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『父さんは翠さんを見つけられなかったのか?』
そんな残酷な問いを飲み込む。
「帰ったら位置情報がわかるようにしようか。そしたら、翠さんが迷子になっても俺が見つけられる」
翠さんの一歩前を歩き、彼女の顔を見ずに言った。
それでも、彼女がどんな表情をしているのかは、声で分かった。
「そんな迷惑はかけないわ」
それは俺を拒絶する言葉ではなく、諦めのように聞こえた。
自分の世界の全てはあの部屋だ、と。
他の女と死んだ男に与えられたあの部屋が、自分の檻だと。
それが、たまらなく嫌だと思った。
だって、俺は知っている。
方向音痴だという彼女が、俺と母さんが住んでいたマンション近くに度々来ていたことを。
最初は迷ったかもしれない。
住所を調べてタクシーを使ったのかもしれない。
それでも、いつしか道を覚えたのだろう。
何度か、最寄駅で見かけた。
彼女は、自分が俺たちを見ていると思っていたかもしれないが、俺も彼女を見ていた。
今にも泣きそうな表情で父さんと母さんを見つめる翠さんに、何度声をかけようとしたかわからない。
もう来るなと、だから結婚するなと言ったんだと、父さんのことなんか捨ててしまえと、言いたかった。
その度に、あの日、真っ白なウエディングドレス姿で「幸せになる」と言った彼女を思い出した。
あの言葉は彼女の決意で、願い。
そして、俺の呪い。
「じゃあ、翠さんが出かける時は俺も一緒に行く」
「……え?」
「翠さんが迷子にならないように」
「ならないわ」
「買い物、楽しくなかった?」
「……」
翠さんの返事の代わりに、二人が持つ買い物袋がカサカサと音をたてる。
「また、買い物に行こう」
俺は呪いを解きたい。
あの日、翠さんに会いに行った自分自身にかけた呪い。
父さんが会社のために結婚すると知って、母さんに頭を下げる父さんを見て、怒り狂う母さんを見て、俺のすることは間違いじゃないと思った。
母さんのためじゃない。
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