけた。やけに優しげな声だった。 「今はいいわ。ひとまず収穫を手伝って。羊を村の人達に引き渡すの。そうすれば皆、飢えずにすむ」  ずらりと並ぶバロメッツの木から、先生は果実を一つずつ捥いでいった。僕はのろのろと立ち上がり、無言のまま先生に続いた。薄桃色をした果実の表皮にゆっくりと触れると、生暖かな温度と心臓の脈動が伝わってきた。僕は作業に没頭する事にした。余計な事はもう何も考えたくなかった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加