バロメッツの森で

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 夕闇が迫る家の中。先生は身体を起こして待っていた。僕が戻ってくることを初めから分かっていたようだった。 「おかえり、トム」  先生はいつものように微笑んでいた。幼い時から見つめてきた笑顔で。  部屋の出入り口に突っ立ったまま、僕は確かめるように言った。 「……バロメッツなんだね、僕は」  いつか村人達が来た時に先生が言っていた事を、僕は覚えていた。  森で生まれたバロメッツは、本能的に森を離れることが出来ない。 「死体を種にして生まれたんだね」  ドリーの死体から産まれた仔羊はあれからすくすくと育ち、今ではドリーと変わらない大きさになった。僕は羊をミリーと名付け、喪失を慰めるようにいつもその首を撫でた。 「誰かの代わりなんだね」  先生の部屋で見た、一枚の絵画。そこに描かれていた一人の男性。僕と同じ色の髪を持ち、軍服を着て先生の隣に座っていた人。  彼はもう、この世にはいないのだろう。  僕はきっと、あの森で生まれたのだ。  先生の目は、変わらず僕を見つめている。  いや、違う。先生は違う誰かを見つめていたのだ。僕を通して、ずっと。 「誤解よ、トム」  ベッドから先生が腕を伸ばす。僕はゆっくりと後退っていた。 「愛しているのよ、あなたを、本当に」  先生はベッドから這いおち、痩せた身体を引きずって僕に近づいてきた。濡れそぼった瞳が薄闇の中で輝いている。気が付くと僕は家を飛び出し、森へと続く道を駆け出していた。名を呼ぶ声が後ろから聞こえたけれど、振り返ることは無かった。    森がざわめいていた。  一歩一歩を踏み出す事に、木々が揺れて僕に語りかけた。  おかえり、おかえり、おかえりなさい。  母なる森に、おかえりなさい。  僕は夢中で走った。森が脈打っている。そのリズムは、抗いようのない心地よさを僕に与えた。人として育った柔らかな心では、受け止め切れる筈もない激しい奔流。押し寄せる多幸感の波に翻弄され、とめどなく溢れてくる感涙に溺れそうになりながら、僕は母であって欲しかった一人の人間の事を最後に思った。  森の深部が近づく。  淡く暖かな光が、僕の輪郭をゆっくりとぼやけさせていった。
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