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すっかり日が暮れていた。ニナは、帰り道を急ぐ。
男は、明日も来いと言った。
服を着ていると、また強引にキスをしてきた。今度はことに及びそうになったので、その分のお金をよこせと言ったら、興ざめしたのかさっさと帰れと言って来た。
よく分からない人……。
なんであんな貴重な本を捨てたんだろう。しかも、洗濯室の近くのごみ箱に。
私は卑しい洗濯女なんでしょ。なのになんでキスするの? なんでモデルに?
今更、気が動転して涙が出てくる。それを指で拭った。
はーっと息を吐いて気持ちを切り替える。
薄暗い安アパートの並ぶ一角に近づく。
アパートの出入り口に妹がしゃがんでいた。姉の姿を見つけて、立ち上がる。
「ねえちゃん」
「モナ」
妹が姉に駆け寄った。涙目で姉の脚に抱き着く。
「ねえちゃん、もうかえって来ないかと思ったぁ」
「ごめん、遅くなったね」
妹の頭を撫でていると、声を聞きつけたのか、弟を抱えた近所のおばさんが出て来た。
「ニナ、遅かったわね」
「おばさん、すみません」
「いいのよ、仕事だったんでしょ。それよりこっちこそ、ごめん。ニナの帰りが遅くなってるのに気づかなくってさ」
ニナは、えっと呟く。
妹が答える。
「とおさん、ねえちゃんが帰らないって、うちの中めちゃくちゃにしたの」
ニナは、苦しそうに顔を歪めた。
おばさんが弟の身体をゆすりながら言う。
「すごい音がしたからさ、勝手に入ったよ」
「おばさん、大丈夫でしたか?」
「あんなしょぼくれたヤツ、どうってことないよ」
「父は」
「出て行っちゃった。また飲みにでも行ったんだろ」
ニナの中に、一抹の不安がよぎった。父に酒代を渡して、暫く経つ。そんなに残ってない筈だ……。
「エリサじゃなくて、あいつが死ねば良かったのにね。あ、ごめん」
おばさんが露骨に言った。
ニナは困って微笑んだ。自分の中にもそんな気持ちはある。
「おばさん、ありがとうございます」
ニナは、そう言って弟を受け取った。
おばさんは、からっと笑う。
「困った時はお互い様よ」
おばさんは、弟の頭をくしゃくしゃっとすると、おやすみ、と言って帰って行った。
「おやすみなさい」
ニナは、有難くてまた目に涙が滲んだ。誤魔化すように妹たちとアパートの部屋へ戻った。
玄関のドアを開けると、妹が言ったように部屋はめちゃくちゃに荒されていた。
ニナは、溜息をつく。
明日も遅くなる。出かける前に言っておかねば。そう思い、朝までに戻って来るだろうかと気を揉み、また溜息が出た。
「ねえちゃん、しあわせにげちゃうよ」
「そうだね」
眠いのか、大人しい弟を妹に預けて、部屋の片づけを始めた。
妹が思い出した様に言う。
「とおさん、ねえちゃんのもの何か持ってったよ」
「え?」
ニナは、慌てて台所に向かった。
鍋などの調理器具を置いている棚も荒されて、多くが床にぶちまけられていた。棚に残った物のひとつに、酢漬けを作る用の小さな壷があった。ふたが横に丁寧に置かれていた。
ニナは、願をかける様に息を止めて壷を手に取った。中は空だった。ニナはこの世の終わりの様にうなだれた。
妹が遠くから姉を見る。姉に元気が無いのは分かった。
「ねえちゃん?」
ニナは、答えられなかった。生活の為に貯めていたお金を父に見つかって全部持って行かれた、などと説明する気力もない。もう、少しも動きたくなかった。
家の中を探されない様にいつも無理をして多めにお金を渡してたのに。追加を渡すのをうっかり忘れていた。なんで私ばかり、こんな目に遭わなきゃいけないの。家賃は? 税金の支払いはどうする気なのよ、あのクソ野郎!
一瞬にしてニナの怒りが頂点に達し、さっきまであった父に対する微かな憐憫があっけなく憎悪に塗り替わる。
死ねばいいのよ! あんな奴!
ニナは、壷を床に投げつけようとした。だが、砂粒ほど残っていた理性がブレーキをかけた。
割れた壷を片付けるのも結局私よ……。
ニナは、大きな溜息をついた。力無く壷を棚に戻した。
「ねえちゃん……ニール寝たよ」
怯えた様な声で、妹が言った。
ニナは、妹を見た。気を遣っているのが分かった。
ニナは、一生懸命微笑んだ。
「何か、疲れちゃった。もう寝よっか」
「うん……」
妹弟の寝息を背中で聞きながら、ニナは、声を殺して泣いた。
私、ずっとこのままなんだろうか。やりたい事、何も出来ずに……。
ふっと、大学で出会ったあの男の事を思い出した。
裸になった代償として得たお金は、まだニナが持っていた。
微かな希望に思えた。
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